『偽情報による大衆操作 -恐ろしい欺瞞2-』
チエリ-・メッサン著 2007年 アルフェ出版
はじめに
現在、世界の未来は近東にかかっている。産業社会の発展の存続は、開発可能な石油とガスが最も大量に埋蔵しているこの地域を利用できるかどうかに依存する。その理由で、近東は人間的な問題とは独立して列強とその野心が衝突する閉ざされた戦場となった。
この本を味わってもらうために、専門家にとっては自明の国際関係の機能の原則をいくつか念頭においてもらいたい。ここにそれを記す価値があるだろう。
国際政治は巧みな技であり、個々の行為者は多くの利益を失う危険があるだけに、一層慎重にならねばならない。そのため、各国はできるだけ長い間鉄を熱しておき、やむをえない状況になるまで手の内を見せない。三角ゲ-ムが規則となる。偽善からではなく戦略的必要からである。そのため、正しい情報も不完全であれば国家の意図について誤った概念を与える可能性がある。
国家は少なくとも3つの介入手段を持つ。公式の介入、非公式の介入、秘密の介入である。政府と彼らの外交官は公的に責任を取ることができるような言説を用いる。多額の補助金を与えられ緊密に管理されている彼らの企業、彼らのいわゆる「非政府組織」はそれにかわる言説をテストし、政府の立場が変わった場合の影響を推し量る。秘密情報局は、公的に発言されたならば重大な結果をもたらすが対話には役立つ正確なメッセ-ジを伝える。
これらの異なる手段は互いの存在を知らないか、あるいは知らないふりをしている。外から見ればそれらは矛盾しているように捉えられる。実際は、これらは各国にとって手の内を構成する異なるカ-ドにすぎない。
個々の国家は自国の固有の利益に従ってのみ行動する。時には、不幸なことに、国を統治する者達の個人的利益に従って行動する。この行動を道徳的に裁くことは、ビリヤ-ドやポ-カ-を行う賭博者を道徳的に裁くようなものである。皆がゲームの規則を用い、そこには利己主義や利他主義の概念が入る余地はない。それらの概念は意味を持たない。博愛的な者は一人もいない。
私達がせいぜいできることは、目前の利益に従って行動する国家と長期的な利益を考えられる国家を区別することくらいだ。前者は戦争を他の選択肢と同等にみなす。後者は常に戦争を最悪の解決法と捉える。結局のところ、政治的に正しい解決法などは決して存在しない。正しい解決法があれば、政治に頼らなくても自ずからそれが不可欠となるからだ。統治者が選択を迫られるのは悪い選択肢しかない時だ。どの選択肢が最もましな手段であるかを決めなくてはならない。そのため、偉大な人間とは名誉を追い求める人間ではなく、名誉という非常に主観的な感覚を持つ者だ。
近東は新たな爆発の前夜にある。アメリカはこの地域に大軍を集め、軍艦を派遣する。イスラエルは報復を望みシリアとイランを脅かす。いかなる火花も火薬に火をつけることはないだろう。しかし、個々の賭博者は口実を設けていつでも戦争を決定することができる。戦争が決まった地帯に限られるか、それとも世界の他の地域に拡大するか、確信もないままに戦争を始めることができる。どの国の政府も最悪の事態を避けようとするが、どの国の参謀本部も最悪の事態に備えている。
伝統的なゲ-ムの規則がもはや機能しないため、状況は一層触発の恐れがある。五カ国による世界総裁政府(安全保障理事会常任理事国のアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国)を生んだ列強の力の均衡の原則は死んだ。アメリカという唯一の大国が他の全ての国を合わせたよりも優越した軍事力を持つ。アメリカはこの立場を利用し、濫用し、国連を無視して全ての権利を不当に得る。
ジャック・シラクが2003年3月に述べたように、価値のある唯一の統治は法の統治である。また、2007年2月にウラジミ-ル・プーチンが強調したように、「世界の一極支配は正当ではなく、効果的ではなく、道徳的でもない」。米国一極支配を問題視することはアメリカを愛するか否か、親米か反米かという冷戦時代の時代遅れの語彙に従った考え方とは何の関係もない。「誰が戦争と平和を決めるのか?」「アメリカ国民は自分達の運命の主人であるか、それとも帝国主義の道具にすぎないのか?」という点を知ることは政治的な問題である。
フランスとロシアの大統領の言葉を引用したのはアメリカの帝国主義を拒否して他の国の帝国主義を支持するという意味ではない。ワシントンの覇権主義に対抗して軍事同盟を作っても平和を守ることにはならない。その逆である。単独で行動しても平和を守ることはできない。
世界的に見て、平和はアメリカの戦争機械を麻痺させることのできる複数の同盟を結び全ての国のエネルギ-調達を保証することによって構築されるだろう。地域的に見れば、全ての国の平等を実現することによって平和が構築されるだろう。私達の理想—私個人の理想であり私が率いるRéseau Voltaireの理想でもあるもの—は、臆面なき同盟関係ではなく個人の自由と相互尊重である。
これらを述べた後で、この本の構成について簡単に説明させて欲しい。
私はまず、主題の理解を妨げる公に認められたいくつかの概念を否定することから始める。そのため、メディアによる情報操作の3つのケ-スを取り上げ、誠実な記者が偽情報を本気で正しいと認め報道するプロセスを解剖する。これらの例により、読者は今後メディアによる操作に騙されないようになるだろう。この機会に読者は近東に関する全ての偏見を問題視してほしい。
私はレバノンに関する出来事の推移、ブッシュ大統領にシリアとレバノンへの攻撃を許すアメリカの法、安保理決議1559、元首相ラフィク・ハリリの暗殺、シリア軍の撤退、杉の革命などを描写する。
私の調査は、入手できる要素や、私自身が実現した対談、得られた証言に助けられ、これらの出来事についての再解釈を促した。その結果は、一般に認められている解釈とはあまりにも異なるため、読者はこの嘘の争点について疑問を呈するだろう。
そこで、私はイスラエル国家の設立とその正確な性質について分析しよう。近東についての私達の疑問はイスラエル建国を私達がどう捉えるかに関係があり、私達がこの国家とその政治システムとその国民を混同していることに基づくからだ。これは重要な点であり、それにより反ユダヤ主義、反シオニズム、反イスラエルの間の混同を除去することができる。
この根本的な点を理解してもらった上で、次章では近東の「再形成」と控えめに表現される支配計画を調べる。国々の抵抗を防ぐため、国家を分裂させるためにいかにして内戦が引き起こされ、いかにして新たな国境線が引かれるかを見てゆく。
最後に、これらの情報をもとに、2006年のイスラエルによるレバノン攻撃の間、実際には何が起きたのか、この悲劇が地域全体にいかなる影響をあ及ぼしたかを分析する。それにより、近東の状況が全く異なる様相を取って見えてくる。
この本を書いた私の目的は、読者に現在行われている政治・軍事ゲ-ムを理解するのに有用な鍵を与えることだった。ジャーナリストは自著の中で一つの立場を取ることはしない。それでも多くの著者が、テキストを通して遠回しに個人的見解を分泌させている。私は人々の見解の描写においてできるだけ客観的であろうと努めた。しかし、だからといって、受動的な語り手の立場に身を置いたわけではない。分析の間は中立であろうと努めたが、分析が終れば自分が見たことに対して無感動でいることはできなかった。私は、周囲の悲劇の数々を前にして私達は責任を持つと根本的に考えている。そうである以上、私は一つの立場を取ることになり、自分の立場を明確に述べる。
この本は西側社会の支配的利益に反する。大きな中傷を受けることを予想している。読者には、私の意見を共有するように要請しない。各自が批判精神と裁量の自由を持っている。反対意見を知るようにしてほしい。もっとも論拠を持たぬ辛辣な批判に怖気づくようなことがあってはならない。
意見が異なる人々と互いの結論について議論するのは大賛成だ。公の場での議論に招待されれば、時間の許す限り謹んでそれを受けよう。
プロロ-グ
今から7週間前、ベイル-トの大衆地区での出来事である。2006年9月28日のその日、ここは広大な遊歩道だ。トラックとブルド-ザ-は瓦礫を片付けた。巨大な爆弾の下に崩壊したビルのかわりに-急いで地ならしが成され-広漠な土地がそこにある。群集が道を急ぐ。警察によればその数は八十万人。あるいは百万人かもしれない。湾岸諸国からマグレブ地方まで、アラビア語のテレビチャンネルはほとんどが生中継で、数千万人の視聴者のためこの出来事を放送する。
招待客の座席が設置された。一方に政治家達、主要な党の幹部とその外国の客。もう片方に戦死した若い抵抗者達の家族。その前の演台では弁士と芸人が次々に現れ、公衆を辛抱させている。
まもなく、首に賞金が懸かった男がそこに現れるだろう。彼を捕え殺害するために始められた戦争は無駄に終った。イスラエルの爆撃機が死を撒きに来て以来、彼を見た者はいない。彼は、自分が打ち破った者達に挑戦するために来る。一人の狙撃者だけで、あるいは海上のフリゲ-ト艦や航空機からのミサイル一発だけで彼を除去することができるだろう。
突然、数十機の戦闘機が地中海を越えてレバノン領空に展開した。戦闘機は防御態勢を形成し、どこからともなく演説台に上る一人の男を守る。力強い歓声がヒズボラの軍歌を歌う。ワシントンとテルアビブでは、ターバンを巻いたこの男を見て悔しがる。アラブ人の近代最初の勝利を勝ち取り、フランスの二枚舌を利用して「帝国」を馬鹿にしようとするこの男。
抵抗運動の指導者ハッサン・ナスララは遮蔽ガラスの向こう側から群集に挨拶する。そして、自国民と声を合わせて国家を歌い始める。解放された祖国の色の風船が放たれる。一時間後、彼は自分がこの戦争の犠牲によって自国に敬意を表したこと、一つの軍隊ではなく、50年前からこの地域に死を撒き散らす一つのイデオロギ-、すなわちシオニズムに対して戦ったことを宣言する。彼は、兵士たちの勝利をレバノン国民全員に提供すると言う。群集は拍手喝采し、歌う。
演説が終るとボディガ-ド達が彼の前に立ちはだかる。ハッサン・ナスララは秘密の場所へと姿を消す。パリでは空の防衛隊へ撤退命令を出す。フランスの戦闘機は撤退し、ル-マニアを訪問中のジャック・シラクは作戦終了の情報を受け取り、微笑む。
偽情報で世論を操作する
プロパガンダの諸原則
私達が戦争を知るのはマスメディアを介してである。しかし、リポ-タ-の映像や生中継のコメントにも関わらず、私達には戦場が見えない。私達が見るのはその表象だけだ。事実でなく、戦場の表象に従って私達は自己の判断を形成する。そのため、メディアの表象そのものが第二の戦場となり、そこでは同じ首謀者達が世論を征服するために衝突し合う。
レバノンに対する戦争を始めるためには、国を暴力の中に陥れる目的の不安定化だけでは十分ではない。世界の世論に爆撃と死を容認させる、あるいは望ませるために、世論を不安定化する必要がある。
通信社の機能やジャ-ナリストの職業倫理について議論するつもりではない。近代のコミュニケ-ションの技巧の発展を嘆くのでもない。これは軍事的現実なのだ。マスメディアを通じて偽情報による世論操作を行うのは戦争技法の一つの側面だ。今では全ての国の軍隊が心理戦争のための特別部隊を備えている。
敵を憎むべき犯罪の犯人にしたてあげ、それに世論を敵対させることや、敵国民に彼らの指導者の失敗を伝えて士気を失わせることは新しいことではない。しかし、近代の通信手段は特に情報伝達に欠落があり、記者を操作することが前よりも容易になった。嘘を伝えるため本職の記者を買収する必要はもはやない。
この目的でアメリカ、イギリス、イスラエルは彼らの軍隊の内部に特別部隊を設けた。これらの部隊は彼らの活動を互いに調整するよう養成された。この組織は偽のニュ-スを急速に広い地域へ広める能力を持つ。この作業によりニュ-スは確認ではなく解説(コメント)の対象となる。このシステムは「情報の騒音」を作り、人々の注意を非重要な主題へ引き付け、批判精神を無力化する。また反対意見が人々に見えないようにする。反対意見の発言者を妨害したり信用を失わせたり、疎外したり、除去したりすることでそれが行われる。
偽情報普及はニュ-ス専門チャンネルの発展により技術的に容易になった。この種のメディアの出現が、1989年のティミショアラの演出を可能にした。アメリカのテレビ局CNNは手足を切られた死体を見せて、チャウシェスク政権で拷問を受けた犠牲者の死体置き場にあったものとして提示した。実際は死体公示所にあった死体であり、検死がすでになされたものもあった。映像伝達の即時性だけでその解釈を信用させるのに十分なのだ。かつてはこの速さが映像の偽造の不在の保証だと言われた。実際は、その速さが映像の解釈の操作を容易にしていたことがわかる。それ以来、心理戦争局はスク-プの誘惑とメディア間の競り上げを利用し、メディアに作り話を提供し、記者がニュ-スの真偽を確認せず報じるようにすることができるようになった。経済システムのせいで、記者は急いで仕事をしなくてはならない。情報は事件の絶えざる連続となり-新たな情報は前の情報を追放し-理解の容易さを失う。
この情報の喧騒を管理するため、アメリカの心理戦争専門家は「3D―2Sの規則」と呼ばれるものを用いる。
3D
Delay 邪魔な情報を、その重要性が失われるまで差し止める。
Distract 非重要な主題によって注意をそらす。
Discredit 制御不可能な情報源を中傷する。
2S
Spotlight 重要ではない細事に議論を集中させる。
Scapegoat 下役やスケ-プゴ-トに責任を負わせる。
イラク攻撃の際、アメリカ・イギリス・イスラエルは彼らの特別軍事部隊を国連の監視団に潜入させた。特別部隊は根拠のない報告を書き偽の目撃者をメディアと接触させた。これをノ-ベル賞作家ジョゼ・サラマーゴは「嘘の国際同盟」と呼んだ。
アメリカでは、国防省にアブラムス・シュルスキ-が設置した特別計画局(Office of Special Plans)の存在が2002年1月、ワシントンタイムズ紙で語られた。(“U.S. seeks al Qaeda link to Iraq”,Rowan Scarborough, Washington TImes , 2002年1月14日。”Pentagon Sets Up Intelligence Unit ”,Eric Schmitt and Tom Schanker, New York Times,2002年10月24日も参照。 )この機関の詳細はシ-モア・ハ-シュにより、ニュ-ヨ-カ-紙の華々しい記事で暴露された。(« Selective Intelligence »by Seymour M. Hersh, The New Yorker, 2003年5月12日) 退役将校のカレン・クイアトコウスキがその情報を確証し補足した。(« Career Officer Does Eye-Opening Stint Inside Pentagon »by Karen Kwiatkowski, Beacon Journal, 2003年7月31日、”Pentagon Office Home to Neo-Con Network”by Jim Lobe, Inter Press Service, 2003年8月7日)彼女の同僚のジョン・J・コカルが2003年11月14日に奇妙な状況で死亡しているのが発見された。コカルは記者に会う準備をしているところだった。2003年半ば、メディアの好奇心から逃れるため、特別計画局はペルシャ湾北部対策局(Nothern Gulf Affairs Office)と名を変え、その主な活動は戦略軍(核・宇宙問題監査担当)に移された。戦略軍は5つの軍(空軍、海軍、陸軍、海兵隊、特殊作戦軍)の内部にプロパガンダ局を設立した。
イギリスでは国防省のロッキンガム委員会の存在が1998年1月21日に初めて庶民院国防委員会の公聴会で予備軍長官のリチャ-ド・ホ-ムズ上等兵によって語られた。元閣僚のマイケル・ミ-チャ-も、この機関が米国防省の特別計画局に相当するものであり、国連の軍縮監視員を操作し回避的な報告書を作ったと述べた。(« The very secret service »by Michael Meacher, The Guardian, 2003年11月20日)ロッキンガム委員会については、UNSCOM(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)の元査察官スコット・リッタ-がエジンバラのサンデ―ヘラルド紙の記者ニ-ル・マッケーにその存在を認めた。(« Blair’s secret weapon »by Neil MacKay, The Sunday Herald, Edimbourg, 2003年6月6日)ついでハットン卿の調査委員会がその存在を証明した。国防省の専門家デヴィッド・ケリ-博士が2003年7月17日に謎の死を遂げた。彼はBBCにロッキンガム委員会の活動について話す準備をしていた。
イスラエルでは、これに相当する機関について、2003年11月に発表された記事の中で元安全保障補佐官のシュロモ・ブロムが述べている(詳細は明かされなかった)。(« The War in Iraq : An Intelligence Failure ? » by Schlomo Brom, Strategic Assement, 2003年11月)これを知ったイスラエル国会では大きな動揺が起きた。この機関の活動の費用も、後に行われるイラク秩序維持委員会への援助と同様、90億ドルの銀行保証の形でアメリカが支給した。(2003年11月24日のエルサレム・ポスト参照)
この国際軍事装置が、イラク攻撃に同意させるため世論を操作した。その活動は三つの主要な嘘に集中した。
---サダム・フセインはライバルを殺し反対勢力を過酷に弾圧する東洋の単なる独裁者ではなく、サディストであり、人道に対する罪を犯している。
---サダム・フセインは自由な世界を破壊しようという固定観念を持ち、北朝鮮やイランと秘密の軍事協定を結んだらしい。ウサマ・ビンラディンの率いる世界的なイスラム主義者の陰謀を支持したという。
---サダム・フセインは西側世界を45分以内に攻撃できるミサイル発射装置を含め大量破壊兵器を保有するらしい—国連の査察団には隠しているが--。そのためイラクの脅威は一層深刻であろう。
この三つの論拠は今日ではグロテスクに見えるが、国連の安全保障理事会では真剣そのものにコリン・パウエル将軍によって提示された。これらの嘘が軍事介入を正当化し、すでに65万人の人間の生命がそのために奪われた(最も評価の高い統計学者の出した数字)。
この同じ世論操作の装置が、レバノンに対する戦争、またシリアとイランに対する戦争へ大衆を賛同させるために起動された。
三つの主要な嘘
---ヒズボラはイスラエル占領に対する人民抵抗運動ではなく、テロ集団である。シリアはパレスチナ、レバノン、イラクの抵抗運動の後方基地ではなくテロ国家であり、政治的暗殺を実践し、元レバノン首相ラフィク・ハリリもシリアが暗殺した。イランは民主国家ではない。なぜならこの国はショア-を否認しイスラエルを地図から消すこを望む狂信者に統治されているからだ。このメッセ-ジは「アフマディネジャ-ド=ヒットラ-」というスロ-ガンに要約される。
---イランの推進力で西側諸国に敵対する軍事同盟が形成された。この同盟はイラク南部、シリア、レバノンを含む。このメッセ-ジは「シ-ア派三日月地帯」に要約される。
---イランは原子爆弾を保有しようとしており、それを国際原子力機関に隠しているため、シ-ア派の脅威は一層深刻である。このメッセ-ジは「イランの脅威」に要約される。
これらは冗言のように見えるが、今も機能し続けている。
以下で説明するように、この機会に情報操作軍事部隊がレバノンのハリリ—ジュンブラット派、ロンドンで最近作られたシリア国民救済戦線、ワシントンのイラン人亡命者からなるムジャヒディンを演出する。
ところが、情報操作システムがいかに強力で精巧なものであろうと、それが完全に勝利することはできない。各個人は批判精神を持っており、その能力を用いることで常に嘘から身を守ることができる。
2006年11月、Réseau Voltaireは国際会議Axis for Peace(平和の枢軸)を開いた。帝国主義反対を唱える人々が集まった。37カ国から集まった50人の参加者は特にこの問題について議論を行った。責任者の立場にある政治家、外交家、軍人、記者、活動家からなる参加者の中でドイツの元国会議員アンドレアス・フォン・ビュ-ロ-は「嘘の国際同盟」に対する自由精神の対応を以下のように述べた。「アメリカは巨大な兵器庫を持つため、非友好的な国、強情な国、中立国、さらにはアメリカの同盟国に対してさえ、アメリカの政策に従わせるように強制することができます。特に民主国家では戦争の人気は低いため、軍隊がアメリカの兵器庫で最も重要な武器だと考えてはいけません。今日、最も重要な道具はメディア操作です。米国防省は偽情報普及と世論操作のために6億5千5百万ドルの予算を与えられています。操作の対象はアメリカの戦争政策に従うことに乗り気ではない同盟国の世論です。陰謀はCIAの専売特許ではなくなりました。今では米国防省は、メディアを、さらにメディアを介して公衆を操作するためテロを含めた秘密の作戦を行うことを議会から許可されています。テロ防止政策においてアメリカを援助することの重要性を世界中が納得するためです。出版社を買収し、記者や大学教授を抱きこむためのカネが存在します。
私達が直面する環境では真実だけが戦争の犠牲者ではありません。大衆、メディア、国連総会は政府による純粋な嘘や捏造資料を強制的に与えられます。それらの証拠が偽物だと知っているCIA専門家の抗議を引き起こすことさえあります。この日常的なプロパガンダに直面し、情報に均衡を与えるために、私達は写真、ビデオ。電子メ-ル、声や電話の記録、さらには翻訳が人々を支配し覇権国の政策に従わせるために捏造された可能性があることを理解しなければなりません。
ペンタゴン、CIA、モサドと彼らの衛星がメディアに対して行う心理作戦を破壊することが私達の今後の最も重要な任務です。奇妙に見えるかもしれませんが、メディアで毎日のようにアルカイダ、ビンラディンあるいはザルカウイが引き合いに出されるのに対して、“犯罪で得をするのは誰か?”としつこく問うと、しばしば公式の偽情報とは反対の観点から物事が見えてきます。私達はプロパガンダ作戦を見つけ出すために、触れることができ、確認することができる証拠の獲得に固執するべきです。ネット上の告白や、ビデオや録音資料、拷問によって得られた証拠などは、確認可能な要素の裏づけがない限り信頼性はありません。」
私達は早速この方法を実践し、ヒズボラが国際テロリズムに属するという偏見に疑問を呈することにしよう。
ヒズボラを告発する
一つのイメ-ジが今もなおヒズボラを1983年の仏米兵士に対するテロと1985年の記者人質事件(ミシェル・スラとジャン=ポ-ル・コフマンが人質になった)に結びつけている。しかし、それは誤りである。これらの行為はシ-ア派戦士によって実行されたが、彼らはヒズボラのメンバ-として行動したわけではない。当時ヒズボラはまだ正式に形成されていなかった上、抵抗運動は紛争を拡大しないよう細心の注意を払っていた。この不確かな記憶に、一つのアナクロニズムも加わる。世界の大衆は中東の時事問題を注意深く見守ることはないため、内戦の時代と現在の時期を混同する。ヒズボラが政党になった時、公衆は1980年の恐ろしい事件(ヒズボラの活動家達も被害を被った)と21世紀初頭の政治状況を重ねる。この混同は外国のテロをヒズボラのせいにし、レバノンの人民抵抗運動を国際テロ集団として提示するために利用される。
アルゼンチンの最高裁判所は、1992年と1994年に起きたブエノスアイレスのテロの犯人がイスラム教徒であるという仮定を棄却し、イスラエルの犯行であるという説を採った。情勢を変えるため、新保守主義者がこの陰謀を計画したという。ブエノスアイレスの2人の高等司法官が参加した2006年5月ワシントンでの会合の後、政府と司法部に強い圧力がかけられた。それに応じて、オスカ-・アブデュラ・ビニに率いられたアルゼンチン市民グル-プがブエノスアイレスの大審裁判所にアメリカユダヤ人委員会(AJC : American Jewish Committee)と、検事のニスマン・ブルゴスとマルティネス・ブルゴスを起訴した。
オスカ-・アブデュラ・ビニはアルゼンチンの公衆によく知られている。カルロス・メネム大統領は精神科医ビニの患者であった妻に薬を過剰摂取させて中毒させるよう頼んだ。ビニは大統領の悪徳警官から患者を守った。
アメリカユダヤ委員会は1917年のロシア革命の直後に作られ、当初は反共産主義協会だった。雑誌「コメンタリ-」(Commentary)を出版し、これはワシントンの政権のネオコンの論理のプロパガンダ紙となる。(Commentary Magazine : A Journal of Significant Thought and Opinion : 1945-1959, by Nathan Abrams, preface of Edward Lullwak, Vallentine Mitchell & Co Ltd, 2005)この団体はユダヤ人社会の内部で活動する偏向的組織であり、ユダヤ人社会を代表する組織ではない。過度の行動と世論操作は彼らの習慣である。
アメリカユダヤ委員会とオスカ-・アブデュラ・ビニの間の論争の争点を理解するためにブエノスアイレスのテロを振り返ってみよう。
1992年3月17日、激しい爆発によりイスラエル大使館が破壊され、隣のカトリック教会と小学校が大きな損傷を受けた。このテロで29人が死亡し、242人が負傷した。
最初、捜査員はイスラム教徒が犯人であると考えた。テロはパレスチナ人の自爆テロリストの犯行であるとされた。犯人はトラック爆弾を用いた。イスラム主義ジハ-ドに属し、イスラエルによるヒズボラ指導者シェイク・アッバス・アル=ムサウィとその家族の暗殺に対する復讐を望んだという。パキスタン人のグル-プとイラン大使館の文化担当官モシェン・ラバニがこの作戦の計画を立てたという。ラバニはドイツで取り調べを受け、証拠不十分で釈放された。
1994年7月18日、第二の爆発でアルゼンチンイスラエル共済協会(AMIA)の建物が破壊され、85人が死亡し、300人以上の負傷者が出た。
最初は、捜査員はこの事件でもイスラム教徒が犯人であると考えた。テロは29歳のイブラヒム・フセイン・ベロによって実行されたという。ベロが自動車爆弾を運転した。数年後、ヒズボラのメンバ-であるイマド・ムグニエに対する逮捕状が出された。アルゼンチンの元イラン大使ハディ・ソレイマンプ-ルはイギリスで取り調べを受けたが証拠不十分で釈放された。
決定的な結論に見えるこれら全ての要素が、何年も前から全ての百科事典に繰り返し書かれている。しかし、いかなる判決もこれらが正しいとは認めていない。それ以下である。捜査官はイスラエル人とアメリカ人が彼らにささやいた説を徐々に壊してゆき、全く反対の仮定に到った。二つのテロは、アルゼンチンのユダヤ人社会の反シオニズムを破壊するためにイスラエルの諜報員が行ったというものだ。
捜査官のあいまいな態度は、政府設立と蜂起が繰り返すアルゼンチンの波乱に富んだ政治状況から説明できる。現在まで、この二つの事件のどちらにおいても、決定的な判決が行われていない。そのため各自が手続きの矛盾した行為を準拠として都合の良い結論を引き出すことができる。
第一のテロの調査を担当した予審判事アルフレド・ホラシオ・ビソルディは2002年3月5日に国会の調査委員会で証言した。彼は驚くべき事実を明かした。
ビソルディ判事によれば、メニ・バッタグリア警視が大使館に対するテロの捜査の責任者だった。彼は非公式に、近東でこの種のテロに関して長い経験を持つと主張する米大使館のグリ-ンベレ-とイスラエル大使館警備責任者ロニー・ゴルニ-に補佐されていた。この「専門家達」の意見に従い、警視は直ちに自動車爆弾の説を採用しフォード小型トラック100のエンジンの一部を発見したと記載した。
犠牲者の正確なリストを作ることは不可能だった。なぜなら、不思議なことに、信用されたイスラエル外交官のリストは大使館の現実の職員と一致しなかったからだ(そして、それについては説明されなかった)。バッタグリア警視は検死を望むビソルディ判事に反対し、検死をしても新しい要素は得られないと主張した。判事が固執すると、アルゼンチンの大ラビが、ユダヤ人の犠牲者の検死は冒涜行為にあたるという理由を挙げて反対した。最終的に検死は全く行われなかった。
司法官は二つの点について疑問を持った。なぜ大使館が空になるのを待って攻撃したのか?数時間前には盛大に百人ほどのユダヤ人の重要人物を迎えていたにも関わらず。なぜ自爆テロリストを使ったのか?小型トラックを大使館にぶつけるのに、その必要はなかっただろうに。
強制的に与えられた説にますます疑いを表明した司法官は情報局(SIDE)副長官の訪問を受けた。ジェラルド・コンテ・グランドは彼を諭す任務を与えられていた。
この訪問でますます疑いを深めた司法官は重要証人の尋問の際、不意に警察署を訪れた。テロ直前に空港へイスラム教徒の集団を運んだことを認めたタクシ-の運転手である。イスラム教徒達は運転手に、この地区が地獄のようになる前に早く離れるべきだと言ったという。ビソルディ判事自身が尋問を行った。タクシ-運転手は判事を警官と同じくらい愛想が良い相手だと信じた。タクシー運転手は自分の身分を述べることは拒否し、自分が「イスラエルの人間」であると自己紹介した。イスラエル軍の大佐であり、六日戦争で戦ったと主張した。
第二の捜査に関する要素も同じくらい教訓的である。本物とされる偽のイスラエル警官がアルゼンチンの警察署や刑務所を自分の家のように歩き回り、証人に圧力をかけて手続きの枠外で尋問を行っている。アルゼンチンの法廷で説明するよう求めると、この人物は突然姿を消した。イスラエル政府はこの人物の存在を否定した後で、最終的に彼を雇っていることを認めたが、彼の尋問には反対した。
信憑性のない点が多く非合法の行為がたびたび行われたため、アルゼンチンの法廷は立ち入り禁止にして様々な書類を調べた。法廷は、最初に認められた説とは逆に、自爆テロリストが運転していた自動車爆弾などは存在せず、大使館のテロにおいても、アルゼンチンイスラエル共済協会のテロにおいても、爆発物は建物内部に仕掛けられていたことを示す科学的調査を有効と認めた。
自動車の由来や運転手について言われたことは全て無効とされた。
公聴会の翌日、ブエノスアイレスのイスラエル大使館のスポ-クスマンはこの結論を嘆き、「最高裁判所の判事達は反ユダヤ主義者だ」と非難した。この非難は滑稽である。イスラエルの政治が批判されるたび、反ユダヤ主義批判で表面が修復される。
この事件を完全に解明するには、アルゼンチンの司法機関がさらなる独立性と忍耐を持つことが必要だろう。しかし、この問題についても多くのことが言える。
まず第一に、テロが自爆自動車ではなく建物に爆弾を仕掛けて行われたことに気づくまで10年もかかるのはおかしい。
また、ブエノスアイレスのテロでの嫌疑に基づいて「国際テロリズム」に関するあらゆる理論を立てた専門家達がこの嫌疑が嘘だと分かった後も自分達の記述を訂正することは稀である。
「イスラム教徒のテロリズム」へ嫌疑をかけた大きなテロ(ブエノスアイレス、ニュ-ヨ-ク、バリ、カサブランカ、マドリッド、ロンドンのテロ)に関する司法捜査は相変わらず未完成であることを確認せざるを得ない。調査が未完成でもネオコン政府と彼らの「専門家」はそこから一般的結論を引き出すことができるからだ。
アメリカは自分達が犠牲になったテロの犯人を後になって変える習慣がある。それにより、その時代の真の、あるいは偽の敵を告発することができるからだ。9.11テロの場合にもそれが見られた。最初にウサマ・ビンラディン、ついでサダム・フセイン、そしてイランの関わりが主張された。
アメリカは今では、他国の歴史まで書き換えようと計画している。
アメリカユダヤ委員会(AJC)は2006年8月14日、CNNとFox Newsでヒズボラがレバノン抵抗運動の政党ではなく国際テロ組織でありアメリカの脅威であるという2週間の広告キャンペ-ンを開始した。AJCはその中でブエノスアイレスのテロを例に挙げている。
ヒズボラに対して行われた世論操作の手段は、ヒズボラのテレビチャンネルに対して一層強く用いられた。
抵抗の声を黙らせる
プロパガンダの不変原則はこれだ。嘘が真実に見えるように、反対者のいかなる声も嘘に反することを言わないようにし、倦むことなく嘘を繰り返すこと。そのため、イスラエルは正当防衛を理由にパレスチナ占領地域とレバノンへの攻撃を開始する前に、レバノン南部、シリアのゴラン高原、パレスチナの占領に対する抵抗運動のテレビチャンネル、アルマナールがヨーロッパ、アメリカ、オセアニアに達することがないようにした。
この検閲に関わった多くの行為者はその結果が悲劇的なものになると予想していなかった可能性がある。とはいえ、皆が矛盾した議論を妨害しイスラエルの嘘を助けた。ゆえに、全ての人間が、彼らが可能にした罪について責任がある。
また、検閲の歴史は、フランスと世界におけるイスラエル軍の圧力行使の手段について私達に多くのことを教えてくれる。
憶えておくべきことは、アルマナ-ルが1991年にヒズボラによって作られたテレビ局であり、2000年から衛星放送されているということだ。主にイスラエル軍の占領に関するニュ-スやシリ-ズ番組を、時々娯楽番組を交えながら提供する。
イスラエルとアメリカだけでなく、カナダ、オランダもヒズボラを「テロ組織」すなわち国家ではない敵とみなす。フランスとフランスに親しい国々はヒズボラと礼儀正しい関係を保っている。ヒズボラの正確な役割については後で触れる。今は、ヒズボラがレバノン民主制において主要な政党であるということだけを述べておこう。
アルマナ-ルはメディアであるにも関わらず、あるいはむしろ、メディアであるという事実のために、イスラエル政府とアメリカ政府の執拗な攻撃の的になった。
敵対関係は2003年5月3日、シリアを公式訪問した国務長官コリン・パウエルが記者会見にアルマナ-ルが参加することを拒否した時に始まった(« La TV du Hezbollah indésirable au point presse de Powell », Reuters,2003年10月29日)。同じ年の10月、アメリカの国務省はシリアとレバノンに対し、アルマナ-ルのシリ-ズ番組Al Chata(ディアスポラ)放映の予告について抗議を表明した。その理由は、この番組がイスラエル国家建国の誤った説を提示し、反ユダヤ主義を活発化するだろうからというものだった(« Un documentaire de la TV du Hezbollah accusé d’antisémitisme », Karim Marouni, Reuter, 2003年10月29日)。これらの圧力を考慮せず、アルマナ-ルはラマダンの間この番組を放映した。しかし、他のテレビ局はこれを再放送することを諦めた(« Un feuilleton d’Al-Manar TV accusé d’antisémitisme », Le Monde, 2003年12月6日)。最終的に、アルマナールはこの番組の放送を中止した。
すると、中東報道研究機関(MEMRI : Middle East Media Research Institute)はアルマナ-ルを禁止するためキャンペ-ンを始めた。MEMRIはワシントンを拠点とする強力なロビ-である。市民の主導権で作られた機関として提示され、議会や合衆国の通信社のためにアラビア語新聞の記事を無料で翻訳する。しかし彼らが選択する記事は偏向的であり、アラブ人指導者の信用を失わせる目的を持つ。実際は、この機関は1998年にイスラエル軍情報局の将校ヨタム・フェルドナ-とアルマ・ソルニックによって、イ-ガル・カルモン大佐の指揮下で設立された。中東フォ-ラムと自由なレバノンのための米国委員会(US Committee for a Free Lebanon)の責任者の一人はこの機関に雇われている。この人物については後に触れる。(« Selective MEMRI » Brian Whitaker, The Guardian,
2002年8月12日)
このキャンペ-ンを引き継ぐかたちで、フランスユダヤ人団体代表評議会(CRIF)が視聴覚最高評議会(CSA)に提訴を行った(« 2 décembre 2003 : le CRIF écrit au CSA au sujet des programmes d’Al-Manar », Lettre du CSA, No.179、2004年12月)。CSAはフランスの視聴覚分野を規制する任務を持つ、自称「独立行政機関」である。カーライルグル-プの元フランス代表、ドミニク・ボディが責任者を務める。
世界ナンバ-ワンのポ-トフォリオ管理会社であるカ-ライル・グル-プは世界の政治エリ-ト階層の集まりである。元国防長官のフランク・カ-ルッチに指揮されるこの会社の役員にはジョ-ジ・ブッシュ父、ビンラディン家、アメリカ人投機家のジョ-ジ・ソロス、ロシアの寡頭政治家ミハイル・コドルコフスキ-あるいは元イギリス首相のジョン・メ-ジャ-などが名を連ねる。元幹部の一人ブッシュJrが大統領になったことを利用し、グル-プは自社の利害に従いアメリカの対外政策に影響を及ぼす。コネクションを濫用し、投資の年率回収率30%を実現している。インサイダ-や汚職の事件で定期的に起訴される危険を冒している。メキシコの週刊誌Procesoがカーライル・グル-プについて私が行った調査を発表して以来、グル-プはビンラディン家と関係を絶ったと主張している。
ドミニク・ボディはカーライル・グル-プとのコネクションとCSA代表としての立場を混同しているようだ。『恐ろしい欺瞞』が出版された時、この本の一章がカーライル・グル-プについての調査に基づいて書かれていたため、彼の協力者はフランスの主要なラジオとテレビの責任者を執拗に攻撃し、私に発言権を与えないように説得した。ボディは地位を濫用し、フランス・テレビジョン社長に個人的に手紙を書き、検閲を認めた(La lettre du CSA no.151, 2002年4月23日)。
アルマナ-ルの話に戻ろう。通信社への新年挨拶の儀式の際、ボディは共和国検事に提訴し彼の目に「憎しみと暴力を扇動する」罪を犯しているアルマナ-ルの放送を妨害する手段を決定するためEutelsatの取締役会議長との面会を求めた(« Le CSA veut empêcher la diffusion d’Al-Manar », Reuters ; « CSA- M.Baudis dénonce la diffusion par satellite de « propos intolérables » »AFP,2004年1月20日)。
一週間後、イスラエルは「反ユダヤ主義防止国民デ-」を祝う。「反ユダヤ主義防止国民デ-」は政府によってアウシュビッツ殲滅収容所解放記念日の1月27日に決められた。この機会に参謀総長モシェ・ヤ-ロン将軍は宣言する。「アウシュビッツ解放後60年が経った今日もなお、反ユダヤ主義は姿と戦略を変えてユダヤ人の生命を脅かしている」彼はナタン・シャランスキ-と共に、参謀総長が作ったアルマナ-ルのシリ-ズ番組の抜粋の試写を企画した(« Israël dénonce une résurgence de l’antisémitisme » by Marius Schattner, AFP, 2004年1月27日参謀総長のモンタ-ジュビデオは2004年のDVDBeacon
of hatred : inside Hizballah’s Al-Manar television とワシントン近東政策研究所による転写本出版の基礎となった)。シャランスキ-はイスラエルの副首相とアメリカ大統領補佐官の地位を兼任している。彼はアメリカ大統領の演説の原稿を書くこともある。
イスラエルの軍のラジオはイスラエルがアルマナ-ルを欧州各地で禁止させるため様々な活動を開始したと発表し、CRIFの求めに応じたCSAのイニシアチブはこのキャンペ-ンの最初の成果であると述べた。この発言はイスラエル外務省によって確証された(« Israël veut l’interdiction de diffusion de la TV du Hezbollah en Europe »,AFP,2004年1月30日)。
2004年1月31日フランス首相ジャン=ピエ-ル・ラファラン(UMP :国民運動連合)は毎年恒例のCRIF晩餐会の場で、司法省不動産計画担当補佐官でありCRIFの顧問でもあるニコル・ゲ-ジと共に、イスラエル軍が作ったビデオカセットを試写したと述べた。ラファランは、アルマナ-ルの刑法に基づいた有罪判決を待たずにCSAと国務院がその放送を禁止できるように法制を変えるつもりだと述べ、聴衆を喜ばせた(« Le gouvernement va interdire les chaînes par satellite diffusant des programmes antisémites », Associated Press, 2004年1月31日)。首相の性急な行動は、アルマナ-ル非難が根拠を欠いており、刑事司法はこれを罰することはないという確信から来ているとしか説明できない。ラファランは自分を招待した人々を満足させるため、例外法を導入するほうを選んだ。
新たな措置は視聴覚機関に関する法律の中に急いで挿入され、国民議会と上院で承認され、7月10日に官報で発表された。その二日後にCSAは国務院に対し行政行為としての禁止を宣言した。この手続きについて質問を受けた外務省代弁者は「いかなる者も人種差別と反ユダヤ主義の表明を防止しようとするフランスの決意を疑ってはならない」と宣言する。そう言うことで、彼はCSAの独立が何を意味するかを垣間見せた(2004年7月28日の外務省記者会見)。
この告白に唖然としたレバノン視聴覚国民評議会は-レバノンの全ての政治家もこれに続いた-フランスに表現の自由を尊重するように呼びかけた(« Soutien de l’audiovisuel libanais à la TV Du Hezbollah », AFP, 2004年7月30日)。レバノンの評議会はまた、全てのアラビア語メディアに、8月12日にアルマナ-ルへの連帯を表明するよう求めた(« Journée de solidarité le 12 août avec la TV du Hezbollah », AFP, 2004年8月2日)。レバノン外務大臣ジャン・オベイドはこの係争についてメディアにこう述べた。「フランス司法に介入したくはないがこの事件には政治的側面が大きく支配していると思う。(……)イスラエル人やユダヤ人が犯した歴史上の不正行為を批判するたびに、それはユダヤ民族全体やユダヤ教への批判として受け取られる。」レバノン大統領エミ-ル・ラフ-ドその人が厳粛な声明を発表した。「アルマナ-ルに対するいかなる措置もレバノンのメディアへの損害となり、レバノンのメディアの視点をフランスや欧州の世論にもたらすことを妨げることになる。レバノンの衛星放送を通じて欧州の人々はアラブ人の大義の正当性を理解しイスラエルの侵略行為を告発し始めていた。」(2004年8月12日レバノン大統領声明)
論争のこの段階で、イスラエル参謀総長が作った番組の抜粋のビデオは欺瞞的であることが明白である。文脈から切り離された場面の数々は一見、ラファラン首相の言うように「見るに耐えない」。しかし番組の流れにおいては、それらの場面は風刺的であり、アングロサクソン系のシリ-ズ番組の多くの場面に比較できる-貶めている相手が同じ民族ではないという違いを除けば。このシリ-ズ番組がアルマナ-ルの他の番組よりはレベルが低いことが残念だと言うことはできる。しかし、アルマナ-ルが放送を中止した以上、禁止する口実に確固とした基盤を与えない。ラフ-ド大統領による非難が正しかったことは以下に引用するAFPの速報で確かめられた。「シリ-ズ番組以外にも、フランス当局はアルマナ-ルがイスラエル国家への政治的活動という口実でテロを擁護することを非難する。CSAの情報源によればイスラエル人を殺すために自爆する殉教者のイメ-ジを優遇する編集方針を持ちテロ犯人の葬儀を好意的に放映したり好戦的な歌や動画を流す。」(« Al-Manar, chaîne ennemi d’Israël qui verse aussi dans l’antisémitisme », AFP, 2004年8月20日)要するに、真の争点はただ1つ、欧州の公衆はレバノン人の視点を知ることができるかということである。
フランス当局の弁護をすれば、近東の公衆を対象として作られ、近東の人々にとっては明確な解読が可能な映像は、欧州の公衆には間違って解釈される可能性もあるだろう。欧州に近東の紛争を持ち込むことにも貢献するかもしれない。この問題はアルマナ-ルだけに特有ではなく、紛争地帯で作られた映像全てに存在する。この問題は、検閲ではなく、衛星チャンネルの世界化にあわせて視聴者を教育することによってのみ解決しうる。
表現の自由がアラブ人に適用される時、それを擁護する機関は少ない。Réseau Voltaireはレバノンに代表団を送りアルマナ-ル支持を示し、ヒズボラの副書記長シェイク・ナイム・カッセムに面会した。
予期に反して、フランス国務院はアルマナ-ルにフランスの新法に従うよう求めただけだった。アルマナ-ルは協定加入の書類をCSA提出した。CSAは拒否する理由がないので認可せざるを得なかった。CRIFはこれを大変遺憾に思った。そして、「首相の約束」を喚起し、CSAと行政判事の「独立性」についての敬意を表明しながら怒鳴り散らした。無意志的なユ-モアで、CRIFは「外国の圧力」を非難している(« Feu vert à Al-Manar : le CRIF dénonce des « pressions»étrangères »,AFP, 2004年11月22日 )。
国際協定に従い、フランスのCSAの放送許可の決定は欧州連合全体で適用される。
社会党の元首相ロラン・ファビウスが戦いに加わる。彼はラジオJ(「統一ユダヤ社会基金」が作ったラジオ局でCRIFの建物に所在)に出演し、「腹を立てている」と述べ、ラファラン政府の「二枚舌」に憤慨し、彼もまたCSAの「独立性」に対する高い観念を表明した(« France/Al-Manar : Fabius demande des explications au gouvernement)。
怒ったCRIFは新たな声明を発表する。「CSAがヒズボラのテレビ局アルマナ-ルと契約を結ぶ決定をしたことは、反ユダヤ主義プロパガンダをフランスが公式に許可したことと同じだ。各省間反ユダヤ主義防止委員会がまだ意味を持つならば、今こそ緊急会議を行うべきである。CSAが作り出したこの状況について共和国大統領の立場を知りたい。」(« Al-Manar : déclaration du Président du CRIF Roger Cukierman »,CRIF,2004年11月23日)社会党は有利な立場にある。社会党はアルマナ-ルを「テロと反ユダヤ主義のためのプロパガンダの道具」と形容する。党首のフランソワ・オランドはCSAに手紙を書く。「子供達を憎しみと殉教へ扇動する動画を何時間も繰り返し放送するヒズボラのチャンネルが、欧州連合の基盤となる諸価値と相容れない美辞麗句を伝えるために作られた彼らのプログラムを徹底的に完全に見直すだろうということがどうして想像できるでしょうか?」(« Al-Manar : M.Hollande demande des
éclaircissements au CSA », AFP, 2004年11月26日)またサイモン・ウイ-ゼンタ-ル・センタ-はその名高い測量感覚で、次のように主張した。「CSAと他の公職者はヒズボラに新たな殺人許可を与えた(……)彼らはそこから生じうる全ての暴力的な結果の共同責任者である。」(Protestation de plusieurs associations au feu vert donné à Al-Manar »,AFP,2004年11月23日)
社会党スポ-クスマンのジュリアン・ドレは、CSAの決定はイラクのフランス人捕虜の解放に関する交渉の枠組みで成されたかもしれないと当てこすりを言った。このアマルガムはすぐに全ての通信社に引用された(« Bienvenue sur Al-Manar, chaîne judéophobe », Libération, 2004年11月26日)。
この喧騒は効果がなかったわけではない。11月30日、CSAは新法に関して国務院に提訴を行った・今回はアルマナ-ルが公の秩序を乱す発言を放映し不誠実な情報処理を行ったという理由で取り調べを行った。アルマナ-ルは確かに次のような記事を引用していた。「ここ数年間の間に、アラブ諸国にエイズなどの病気を伝染させようとするシオニストの企てが見られた。この敵はアラブ民間人やイスラム教徒の健康を害することに全く躊躇しない。」(« Al-Manar : le Conseil met la chaîne en demeure et saisit le Coneil d’Etat »,communiqué 568 du CSA, 2004年11月30日)
コミュニケ-ション大臣に国会で質問したフランスイスラエル友好グル-プ代表の議員ルディ・サルは公の秩序攪乱の議論を用いる。「このチャンネルはアラビア語だけでなくフランス語でも放送します。ユダヤ人に対する憎しみや暴力のメッセ-ジが私達の町や郊外に引き起こす影響を想像して下さい。」これに対し大臣は国会が新法を採決した以上、この法は厳しく適用されると答えた(2004年11月23日)。
しかし国会のUMP党員達はプレス掲載記事を作ったという理由でテレビ局を禁止することを国務院は納得できないのではないかと恐れた。それで新法をさらに厳しいものにする提案をした(« Affaire Al-Manar : les députés UMP souhaitent renforcer la législation »,Associated Press, 2004年11月30日)。別の政府質疑応答の際、NATOの国会議員会議議長も務めるUMP議員ピエ-ル・ルル-シュはコミュニケーション大臣に対し次のような言葉を用いた。「アルマナ-ルはヒズボラというテロ集団に属します。ヒズボラは1985年と1986年にレンヌ通りとギャラリ-・ラファイエットで起きたテロの首謀者でジャン=ポ-ル・コフマンとマルセル・フォンテ-ヌなど多くのフランス市民を誘拐しました。このチャンネルは毎日イスラエルのユダヤ人の殺害、時にはキリスト教徒の殺害も呼びかけています。一年前にフランスでアル・シャタトすなわちディアスポラという題のシリ-ズ番組を放送しました。シオン議定書のナチスプロパガンダを用いて世界的ユダヤ陰謀を示し、キリスト教徒の子供を殺害しその血を使って復活祭の種無しパンを作ったことで例証しています。この番組のため、CSA代表のボディ氏は1月に共和国検事に提訴しました。それ以来、この訴えについての消息がありません。(……)なぜこのテレビ局と契約を結ぶという事態になったのですか?」(2004年11月30日)センセ-ショナルな発言だったが情報の誠実さは遵守されていない。司法調査は1985年と1986年のテロとヒズボラを関係づけたことがない。ジャン=ポ-ル・コフマンとマルセル・フォンテ-ヌはイスラム主義ジハ-ドに拘置された。アルマナ-ルはユダヤ人とキリスト教徒の殺害ではなく、軍事占領と協力に対する闘いを呼びかけている。シリ-ズ番組「ディアスポラ」のこのエピソ-ドだけがシオン議定書から着想を得ている。CSAの訴えに関しては、共和国検事への指摘にすぎず、検事がエマヌエル・デュコス判事に審理を委任した。デュコスは訴追に十分な理由を見出さなかった。社会党議員からもUMP議員からも非難され、文化コミュニケ-ション大臣ルノ-・ドヌデュ-・ドヴァブルは叫ぶ。「さらなる司法手段が必要ならば首相と政府がそれを提案するでしょう。」ルモンド紙はルル-シュの提案とアルマナ-ル検閲を支持するため左派を動員した。
(注)
ルモンド=プロパガンダ新聞
ルモンド紙はフランスエリ-トのが準拠にする日刊紙であると自称している。明確にNATO・シオニスト支持の編集方針を取り、そのために大統領選ではジャック・シラクに対抗してエドワ-ル・バラデュ-ルとリオネル・ジョスパンを支持した。レバノン問題に関しては、徹底的に米国務省とイスラエル外務省のレトリックを用い、プロパガンダのために事実を捏造することさえ行う。2004年12月4日「ルモンド」は署名なしの、すなわち編集部全体の意見を示す論説文を載せ、アルマナ-ルを禁止できないフランスの法律を批判し「CSAにさらばる活動と弾圧の手段を与える」国会案への支持を表明している。
フランス3でのテレビ討論で、Réseau Voltaireの副会長イッサ・エル=アユビがピエ-ル・ルル-シュに対し、制裁は根拠がある場合は番組に対して行われるべきであり、全体的な制裁が自由裁量でテレビ局に適用されるべきではないと弁護した。しかし、もはや討論の時ではなかった。司会者のマルク=オリヴィエ・フォジエルは議論を終らせた。この司会者はその後、タレントのデュ-ドネに対して人種差別的な発言をスクリ-ンに写し出し有罪判決を受けた。しかし彼は辞任せず、誰もこの公共テレビ局の禁止を求めなかった。
この段階に到っては、目的がアルマナ-ルを禁止しこのテレビ局のニュ-スの放送を妨害することであり、そのためにはどんな法律でも採決し、どんな口実でも見出すだろうということを隠す者はいない。CSA代表のドミニク・ボディは彼の独立性というフィクションを守ろうともせず。解決法を協議するため首相のもとにかけつけた(« Le président du CSA à Matignon ce mercredi à la suite de l’affaire Al-Manar », AFP, 2004年12月1日)。この会談の後、ジャン=ピエ-ル・ラファランは欧州連合を介して立法プロセスを再開する意志を述べ、CSAに契約を解消するよう「助言」し、イスラエル外相の称賛を受けた(« Al
Manar/Raffarin– La convention avec le CSA sera résiliée », Reuters, 2004年12月2日、上院議員ラディスラス・ポニアトウスキの口頭質問に対するラファランの返答も参照、 « Israël félicite Partis pour la résiliation de la convention avec Al-Manar », AFP, 2004年12月2日)。
この問題に関して、首相はアメリカユダヤ委員会(AJC)代表団の訪問を受けた。AJCはシャランンスキ-も属するアメリカの強力な新保守主義機関でCRIFと緊密に協力しながら活動を行っている。彼らは一緒に欧州の戦略を調整した。AJCは声明の中でラファラン首相を称賛し、「反ユダヤ主義的、反アメリカ的、反西洋的なメッセ-ジを流すアルマナ-ルや他のテレビ局は寛容と多元主義と平和を奨励する欧州に存在してはならない」と述べた(« Le Comité juif américain félicite le Premier ministre français d’avoir suspendu la chaîne TV du Hezbollah », PR Newswire, 2004年12月3日)。
とどめの一撃として、新法に関する国務院への三度目の提訴が今度はCRIFによって行われた(« CRIF– Al-Manar : le Conseil d’Etat à nouveau
saisi », News Press, 2004年12月6日)。
アラブ世界は強い衝撃を受けた。レバノンとエジプトでデモや会議が開かれた。あらゆる立場の政治家が、アラブ連盟議長のアムル・ムッサに到るまでこの主題について発言を行った(« Manifestation de solidarité tous azimuts avec Al-Manar », AFP, 2004年12月6日)。レバノンの視聴覚国民評議会は報復措置を発表した。アルマナ-ルがフランスで禁止された場合、レバノンでフランスのメディアに与えられた特権を排除するというものだ(« Al-Manar : Beyrouth menace les médias français de mesures réciproques », AFP, 2004年12月10日)。
最終的に、2004年12月13日、国務院の判決が下された。アルマナ-ルは禁止になった。しかしその理由は想像上の反ユダヤ主義ではない。「1986年9月30日の法律の15条の規定(青少年の保護)に公然と反する放送を繰り返すことで公の秩序の維持に有害な影響を与える可能性を排除できない。」言葉を変えれば、このチャンネルが検閲の対象になる理由は、その放送によって若者が反逆し、公共の秩序を乱すことにつながる可能性があるからだ(国務院判決no. 274757)。イスラエル外相はこれに同意して「私達はユダヤ人、キリスト教徒、西洋人に対する残忍な憎しみの言説を放映するこのテレビ局に対して盗られた措置を喜ばしく思う」と述べた(« Israël se félicite de l’interdiction de la diffusion d’Al-Manar », AFP,2004年12月13日)。
国境なき記者団(RSF)はいつもの曖昧さでアルマナ-ルに対する措置を批判し「許し難い反ユダヤ的発言」を放送するこのテレビ局をより適切に非難するべきだと述べた(« Pour RSF, la méthode employée pour interdire Al-Manar n’est pas la bonne »,AFP, 2004年12月14日)。
技術的には、Eutelsatが欧州でのアルマナ-ル放送を禁止するためには、同時にSharjah TV、 Quatar TV、 Saudi Arabian TV、 Kuwait Space Channel、Jamahirya Satellite Channel、 Sudan TV、 Oman TV、 Egyptian Satellite Channelを切らねばならない。他のテレビ局にも検閲の責任を負わせることを恐れ、アルマナ-ルは諦めて契約を解消した(« En pettant fin à ses émissions, Al-Manar Calme le jeu », AFP, 2004年12月14日)。アルマナ-ルはそれでもArabSat 2B at30.5East、Badr at 9-26East、NileSat at 102-7Westを介してインタ-ネットで利用できる。
この決定を公衆に納得させるため、フランスのコミュニケ-ション大臣は「共に生きる」と名づけられたキャンペ-ンを企画した。文化機関、公共視聴覚機関は「憎しみと不寛容に市民権はない」と説明するためのメッセ-ジを配布した。しかし、まさにその憎しみと不寛容がアルマナ-ル禁止措置に結びついたのだ。Arteチャンネルは「ホロコースト」というシリ-ズ番組を再放送し、最終解決と近東の紛争を混同させるという無駄なことを行った(« Audiovisuel et culture mobilisés pour promouvoir la tolérance »,AFP, 2004年12月15日)。
この間、UMP党首ニコラ・サルコジはイスラエルに凱旋ツア-を行い、アリエル・シャロンや多くの政治責任者に会った。そして、自分の党と共に、ヒズボラの声の検閲に中心的役割を演じたことを自慢げに吹聴した(« Reçu en Israël en homme d’Etat, M. Sarkozy s’est posé en héraut de la lutte contre l’antisémitisme », Le Monde, 2004年12月16日)。
フランスの政治指導者達がアルマナ-ル検閲を可能にする司法的枠組みを作り上げようと闘っている間、オーストラリアでも同じプロセスが進行中だった。労働党のロバ-ト・レイが率先してこれに取り組んだ。彼は衛星TARBSでのアルマナ-ル放送禁止に成功した。
イスラエル首相アリエル・シャロンの求めで、検閲を世界中に広めるためにワシントンに調整委員会が作られた。反テロメディア連合(CATM : Coallition Against Terrorist Media)である。この委員会は強力なシオニストロビ-、民主主義防衛財団(Foundation for the Defense of Democracies)の敷地内に設置された。財団の資料を調べれば、このキャンペ-ンの目的は疑いの余地がない。将来のレバノン軍事介入のため、ヒズボラの声を断つことだ。財団の責任者には、米国防省補佐官リチャ-ド・パ-ルなどのレバノン攻撃計画者やワリド・ファレスなどの不吉なレバノン義勇兵が含まれる。フォックス・ニュ-ス解説者のファレスは1980年代の占領下において、レバノンのパレスチナ難民に対して残虐行為を行った「杉の衛兵」の長を務めた。
この時点までは、フランスとオ-ストラリアの関係者全員が、自分達がいかなる犯罪を準備しているか知っていたわけではないが、今後は皆がそれを理解する。
イスラエル軍参謀総長の執行者に変身したフランス政府はアメリカユダヤ委員会と共に取り決めた戦略を実施し、この種のテレビ局の検閲の問題を欧州閣僚会議の議題に組み込ませる (« Paris souhaite que la question soit abordée au niveau européen », AFP, 2004年12月14日)。
情報メディア社会担当委員ヴィヴィアン・レディングがこの問題に取り組む。彼女はヴァ-ツラフ・ハヴェル元チェコ大統領が民主主義防衛財団のために開いたブリュッセルの事務所と協力して仕事をした。この機構は9.11テロの恐怖を利用してパレスチナ人に世論を敵対させ、次に国連を批判しイラク・サウジアラビア・シリア・レバノンへの攻撃を呼びかけた。
アメリカでは、国務省がアルマナ-ルを「テロ組織」のリストに載せた(« USA –Al-Manar dans le collimateur du département d’Etat » ; « USA-EL Manar rangée parmi les « organisations terroristes » », Reuters, 2004年12月17日)。かつてこのように形容されたメディアはない。アルマナールのスク-プが爆弾スク-プであるという以外に、これが何を意味するのか理解し難い。いずれにせよ、IntelsatとGlobecast(フランステレコムの系列)は北アメリカでのアルマナ-ルの放送を停止した(« Globecast retire Al-Manar de son offre satellitaire aux Etats-Unis », AFP, 2004年12月18日)。
レバノン元首相サリム・エル=ホスによれば、アメリカはこの事件を利用して欧州とアメリカにおける一つの視点の表現を禁止した。「アメリカ政府はイスラエル占領に抵抗する権利を“テロリズム”と形容し、イスラエルのテロリズムとイスラエルによる他民族の土地の侵奪を“正当防衛”と呼ぶ」と彼は述べている(« Le Liban fustige les mesures de Washington et Paris contre Al-Manar », AFP, 2004年12月18日 )。この検閲への報復としてレバノンのケ-ブルテレビ会社のほとんどはフランス語のテレビ局TV5の放送を停止した。
2005年7月、今度はスペインの産業大臣がラテンアメリカに向けた公共衛星Hispasatからアルマナ-ルの電波を除去した。さらに、サイモン・ウィ-ゼンタ-ル・センタ-がフランス政府に介入し、Globast(フランステレコムの系列)がアジアへの送信を切るようにした。2006年1月、オランダの司法大臣がアメリカへの送信を続けていたNew Skies Satellitesによるアルマナ-ルの受信を切るよう命じた。2006年3月、アメリカ財務省がアメリカの銀行に保管されていたアルマナ-ル関連会社の資産を凍結した。
そしてレバノンに対するイスラエルの攻撃が始まった。2006年7月13日、イスラエル空軍は最初からベイル-トにあるアルマナールのスタジオを爆撃した。ヒズボラの声を決定的に消すためだ(« La télévision du Hezbollah touchée par un raid israélien(Hezbollah) »,AFP, 2006年7月16日)。この空爆で3人の重傷者が出た。
ところが、レバノン抵抗運動は秘密の場所から録画による断続的な放送を続けた(« Al-Manar, la télévision du Hezbollah qui ne veut pas se taire », AFP, 2006年7月31日)。ヒズボラ書記長のハッサン・ナスララは同国民に語りかけ、前線の様子を知らせることができた。イスラエル軍は決着をつけるために、7月22日にレバノンの全ての反対勢力のテレビ局を爆撃した。どのテレビ局もアルマナ-ルの電波を中継できなくするためだ(« Israël impose la loi du silence au Libanais », AFP, 2006年7月22日)。しかし、Arabsatは発信を続けた。
アルマナ-ルはインタ-ネットのサイトで見ることができた。ヒズボラは万一に備え、インドのサ-バ-センタ-を利用した。しかしインド政府は核に関するアメリカとの契約への影響を恐れ、政府特権を利用して「友好国とのよい関係を守るため」サイトを削除した。しかし、サイトは再び現れた。それにも関わらず、戦争中、欧州の大衆はレバノンとパレスチナ占領地域の状況を知るためにイスラエル軍の検閲を受ける大手メディアの情報で満足するしかなかった(« Les agences de presse occidentales victimes consentantes de la censure militaire israélienne », Réseau Voltaire,2006年7月18日 )。
アルマナ-ルを殺すためにイスラエル国家が3年前から行った努力はイスラエルがいずれ隠さねばならない犯罪に比例していた。
次に、イランの例を挙げて、反ユダヤ主義の非難がどこまで使用され得るかを見てみよう。
イランを悪者にする
同じ論拠を用いた2つの情報操作作戦を続けて調べてみることにしよう。そうすることで、その漸進的な浸食作用が明確になるだろう。
2005年10月26日、ロイタ-通信の報道。「公式通信社IRNAの報告によれば、イラン大統領マフム-ド・アフマディネジャド大統領は水曜日に、イスラエルは地図から消されるべきだと宣言し、イランがユダヤ国家への敵意を緩和しているという希望を失わせた。パレスチナ大義への支持はイスラム共和国の中心となる柱であり、この国はイスラエルの存在権利を認めることを公式に拒否している。アフマディネジャドは“シオニズムのない世界”という会議で“イスラエルは地図から消されるべきだ”と宣言した。この会議には保守派の学生3000人が集まり、“イスラエルに死を”“アメリカに死を”と叫んだ。」(« Iran president wants Israel « wiped off the map » » by Parisa Hafezi, Reuters, 2005年10月26日)
AP通信とフランス通信社が引き続きこの嫌疑を報じた。これらの通信社の特派員達はロイタ-の速報をそのまま写し、もともとの情報源IRNAの準拠を記さず、彼らは会場にいなかったにも関わらず、あたかもそれを目撃したかのように報じた。さらにひどいことには、情報すなわちIRNAの速報の真偽を確かめることさえしなかった。確かめていれば、そこに引用の痕跡を一つも見出さなかったはずだ。
作戦の意味と規模を全く予想していなかったイラン大統領は、質問した記者に対しその発言を否定しただけで、声明も、演説の英語訳も出すことはなかった。
作戦はフランス外相フィリップ・ドゥスト=ブラジーのスポ-クスマンの宣言から始まった。「この発言が実際になされたならば、我々はこれを断固として非難する。」(La France condamne la déclaration d’Ahmadinejad sur Israël », AFP, 2005年10月26日)ドイツ外相もこれを真似して言う。「この発言が実際になされたならば、許されないことであり、断固として非難するべきである。」(L’Allemagne condamne avec « fermeté » les propos du président iranien » ,AFP, 2005年10月26日)
真偽が確認されていない発言についてコメントすることは、当然ながら外交の慣習に反している。弁論上の配慮「この発言が実際になされたならば」は不真面目である。フランスとドイツの大使館がテヘランにあり、その職員は大統領の全ての発言を探る任務を帯びている。彼らは外務省に重要な発言を全て報告し即座に分析を行い文脈の中に置いて可能な影響を演繹する。
ゆえに、これらの外務省の発言は、無能力の表明か、あるいは情報操作に公印を押す恣意的な行為とみなすべきだ。
今度はイスラエル政府がアクセルを踏む。イスラエルは事件の解釈の鍵を提供する。「この種の政府は非常に過激でこの政権が原子爆弾を保有した場合国際社会にとってまさに悪夢である」とイスラエル外相シルヴァン・シャロムは宣言する、これに続いて、ホワイトハウスのスポ-クスマンが「(イラン大統領の宣言は)イランについて私達が言ってきたことが正しかったことを示すだけだ。イランの核の野心に関する私達の懸念を強める。」と述べる(Washington : Ahmadinejad reconfirme nos inquiétudes sur le nucléaire », AFP, 2005年10月26日)。
ここにおいて、各自が一段階進んだ行為に出る。フランスはパリのイラン大使に説明を求める。カナダ外相ピエ-ル・ペティグリュ-は激昂する。「今は21世紀だ。カナダはこのような憎しみ、不寛容、反ユダヤ主義を決して許さない。(……)このコメントはイランが核の野心を持ち国際原子力機関に完全に協力することを拒否するため、一層不安を与える。イランの拒否は、国際社会が協力してイラン核武装を防止することの重要性を強調する。」(Le Canada condamne les propos du président iranien sur Israël », AFP, 2005年10月26日)そして、イスラエル副首相シモン・ペレスは国連にイラン追放を求めた(« Simon Peres appelle à l’expulsion de l’Iran de l’ONU », AFP, 2005年10月26日)。
NATO加盟国の政府は次々にイラン大使を召還し説明を求めた。
パリの大使が最初に公の場でこれに答えた。翌日出された声明の中で、彼はアフマディネジャドはイスラエル国家ではなく、シオニスト政権の終わりを望むと述べた。彼は自国の立場を説明する。アパルトヘイト政策を行う軍事占領の終結とエルサレムを首都とする単一国家設立への希望。「私達はシオニスト政権のイデオロギ-に反対している。いかなる正当性も持たないからだ。(……)私達は何世紀も前からユダヤ教徒と共に平和的に共存しており、彼らにいかなる敵意も持っていない。」しかし、誰も大使の言葉に耳を傾けなかった。記者達はシルヴァン・シャロムの記者会見の取材に忙しい。イスラエルの大臣はパリを公式訪問中だ。彼はイランが6ヶ月以内に原爆を保有するだろうと断言して、状況に負の要素を加えた。イランは「射程距離3000キロの新たなミサイルを開発中です、パリ、ベルリン、ロンドン、ローマ、マドリッド、ロシアの南部さえも射程内です」と彼は続けた(« L’Iran peut-être à « six mois »d’avoir les connaissances pour la bombe : Shalom », AFP, 2005年10月27日 )。
それ以降、以下のことが人々の心の中で確かな事実になった。アフマディネジャド大統領は一つの国を国民もろとも地図から消す意志を冷酷に告げる予見者である。彼は最終解決すなわち望ましくない民族の殲滅を決めたアドルフ・ヒットラ-の予期せぬ後継者である。ルモンド紙はアフマディネジャドとシ-ア派の高官達をヒットラ-になぞらえた絵を一面に載せた。腕章のハーケンクロイツは核のロゴに変えられ、強制収容所が彼らの足元に小さく描かれている。
翻訳の誤りを批判し、イラン当局は演説のオリジナルビデオを発表した。これも無駄だった。CNNはこれを犯罪の証拠として放映した。アフマディネジャ-ドがファルシ語で話し英語のボイスオ-バ-が「イスラエルを地図から消す」と訳している。
ところが、マフム-ド・アフマディネジャ-ドは全く別のことを言っているのだ。
――彼はイスラエル国家ではなく、現在政権についている政治体制を指している。
――彼は地図や場所ではなく、時間と近い未来について話している。
――彼は「消す」ではなく「除去する」という言葉を用いている。
最終的に、問題の一文の正しい翻訳は「エルサレムを支配しているこの体制は歴史から除去されるべきである。」この立場は、南アフリカを支配するアパルトヘイト政権を歴史から除去するために闘ったネルソン・マンデラのデズボンド・ツツのそれと比較できる。演説の文脈に置きなおせば、混同の余地はない。なぜなら、マフム-ド・アフマディネジャドは未来のシオニスト政権除去を、ホメイニ師が実現したシャ-政権の除去と比較しているからだ。そこには殲滅も、民族の強制移送も含まれない。また、ジョナサン・スティ-ルがGuardian紙で指摘しているように、イスラム教徒の指導者がイスラエル人の殲滅を呼びかけることは想像し難い。イスラエル人の一部はイスラム教徒だからである(« Just How Far Did They Go, Those Words Against Israel ? », by Ethan Bronner and Nazila Fathi, The New York Times, 2006年6月11日 ; « Lost in translation », Jonathan Steele, The Guardian, 2006年6月14日)。
この偽情報工作が完全に見破られているにも関わらず、多くのアングロサクソン系指導者はこれを確実な事実として引用し続ける。
「アフマディネジャド=ヒットラ-」の方程式をさらに押し進めるため、心理戦争部隊は第二の作戦を考案した。そのメカニズムは最初のそれと同じだが、タイミングがはずれて失敗した。この情報操作の時間と場所に従い、最初にこの情報を引用した新聞が同じではなかった。また、他の新聞より慎重な新聞が存在する。
2006年5月19日、トロント(カナダ)のナショナル・ポスト紙がイラン人亡命者アミル・タヘリの記事を載せた。「イランの不信心者の色番号」という題の記事だ(« A color code for Iran’s infidels »,by Amir Taheri, National Post, 2006年5月19日 )。彼はイスラム教徒女性の服装の節度を規定する1982年の法律の改革の際、マジリス(イラン国会)で行われる討論を描写している。イラン大統領の影響下で制服が段階ごとに強制され、「隠れたイマムの再来」の時に一見皆が同じように見えるようにするという。450万人の公職者が2009年までにこれを採決し、80億ドルが「貧乏な者と貧窮者」に服を着せるために支出される。その後、別の法律が男性の顔の外見を規定することになる(髪、顎髭、口髭)。
要するに、イランは全体主義国家だというのである。アミル・タヘリは非イスラム教徒にはそれを示す明確な印(ファルシ語でゾンナル)が付けられると述べる。ユダヤ人は彼らの服に黄色い徽章を縫い付けねばならない。キリスト教徒は赤、ゾロアスタ-教徒(ペルシアの昔の宗教)は青の徽章を付ける。
新聞は、署名のない記事の中でタヘリ氏の情報が正しいことがカナダに住むイラン人によって認められていると述べている。この法はすでに採決され、最高指導者ハメネイ師の認可が待たれているという。ナショナル・ポスト紙はサイモン・ウィ-ゼンタ-ル・センタ-の主席ラビ、マ-ヴィン・ハイア-の反応を取材する時間を取っている。ハイヤ-はこう述べた。「ホロコ-ストの甦りです。イランはますますナチスのイデオロギ-に近づいています。」
新聞のインタ-ネットサイトで編集部は読者にアンケ-トに答えるよう提案する。ラビのハイア-の発言に賛成か反対かを答えさせる。「危険な類似。イランは新たなナチスドイツになりつつあるのだろうか?」
同じ日に、アメリカ国務省のスポ-クスマン、ショ-ン・マコ-マックが記者会見でこう述べている。「私は記事を読みました。私はどの新聞も記事を引用しあっていると思います。現在国会で審議されている法律があり、その性質は明確ではありません。ですから全ての要素を持たない主題について追及したり決定的な、あるいは詳細なコメントをすることは避けます。しかし、もしそのようなことが起きたら、それがイランであろうと別の国であろうと、醜悪なことです。」(2006年5月19日)
それと同時に、オタワでの共同記者会見でカナダ首相とオ-ストラリア首相は米国務省への質問と似たような記者の質問を受けた。ジョン・ハワ-ド首相は次のように宣言した。「そのような話は聞いたことがありませんが、喜んでお答えします。もしそれが本当なら、不快なことです。世界史の民族虐殺の最も恐ろしい時期、ナチスがユダヤ人の服に印を付けたことを思い出させます。文明国では全く不快に感じられることです。その場合は、この政権の性質を示す事実がまた一つ増えたことになります。それが本当なら、キリスト教徒だけでなく特にユダヤ人に対して計算された侮辱行為です。彼の憎しみと名誉毀損の演説の対象となるイスラエル国家と関係があるでしょう。それが本当なら--私は記事を読んでいません、最近の記事であり私の理解できない言葉で書かれていたのでしょう—それが本当なら、これが私の意見です。皆さんはこの種の事に関する他の政府の反応を想像することができるでしょう。そうなれば恐ろしいことです。」
そして、カナダ首相スティ-ヴン・ハーパ-がこう付け加える。「今言われたことに何を付け加えればいいかわかりません。ハワ-ド首相と同様私も“それが本当なら”と言うことから始めます。残念ながら、イラン政権について私達は多くのことを見てきたのでそのようなことが可能な政権だと想像できます。ナチスドイツを思い出させるようなことをしようとする政権が地上にあると思うと呆然とします。イラン政権について多くのことを以前から見てきたとはいえ。そのようなことが計画されるという事実は、憎むべきことだと思います。私達の連盟国は核兵器保有へのイランの明らかな意図に関する困難な問題に対して受動的なので、今回のことで(連盟国が)このような行為や思想を想像できるあの政権の性質について慎重に考えるようになることを期待します。」
5月20日の土曜日、アミル・タヘリの記事がそのままニュ-ヨ-クポストに載った。一方、多くのシオニスト組織・福音派キリスト教組織が復讐の声明を発表した。
ところが、ナショナルポストが後に認めたように、タヘリ氏の嫌疑は根拠のないものだった。マジリスで審議中の法律は、儀式の際の衣装-国歌や国旗と同じ資格を持つ-に関するもので、制服を規定するものでは全くない。差別的な要素は全く含まず、差別措置が国会討論で話題になったことはない。
この新たな偽情報工作のために、心理戦争部隊は新鮮な中継者を用いるように計らった。それは誰だったか?
アミル・タヘリはシャ-・レザ-・パフレヴィ-独裁体制の元協力者で、公式新聞「ケイハン」の編集長だった。現在はネオコン機関Benador Associatesのメンバ-である。この機関は対イラク戦争へ扇動するための偽情報の普及で中心的な役割を演じた。
タヘリの記事はまず最初に、2001年Can West Globalに買収されたナショナル・ポストで発表された。Can West Globalはリバタリアンでシオニストのアスパ-兄弟(レオナルド・アスパ-とデヴィド・アスパ-)に率いられている。アスパ-兄弟はカナダで公共テレビを反イスラエル的だと批判して有名になった。
さらに、タヘリの記事はニュ-ヨ-クポストにも載った。この人気のある日刊紙はネオコンの大物ルパ-ト・マ-ドックに属する。
サイモン・ウイ-ゼンタ-ル・センタ-もナチス犯罪者狩りを成功させた単なるユダヤ系人権擁護団体ではない。この組織はイスラエル政策支持のプロパガンダ機関になっている。
1980年半ば、センタ-はテロに関する会議を企画したが、実際はパレスチナ抵抗運動批判だけが行われた。1990年代初頭、センタ-はサダム・フセインにイラク国民を殺害するための毒ガスを提供するフランスとドイツの会社についての報告を捏造した。センタ-は元ユ-ゴスラビアへのNATO介入を可能にするため、ボスニア指導者アリア・イゼトベゴビッチの派閥を支持するための請願書を提出した。しかし、イゼゴビッチは元ナチス活動家だった。彼はイスラエルの支持を受けていた。最近ではセンタ-はベネズエラ大統領ウゴ・チャベスの発言を歪曲し反ユダヤ主義者であると嘘の非難を行った(« Faut-il brûler Hugo Chavez ? » by Thierry Meyssan et Cyril Capdevielle, Réseau Voltaire, 2006年1月10日)。
今日、センタ-はイランに敵対する活動に取り組んでいる。そのウェブサイトの一面では「現在と未来のイスラエル指導者」に会いイスラエル軍の基地を見学するイスラエル旅行を提案する。センタ-はまた、ニコラ・サルコジとの2回の手紙のやりとりの後、アフマディネジャド大統領にサッカ-ワ-ルドガップ観戦のためにドイツを訪問することを禁じるキャンペ-ンを企画した。
情報操作の方法は「イスラエルを地図から消す」の事件と同様である。国家権威を与えられた人物を用いる。ショ-ン・マコ-マック、ジョン・ハワ-ド、スティ-ヴン・ハーパ-である。前の事件と同様、各自が弁論上の配慮をしてコメントに「もしそれが本当なら」という一言を挿入する。この言い回しのおかげで、彼らは状況が悪化した場合すぐに撤回する可能性を維持しつつ情報操作を展開できる。さらに、この配慮により、彼らは条件法でなく現在法で話すことができ、視聴覚メディアが放映する抜粋では断定的に聞こえる。
様々な下役が選ぶ比較はつねに同じ、ナチス政権と黄色い星の徽章の着用である。しかし、その比較は必ずしも自明ではない。アミル・タヘリの記事は差別的な別の政権を想起することもできたはずだ。しかし、この比較こそが唯一イラン攻撃を正当化する。ハ-パ-首相は最終的にそのことを示唆した。
注目すべきことは、通信社がいつもどおり偽情報を中継し、その次に新聞がこれを話題にしたということだ。この情報操作を告発したのはテヘランの特派員ではない。大使館の声明と国会の宣言がこれを終らせた。これを記事にしなかった新聞は必ずしも他の新聞より良いというわけではない。それらの新聞は週末は出ない。情報は月曜になって初めて処理され、その時には嘘が証明されていた。結局、反ユダヤ主義の非難が今回もまたその効果を見せた。これはあまりにも感情的な力を持つため、メディアは確認する義務を感じず、そのまま報道する。
イラン非難はまた、アフマディネジャド大統領が挑発好きであることから容易になる。イラン外務省の国際政治研究所は2006年12月11日から12日までテヘランで「ホロコ-スト研究 : 世界的なビジョン」という会議を開いた。開会演説でマヌチェフル・モッタキ外相は「この会議の目的はホロコ-ストの現実を否定したり確認したりすることではありません。(……)主要な目的はヨ-ロッパで自由に発言できない思想家に発言の機会を与えることです。」こう言った後、彼は雑然と、「シオニストとイスラエル国家にホロコ-ストがハイジャックされたことを明らかにするために来た」ラビのイスロエル・デヴィド・ワイスや、「最終解決」の存在を否定する知識人達-この犯罪はニュルンベルク裁判で矛盾した調査や討論の結果証明されているにも関わらず-に発言させた。閉会の演説でアフマディネジャド大統領は述べる。「今日、ホロコ-ストは諸大国に偶像崇拝されています。(……)重要なのは、ホロコ-ストが起きたか起きなかったか、その規模が大きかったか限られていたかという問題ではありません。問題は、これがこの地域の国々を侵略し威嚇するための基地を作る口実であるということです。」(« Israël« va bientôt disparaître »tout comme l’URSS(Ahmadinejad) », AFP, 2006年12月12日)彼にとってこの会議はイスラエル国家の正当化を否定し、痛い所を付くため、すなわち問題が欧州にあったことを指摘するための茶番である。確かに、もし、人々がよくそう考えるように、イスラエル国家建設が欧州の反ユダヤ主義の問題解決のためだったならば、代価を払うべきなのは欧州であって近東諸国ではない。いずれにせよ、ナチズムを懐かしむ人々に発言権を与えたり、欧州の反ユダヤ主義を逆に指摘したりすることによっては、平和を進めることはできない。その逆である。ナチスの野蛮性の犠牲となった生存者にとってこの会議は憎むべき、また根拠なき侮辱であった。イランが否定論者を利用することは、イスラエルが反ユダヤ主義の犠牲者を利用するのと同様、不名誉なことだ。
ヒズボラ、アルマナ-ル、イランに関して私達が見てきた偽情報工作の例以外にも、公衆の判断はパブリックリレ-ションズの強力な働きによって騙されている場合がある。レバノンの政治状況の変化に関する報道、そして2006年夏のイスラエルによるレバノン攻撃の報道についてもそれが言える。
体制を不安定化する
レバノンとシリアにせまる危険
イスラエルのレバノン攻撃はアメリカによってはるか以前に計画された。しかし、もっとも綿密な計画も予期せぬ出来事で失敗に終ることもある。米国防省の戦略家の予想は完全に外れた。戦略家達はユダヤ国家の敗北など予想していなかった。世界で最も優れた技術を持つイスラエル軍がいかにしてこの冒険に乗り出し、アラブ人の抵抗の前に撤退したかを知るには、2003年4月まで遡る必要がある。
アングロサクソン連合軍によるイラク攻撃の二週間後、バグダ-ド空爆が続いていた時、アメリカの指導者達は次の標的についての議論を始めた。ブロンクス州民主党代表で「自由なレバノンのための米国委員会」(USCFL : US Committee for a Free Lebanon)のメンバ-であるエリオット・エンジェルは下院に「シリアの責任とレバノンの主権回復に関する法律」(SyriaAccountability and Lebanese Sovereignty Restauration Act)の法案を提出する。第一条がその目的を提示する。
「シリアのテロ支援を止めること、シリアのレバノン占領を終らせること、シリアの大量破壊兵器開発を止めさせること、シリアによるイラクの石油の不法輸入、武器やイラクの他の軍事物資の輸送を止めさせること、それによりシリアが近東で世界の安全を脅かす深刻な問題を引き起こしている責任があるとすること、またそれ以外の目的も含む。」
数回にわたる討論の後、2003年10月15日に米国議会は法案を可決する。この法案はシリアとレバノンに制裁を加えるための全権をジョ-ジ・W・ブッシュに与え、新たな軍事行動の道を開いた。この白紙委任状は、前方への逃避を続ける軍産複合体と、帝国主義ネオコン理論家と、この世の終わりが早く来ることを望む福音派の有権者達と、シリアのゴラン高原をイスラエルに併合しレバノン南部を自治地区に変えるつもりであるシオニズム運動の間の連盟の成果である。
アメりカの行政部は直ちに戦争の拡大を命じる。アフガニスタンとイラクの後はレバノンとシリアだ。米国防省は2004年夏にむけてこれを計画する。チェイニ-副大統領は準備を監督する。イギリスの軍事雑誌Jane’s Intelligence Digestが明らかにしたように、アメリカはレバノンのヒズボラ施設を破壊するため特別攻撃隊を送り、シリアを挑発して全体的な戦争に導く予定である(Jane’s Intelligence Digest 2004年1月23日)。
バシャ-ル・アル=アサド大統領の失墜に先んじて全米民主主義基金(NED/CIA National Endowment for Democracy )が次のシリア指導者の選択を担当する。この機関はワシントンでシリア民主主義連合-武器商人ファリド・N・ガドリ-が率いる傀儡グル-プでシリア改革党を中心とする-を後援する。1月18日と19日に会議がブリュッセルで開かれたが、候補者が鬩ぎ合い、参加者はGIがシリアを「解放」した場合にシリアのトップに据える人物を選び出すことができなかった(« Un gorupe d’opposition en exil à Damas appelle l’UE à changer de politique »,AFP, 2004年1月19日)。
NEDはCIAが組合や協会や政党に資金を与え統括することで秘密活動を続けるためにロナルド・レ-ガンによって作られた。現在では、ポーランドの組合Solidarnoscやチェコスロバキアの憲章77を統括し操作したこと、グルジアとウクライナで色の革命を計画したことを誇りとする。米国務省が共和党・民主党、商工会議所、労働組合センタ-AFL-CIOと協力してNEDを管理している(« La NED, agence de subversion de la démocratie » by Thierry Meyssan, Voltaire, actualité internationale, no.1, 2005年3月)。
安全保障理事会でアングロサクソンに対する反逆を指揮したばかりのジャック・シラクは大惨事を防ぐために介入する。中世以来この地域に影響力を持つフランスは、容易にふるまうことができる。国連の先祖である国際連盟は両大戦間レバノンの委任統治をフランスに任せた。フランスは近東で模範的に行動するよう努め、今日も緊密な関係を保持している。
フランスは安全保障理事会でイラク戦争の際にロシア連邦と中国と共に形成した三角同盟の支持を持つ。フランスは状況的な利害に関してもこの地域に期待できる。イラク戦争の際アングロサクソンが自国の領土を利用することに断固として反対したトルコは、シリア領クルディスタンへの戦争の拡大が自国のクルド人に及ぼす 影響を心配している。
イラクで予想以上の困難に出会ったアメリカは時間稼ぎをすることにした。アメリカはフランスと交渉し安保理決議1559を2004年9月2日に採決させた。この短い文書は両国の譲歩を想定したいくつかの原則を提示する。
この文書はレバノンから全ての外国の軍隊を撤退させることを求めている。アメリカの観点では、シリア軍―内戦終結以来国の安定化のために駐在していたシリア軍―が撤退すべきであるという意味だ。フランス側は、この撤退と共にイスラエル撤退も行われるべきだと考える。イスラエルは地下にこの地域で貴重な水が豊かに存在するシェバアの農園地帯を占領している。
この文書はレバノン義勇軍と外国の義勇軍が解体され非武装化されることを求める。ヒズボラとパレスチナ人過激派が対象に含まれることになる。アメリカ政府はこれをイスラエルに対する抵抗軍と決着をつけることと考え、フランスはイスラエル占領の終了後、非武装化することと考えた。
この文書はなによりも、レバノンの主権回復を主張している。これは長い間国際機関で擁護されてきた弱国レバノンという理論に反する。問題はそこにある。レバノンは主権を回復した場合、それをいかに利用するだろうか?
決議1559がレバノン国会による大統領任命の直前になされたことも矛盾している。現状維持派は、憲法を改正してエミ-ル・ラフ-ドの第三期目志願を可能にするよう提案する。国連の決議はこれに反対を表明する。ロシア連邦と中国はレバノン内政干渉を告発するが、拒否権は用いない。
この出来事は、フランスの外交官に苦い味を残した。ジャック・シラクが指摘したように、決議1559は「アメリカとフランスの共通の活動の結果である。この地域の安定にとって決定的な要素である。この観点から、我々は共通のアプロ-チを行った。おそらく底意は正確には同じではなかっただろう。」(ルモンド紙の対談2006年7月27日)確かに、シリア政府を含めて皆が、1989年にタエフの合意で秩序維持のため望まれたシリア軍駐在が時代錯誤的であると考えていたとはいえ、早急な撤退は問題を解決するよりも、むしろ問題を引き起こすことになった。シリア軍は萌芽状態のレバノン国家の公務員の不足を補い、ヒズボラと共にイスラエルに対する国防に参加していたのだ。
ゆえに、シリア軍撤退の意味は皆にとって同じだったわけではない。フランス政府はこれが内戦を忘れさせレバノン国家再建を助けると考え、アメリカとイスラエルの政府はこれによりレバノンの国防を弱め、敵を容易に餌食にできると考えた。
伝統的に、レバノンでのフランスの影響力はマロン派キリスト教徒を介して行われる。レバノン国民協定により、共和国大統領職はマロン派の人物に与えられる。ところで、ラフ-ド将軍はレバノン独立の保証者である。合憲的な地位からだけではなく、2000年にイスラエル占領軍を追放するため、レバノン軍とヒズボラの軍の派閥を統合し緊密な協力関係を築いた。彼を退陣に追い込むことで、フランスは協力者を失うことになる。フランスは15年前からパリに亡命しているミシェル・アウン将軍の支持には期待しない。悪い時にアメリカと親しくしているからだ。フランスはだからといってシ-ア派のヒズボラにも期待しない-ヒズボラとは良好な関係を維持しているとはいえ。フランスはスンニ派社会とその中の一人の人間、ラフィク・ハリリに全てを賭ける。
ラフィク・ハリリとジャック・シラクの個人的な長い関係はよく知られている。両者は両国の絆を強めることに貢献したが、少しずつ政治の舞台を別の目的に利用し始めた。レバノンの億万長者は1988年、1995年、2002年のジャック・シラクの選挙資金提供者だったという(Ash-harqの特別記事1999年11月)。フランスの政治家は欧州の商業と銀行の扉をラフィク・ハリリへ開いた。二人が一緒に財産を管理していると噂された。
そもそも、決議1559の草稿が作られたのはサルデ-ニャにあるラフィク・ハリリの豪邸においてだった(Le Grand retournement, Bagdad-Beyrouth, by Richard Labévière, Le Seuil éd, 2006)。イラク問題の後、米仏関係を改善しようと努めるワシントンのフランス大使の影響下で、レバノン問題は「その地域的環境から抽出された。」
レバノン国内では、決議1559は予想とは逆の効果を与えた。国連の命令に侮辱された国会は賛成96、反対29で憲法改正を可決し、エミ-ル・ラフ-ドを再び大統領職へ導いた。ラフィク・ハリリ自身が自分の派閥の議員と共に修正案を採決した(« Lebanese MPs give Lahoud 3 more years ; Amendment
passes despite objections »by Nayla Assaf, The Daily Star,2004年9月4日)。結局のところ、この任期延長は例外ではない。ラフ-ド大統領の前任者エリアス・ハラウイの場合も同様だった。
矛盾した態度を取った首相は辞任し、議会選挙のため自己の陣営の拡大に専念する。
アメリカとイスラエルは一時的に戦争を諦めた。計画再開には、フランスの障害を取り除くため、ラフィク・ハリリを除外する必要があった。ハリリがもはや首相ではなく、選挙のため彼がヒズボラに接近する以上、これは一層容易で論理的だった。
ジャック・シラクはレバノンを救おうとして、無意志的に親友を暗殺者に指名していた。
ラフィク・ハリリ暗殺
2005年1月、アメリカはイラクで選挙を企画し、軍の一部を解体しつつアメリカによる国の統括維持を可能にする暫定政府を設置した。シリアとレバノンの問題が再び議題となった。ブッシュ大統領は自由なレバノンのための米国委員会のメンバ-、エリオット・アブラムスを国家安全補佐官に任命し、作戦計画を任せた。この人物の履歴については後で触れる。
2005年2月2日の一般教書演説で、ブッシュ大統領は意図を明らかにする。彼は議員に告げる。「大中東への平和を促進するため、私達はテロリストを匿い大量破壊兵器を保有しようとし続けている政権へ戦いを挑みます。シリアは相変わらず、その領土の一部とレバノンの一部がこの地域の和平の機会を壊そうとするテロリストによって利用されるように計らっています。私達はシリアの責任に関する法律を採決しました。私達はこれを実践します。シリア政府が全てのテロリズム支援を停止し自由への扉を開くことを求めます。」
2005年2月7日、ワシントンのシリア大使が国務省に召喚された。彼は近東地域問題責任者デヴィド・サタ-フィ-ルドから、バシャ-ル・アル=アサド大統領にレバノンからの軍の撤退を求める最後通牒を伝えるよう要請される(« U.S. dismisses Syrian stance toward Lebanon as flash ; Washington says it wants action not words », by Nayla Assaf ; « MP dubs Ain al-Tineh a rally of « national unity » » by Rita Boustani ;« Lahoud accuse U.S. of using Lebanese to « stab Syria » ;Larsen meets Maronite patriarch » by Mayssam Zaaroura, Daily Star, 2005年2月3、10、12日 ; « Lebanese president criticises US official, defends Syria », AFP, 2005年2月11日)。
2005年2月14日、12時55分05秒にベイル-トの海岸沿いで、三菱の小型トラックに仕掛けられた1200キロのTNTを含む爆薬の爆発が鳴り響いた。爆発はラフィク・ハリリの乗った装甲車を含む自動車の列が通った時に起きた。爆発物の数、爆発の強さは、ハリリの車が直接爆発の被害を受けなかった場合も標的に生き残るチャンスを残さぬよう計算されていた。
ワシントンは夜だった。しかし、数分後には自由なレバノンのための米国委員会(USCFL)は「シリアの責任とレバノン主権回復に関する法律」の作者を起し、幹部を集めて「シリアのバアス政権を打倒しエミ-ル・ラフ-ド大統領とレバノンの傀儡を跪かせよう」という声明を執筆した。
以下がその文書である。「ラフィク・ハリリ首相が暗殺された、シリアのバアス党は抑制を失っている。次は誰が狙われるか?シリア人はアメリカ人、イラク人、レバノン人を殺す。しかし我々は相変わらず外交手段で彼らと対話を続けている。どうか、我々に合流してほしい、そしてメディアに書簡を送るか、あるいはメディアで発言することにより、シリアの政権転換の予定を早めるよう呼びかける我々の声を聞かせよう。これがバアス党の過激な政策からアメリカを救い、レバノンを解放し、シリア人をナチスバアス党から救う唯一の手段である。当然ながら、反対派に合流しドル-ズの指導者ワリド・ジュンブラットとチ-ムを作ったハリリ首相のもとでこの連合はベイル-トで過半数の議席を得てキリスト教徒に勝利させるはずだった。あれは、シリア人にとってこのプロセスを止める唯一の方法だった。レバノンにおけるシリアの命もあとわずかだ。」
世界の通信社がこの事件とその文脈に関する速報を出す前に、この声明はメ-ルやファクスで一瞬のうちに世界中の数百の新聞に送られた。記者達はこの声明によってニュ-スを知った。緊急のため彼らはこの視点からニュ-スを処理した。
ラフィク・ハリリは労働者の息子で、レバノンのスンニ派の家に生まれた。若い頃はパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の設立者ジョージ・ハバシュと共にアラブ民族主義の陣営で活動を行った。しかし、すぐに若者の理想主義を捨て、サウジアラビアの王の宮廷で金儲けをした。成功のためには手段を選ばない彼は、自分の妻に注目した後継者のファハド王子に妻を提供した。若い女性は誘拐され何ヶ月もの間宮廷に監禁され、ラフィク・ハリリは快楽の宰相を演じた(目撃者との対談で得られた情報、2006年12月12日、15日)。王が6ヶ月以内にタエフに湾岸協力会議のための宮殿を建設する必要があった時、ラフィク・ハリリはこの計画実現のためにフランスの企業を斡旋した。彼は契約を改竄し、王室医師の助けを借りて、王の健康状態を利用して5億ドルの手数料を騙し取った(ポール・バリル大尉との対談、2006年11月23日)。その金で彼はフランスの企業を買い取り、様々な会社を設立し、会社は公共事業を勝ち取った。恩寵を失うことを恐れ、彼はアブデルアジズ王子を事業に参加させ、金融銀行帝国を築いた。レバノン内戦の間は義勇軍と宮廷の間の仲介者を演じながら、殺し合いを行う同胞達の双方に補助金を与えた。紛争が終るとサウジアラビアの国籍を得た彼は強力な庇護者からレバノン首相に任命され、自己の事業と国の事業を同時に行いながら国の再建に取り組んだ。こうして彼はレバノンの地を自分のものとし、領土の五分の一をほぼ合法的に獲得した。彼はまた「顧客」も作った。すなわち、友人やコネを「恩恵を受けた者」にした(Le Pays d’où je viens by HENRI Eld2, Buchet-Chastel éd, 1997 ; Les Mains noires, by Najah Wakim, All prints publishers and distributors, 19698 ; Rafik Hariri, un homme d’affaires premier ministre, by René Naba, L’Harmattan éd, 1999 )。彼の基金は貧しい学生のために多くの奨学金を提供した。歓待の名において、彼のオフィスに招かれた者は待合室で現金の入った封筒を受け取り、いかなる奉仕も依頼されなかった。多くの者は、再び招かれたいので彼に追従した。彼は1992年から1998までと2000年から2004年まで5期首相を務め、莫大な財産を蓄えた。死後その資産は1千670億ドルと推定され、世界のトップ15に数えられた。彼の「顧客」からは優秀なパトロンとして褒められ、下層民からは背任者として憎まれた。
2005年2月14日、ラフィク・ハリリとその護衛達の引き裂かれた死体がまだ温かい時、そして司法官は一人も現場に到着していないかった時、USCFLの通報を受けたCNNとその一味はすでに犯人を決めていた。シリアである。通信社の速報はUSCFLの声明の影響を受け、爆弾テロ直後、ハリリがレバノンにおけるシリア軍駐在への反対を表明していたと記し、これが暗殺の動機であることを示唆した(フランス通信社、 AP通信、 ロイタ-)。しかし、当時の文脈では、この情報は決定的とはいえない。全ての政治家がシリアの撤退を望んでいた。撤退の様式について意見を異にしていただけだ。しかし、撤退はすでに始められていた。ハリリはアメリカの友人と手を切り、ヒズボラと交渉に入っており、議会選挙が2ヵ月後に控えていたことも興味深い。
ラフィク・ハリリを突然祖国の殉死者の地位にあげたUSCFLが、これまではスンニ派の顧客のために彼が設置した経済システムを批判し、彼の暗殺をさえ呼びかけていたことを誰も記さない。
非難の対象になり始めたバシャ-ル・アル=アサド大統領は、この非難に直ちに反応して、外国の重要人物として初めて発言を行った。「シリア政府とシリア国民はこの危険な状況において同胞レバノンを支持することを表明し、ハリリ氏の家族と他の犠牲者の家族に心からお悔やみを申し上げます」と彼はサナ通信社に述べた(« Mort de Hariri : le président syrien dénonce un « terrible acte criminel », AFP, 2005年2月14日パリ時間14時47分)。しかし噂は膨らむ。ホワイトハウスのスポ-クスマン、スコット・マクレランはシリアがレバノンから撤退する時が訪れたと述べ、それが彼らの新たな犯罪への罰であると結論した。この嫌疑はワリド・ジュンブラットの社会進歩党のナンバ-2のマルワン・ハマデの辛辣な発言で確証されたようになった。「これは嫌悪すべき犯罪で、その責任者は知られています。ダマスカスで始まり、バーブダ(レバノン大統領官邸)とレバノン政府そしてレバノン情報局を介しました。」(« Mort de Hariri : le député et ex-ministre Marwane Hamadé accuse la Syrie », AFP, 2005年2月14日、パリ時間17時44分)彼は嫌疑を裏付ける要素は全く持っていなかったが、この悲劇を利用して政治的な敵を苦境に陥れようとすることに躊躇しなかった。レバノンがドル-ズ派とみなし、イスラエルがユダヤ人とみなすこの国会議員がイスラエルによるレバノン攻撃の間、偽情報による記者の操作に中心的な役割を演じることになる。彼はこの攻撃を正当化し、抵抗運動を中傷し、ハリリ家とジュンブラット家の利益を守ろうと努めた。
翌日、メディアの説が強化された。アメリカはダマスカスの大使を帰国させ、ライス氏はシリアがレバノンを不安定化していると非難する。国連事務総長コフィ・アナンとその特別代表者テリエ・ロ-ド・ラ-センはワリド・ジュンブラットに電話し、自己の身の安全を守るようにと述べた(« Attentat Hariri : l’ONU a conseillé à Joumblatt de prendre des précautions »AFP, 2006年2月15日)。
事件は了解された。ジュネ-ブの日刊紙ルタンは翌日の記事に「兄のシリアにとって元首相は殺すべき人物だった」という題をつけた。パリでは、フィガロ紙が「容疑者シリア」と歌い、リベラシオン紙は「シリアが越えてはならない最後の一線」という題を選んだ。ルモンド紙は「ハリリ暗殺でシリアへの嫌疑」と書いた。ロンドンのタイムズ紙は「この残虐さはシリアの不吉な手の印」と書いている。
世界のメディアは調査をする必要はない。メディアは判決宣告を行った。
2005年2月16日のフィガロの論説記事の中で、アレクサンドル・アドラ-は暗殺者が誰か自問することさえしない。シリア人が犯人であり、疑いの余地はないと考える(« Pourquoi a-t-on tué Rafik Hariri ? » by Alexandre Adler, Le Figaro 2006年2月16日)。彼はこの犯罪がイラクのアルカイダと関係を維持し過激イスラム主義者とのさらなる接近を望む政府内のタカ派の犯行であるとする。シリア政府が政教分離主義であること、ハリリ氏がサウジアラビア国籍を持ちスンニ派であることなどは重要ではない。重要なことは、シリア政府に対する軍事行動を正当化することだ。そのために「シリアとイランの間の戦略的断絶」を捏造してもかまわないというわけだ。
ニュ-ヨ-クポストとGulf Newsでは、イスラエル擁護派の解説員アミル・タヘリ(反イラン偽情報作戦ですでに登場した)が容疑者の可能性を4つあげる。ヒズボラ、マフィア、イラン、シリアである。彼はシリアである可能性が非常に高いと述べる(同じ記事が « A Murder of Little Mystery »の題で2005年2月16日のニュ-ヨ-クポスト、 « Suspects are many, but who is the real culprit ? »の題で2月17日のGulf Newsに載った )。タヘリは、アメリカ、イスラエル、あるいはフランスの犯行であるという説は馬鹿げていると言い-しかしその理由は述べない-シリアはレバノンに自国の情報局が存在する以上計画を知っていたに違いないと述べた。このような論拠はシリアに対してのみ価値があるようだ。同じ論拠を2004年3月11日のマドリッドテロに関してスペインに対しては使えない、また2001年9月11日のテロに関してアメリカに対しては用いることができないというわけだ。シリアが世界で最も有能な情報局を持つという評判があると信じなければならない。
数日後、今度は政治責任者が発言する。
ワリド・ファレス(イスラエル占領時代の協力者、現在はアメリカに亡命し、完全にユダヤ人だけの国家イスラエルの隣国として キリスト教徒だけのレバノン国家を作るために活動している“世界レバノン機構”World Lebanese Organizationを統括している )がワシントンタイムズ紙にシリアの犯行を告発する(« Wrong turn
in Lebanon » by Walid Phares, The Washington Times, 2005年2月22日)。彼は激しい調子でアサド政権をナチス帝国と比較しシリア軍のレバノン駐在をオ-ストリア併合と比較する。このメディアのキャンペ-ンを理解するには、タヘリとファレスが2人とも同じコミュニケ-ションオフィス、Benador Associatesで働いていることを知るべきだ。イスラエル政府と親しいネオコン陰謀計画事務所である。
この時点で、アメリカの指導者達はシリアの犯行についてよりもむしろシリアの道徳的責任について語るほうを望んだ。しかしすぐに、威嚇的な態度に出るため、エドワ-ド・S・ウォ-カ-とマギ-・ミッチェル・サレムがベイル-トのデイリ-スタ-紙とボストングロ-ブ紙でジョージ・W・ブッシュはラフィク・ハリリ暗殺を個人的攻撃と受け取ったと述べた(同じ記事が2005年2月18日に « Bush took Hariri’s death personally »の題で Daiky Star, « Syria after Hariri »の題で Boston Globeに掲載された)。シリアをレバノンから追放しようとするアメリカの決意は固まっている。
もちろん、これはナンセンスな話である。ハリリはシラクと金銭上のつながりがあった一方で、ブッシュとはいかなる特別な関係も持っていなかったのだから。重要なことは、フランスを是が非でもこの作戦に巻き込むことだ。ブッシュとシラクの会談をアメリカ支持のメディアがいかに扱ったかを見ればわかる。メディアは2人の国家主席がシリアにレバノンを去るよう勧告したと述べた。ところが、両者が出した共同声明はまったく別のことを宣言している。すなわち、「シリアにはレバノンの議会選挙に干渉せず、政権を正当な責任者に渡すよう要請する。」
この段階では、フランスはラフィク・ハリリの暗殺の首謀者が誰かを知る要素を掴んでいなかった。ジャック・シラクは全ての可能性を保持することを選んだ。新保守主義者達が彼に手段を強制しようとしていると意識し、彼はシリア犯行の仮定を展開するメディアに反論することはしない。しかし、それを正しいと認めることもしなかった。彼の態度は曖昧になった。疑いを持ち、彼はバシャ-ル・アル=アサド大統領と話すことはしないが、共通の友人にはアサド大統領に会うよう促した。彼は補佐官モーリス・グルド-・モンタ-ニュにホワイトハウスとエリゼ宮の間を往復させるが、直接ブッシュ政権と接触することは制限した。彼は疑いに悩まされた。ハリリ家の人々も同様である。二つの説のどちらを支持するかで、家族はまもなく分裂することになる。
このメディアキャンペ-ンにおいて、シリアを非難する人々は皆アメリカとイスラエルの新保守主義者と関係を持つ。彼らは世界の世論に自分達の見解を強制することに成功した。直ちに様々な地位を持つ重要人物を動員することができたからだ。私達が見てきたように、このパブリックリレ-ションズの技術は偽情報を用いて世論を操作するためによく用いられる。いずれにせよ、国連の調査委員会責任者デトレブ・メヘリスが調査がバシャ-ル・アル=アサドの周囲に限られたと発表してメディアの注意を引いて以来、世論操作は容易になった。
しかし、注意深く見ると、メヘリスの方法は非常に奇妙である。
メヘリス検事の不明瞭な役割
ラフィク・ハリリを殺すことで、暗殺者は金融事業の流れを変えようとしたのかもしれない。アルマディナ銀行の倒産など。その場合、彼らは争点につりあわない危険を冒したことになる。これより可能性が高いのは、暗殺者の目的がレバノンを不安定化することだったことだ。元首相はキ-スト-ンであり、相対する力を中立化していた。この場合、彼が殺されたのは、特定の計画の障害だったからではなく、彼の死により国内に不均衡が生じ、レバノンが内戦に陥る可能性があるからだ。
ラフィク・ハリリの死は、レバノンを保護し彼が作ったタエフの合意以来レバノンの安定を維持していた3つの大国にとって悪い影響をもたらした。まず第一に彼の庇護者サウジアラビア、ついでフランス、そしてシリアである。シリアは影響行使に不可欠な対話者を失った。
テロの犯人は罰せられなければならない。暗殺の起きた日、ジャック・シラクは早くも問題を国際化することにした。彼の求めで、国連事務総長コフィ・アナンはベイル-トに予備視察団を送った。アイルランド警察のピ-タ-・フィッツジェラルドが視察団を指揮した。彼は報告の中で、レバノン治安軍の規律と調整力の欠如を指摘し、レバノン国家の弱体化存続の原因はシリアの保護であると述べた。東洋の政治の曲折を明らかに無視して、彼は政敵に責任を負わせる目的で新聞に発言する人物の言葉を信頼に値する証言とみなす。彼は調査のためレバノン司法部を援助する必要があると結論する。
コフィ・アナンはその調査をドイツの元検事デトレブ・メヘリスに委任する。論争の的になるこの人物の選択は元ユ-ゴスラビア国際法廷検事カルラ・デルポンテの助言によるという。カルラ・デルポンテ自身、元国務長官マデレ-ン・オルブライトの推薦で任命されていた。デルポンテはNATO軍事介入を後になって正当化するためにスロボダン・ミロセビッチへ人道に対する罪と民族虐殺罪で有罪判決を与える任務を与えられていた。4年にわたる訴訟の間、彼女は戦争犯罪で彼を有罪にするための多量の証拠を得たが、人道に対する罪や民族虐殺に関しては得られなかった。最終的に被告は梗塞-自然な、あるいは人工的な-で死亡し、訴訟は中止され、カルラ・デルポンテは物笑いの種になった。まもなく、彼女が贔屓にするデトレブ・メヘリスも同じ運命に遭うことになる。
これほど複雑な事件の予審を行うために不可欠な控えめな態度を取るどころではなく、メヘリスはイスラエルで養成された衝撃的なコミュニケ-ション・チ-ムに取り囲まれる。チ-ムは7ヶ月の調査をアメリカ風のショーに変えてしまう。チ-ムの重武装した車列が生中継でバシャ-ル・アル=アサドを追跡するかのようにこの地方を縦横に走った。少しずつ、レバノン司法部を援助する国連調査員デトレブ・メヘリスは手続きを無視して独りで行動しレバノンやシリアの警察や司法官に命令するスーパ-国際検事に変身する。彼は容疑者を指名し、国の判事に調査結果を伝えることなく予防的拘置を求める。一言で言うと、国連の名のもとに、彼は「司法の植民地主義」を発明する。
デトレブ・メヘリスは、イスラエルに抵抗するためにシリアの支持を受けた全ての者に恐怖を与える。彼は自己の外見上の全能に酔い、その後突然東洋の砂漠の中に姿を消した。センセ-ショナルな登場から7ヶ月後、一連の劇的展開があって彼の信用は完全に、また決定的に失われた。ベルリンではJunge Welt紙が、メヘリスの元同僚のドイツの判事達がスキャンダルに巻き添えになるのを恐れ、罷免を求める請願書に署名していることを明らかにした。最終的にメヘリスは辞任し、メディアを逃れようとベイル-トを急いで去った。この奇想天外な“シリ-ズ番組”の最初の数回は世界中に放映されたが、物語が一転すると西側メディアは目をそらせた。アラブ系テレビはこのショ-を大いに楽しんだ。
2005年9月1日、デトレブ・メヘリスは思い切った措置を行った。彼はレバノン共和国検事総長に4人の容疑者の逮捕と拘置を要求した。彼が指名した容疑者は、ムエウタファ・ハムダネ(大統領警備隊司令官)、ジャミル・アル=サイエド(治安部隊の元司令官)、アリ・アル=ハジ(国内治安軍の元責任者)、レイマン・アザ-ル(軍情報局司令官)である(« Hariri : quatre responsables sécuritaires déférés devant le juge d’instruction », AFP, 2005年9月1日)。これらの4人の人物は容疑を知らず、それを知るには1ヶ月後のメヘリス氏の報告を待たなければならない。国際世論への国連調査委員会のメッセ-ジは明確である。犯罪はレバノン情報局の4人の人物によって計画され、エミ-ル・ラフ-ド大統領とシリアのバシャ-ル・アル=アサド大統領の命令を受けて行動したというのだ(« Hariri : le président Lahoud dans la ligne de mire de ses détracteurs » ;« L’enquête sur l’assassinat de Hariri prend un tournant décisif »,AFP, 2005年9月2日、3日)。メヘリス氏は声明の代わりにメディアに提出した報告でこう書いている。「委員会の結論および物質的証拠と資料に基づきレバノン当局がこれまで進めた調査によれば、一連の証拠によりレバノン人とシリア人がこのテロに加担したことが示される。シリアの情報局がレバノンに偏在していたことはよく知られている。少なくとも、決議1559の後になされたシリア軍撤退までは存在した。レバノン安全保障責任者を任命していたのは彼らだった。レバノン社会の制度にシリアとレバノンの情報局が潜入していたので、これほど複雑な暗殺の陰謀の計画が彼らに知られていなかったことは考え難い。」(Rapport de la Commission d’enquête internationale indépendante créée par la résolution 1595(2005)du Conseil de sécurité by Detlev Mehlis ; 2005年10月20日国連)アメリカとイスラエルの政府はバシャ-ル・アル=アサドをテロの首謀者として糾弾し、エミ-ル・ラフ-ド大統領を共犯とみなした。安全保障理事会では制裁を決定するための新たな決議が作られる。レバノンとシリアの政府はこの工作に反発し、抗議のデモが企画される。冷戦時代にアメリカを中心に作られた北大西洋条約機構(NATO)擁護派新聞の記者はシリアの政権交代とバアス党政権終結について述べた。
バアス党は汎アラブ主義、政教分離主義、社会主義の政党である。1947年に作られたこの政党は、イスラム教を尊重しつつもそれに頼ることなくアラブ諸国を一つの大きな国家に統合することを目指している。イラクで権力を行使し、シリアでも行使し続けている。過去、バアス党は暴力的な軍政独裁体制を敷いたことがある。2000年に大統領に選出されたバシャ-ル・アル=アサドの推進力により党は正常化した。現在は、制服や儀礼に軍隊の起源の名残りが見られるとはいえ、近代的な政党の一つである。
デトレブ・メヘリスの結論に戻ろう。メヘリスは、レバノン治安部隊が急いで交通止めを解除し証拠の採取が終らないうちに犯罪の現場を乱したことが、彼らの上層部が犯罪に加担していることの証拠だと言う。
ところが、原住民の警察や司法官のミスや怠慢が彼らの隠蔽さらには暗殺者との共犯を証明するという論拠は、帝国主義の古典的な方法である。列強が弱国を人権侵害などで訴え、干渉権を不当に手に入れようとする時、常にこの手段が用いられる。例えば、ハイチでジャン=ベルトラン・アリスティド大統領に対して用いられた。彼の警察がいくつかの暗殺事件を解明できなかったために、それらの殺人の首謀者だという非難を受けた。現実はもっと単純である。多くの弱国と同様、内戦後再建されたばかりのレバノンには有能な人材が乏しく、このような調査を独自に行うための科学警察の手段も持たないのだ。
これらの非難以外に、報告書は匿名の人々の証言と一人の「悔悛者」ザヒル・サディクの証言を論拠としてあげている。この証人はメヘリスから自白とひきかえに身の安全を保証されていた。彼はテロの準備における自らの役割を明かした。自宅での秘密会議、共犯者の名前、作戦の詳細、シリア軍からの物資提供、偽の犯行声明の準備。ところが、名差しで嫌疑を受けたこれらの人々はそのような発言や行為を行ったことを否定した。
国連事務総長コフィ・アナンは、多少なりとも誠実に、推定無罪に反して彼らの名前を記者達の餌にしたことを謝罪している。記者に手渡した紙では名前は伏せられていた-国連のインタ-ネットサイトで発表されたバ-ジョンには誤って名前が載ったのだと。
しかし、国連調査団の最大のミスは、悔悛者ザヒル・サディクの名前を公開したことだった(« Hariri investigation : Key figures », BBC Online, 2005年10月21日)。パリでは、情報局がこの人物を知っていた。フランス側は罠に気づくが、慎重にふるまった(« Attentat auf Hariri-Mordkomplott zu Syriens Gunsten » by Yassin Musharbash, Der Spiegel, 2006年10月21日 ; « Syria claims witness in Hariri inquiry was under duress » by Rory McCarthy, The
Guardian, 2005年11月30日 ; « Syria attacks Evidence as U.N. Case Turns More Bizarre » by Michael Sackman, The New York Times, 2005年12月7日)。ベイル-トでは、ハッサン・ナスララが宣言する。「私達はアメリカとシオニストから非難を受けレバノンとその抵抗運動を支持したことで政治的な制裁を受けるシリア政府とシリア国民の味方であることを明確に表明する。」彼はアラブ連盟にも訴えを行う。
ザヒル・サディクはレバノンを去ったが、フランスに到着すると詐欺容疑で逮捕され拘禁された。この男はデトレブ・メヘリスに自分の身分と履歴について偽の証言を行った。サディク自身の主張とは逆に、シリアの情報局の重要なメンバ-であったことは一度もなく、彼が主張するような役割を演じることはできなかった。アメリカとハリリ派の陣営に移ったリファアト・アル=アサド(シリア大統領の叔父)と親しいサディクは彼と共にマルベラの邸宅で計画を立てた。彼は自発的な証人としてデトレブ・メヘリスに接触し、メヘリスの要請でフランス対外治安総局(DGSE)によってフランスに移送された。フランスで彼は尋問を受けた。国連に彼の証言が記録されると、彼は自分の兄(弟)に自分が偽の証言によって百万長者になったと電話で述べた。そのため、彼を監視していたフランスの防諜局DSTが秘密を発見した。メヘリスは情報を知らされたが、何も知ることを望まない。最終的に、報告書の提出直前に国際逮捕状を出してサディクを黙らせる。サディクはフランスで拘置される(« Le clan Hariri aurait manipulé un témoin clé de l’enquête », Le Figaro, 2005年11月30日)。
1ヶ月後、第二の重要証人、ハッサム・タヘル・ハッサムがシリアテレビで生中継の記者会見を開き、アラブ系ニュ-スチャンネルのほとんどがこれを放映する。彼は強制されて偽の供述を行ったこと、その報酬として130万ドルを受け取ったことを明かした。彼はラフィク・ハリリの息子サ-ド・ハリリとハリリ派の記者ファレス・ハシェン(Farès Khachane)を直接非難した(« Hariri : un Syrien affirme avoir fait un faux témoignage sous la contrainte » ; « Hariri : un témoin syrien se rétracte et jette le trouble à Beyrouth », AFP, 2005年11月28日、29日)。
さらに、記者タラト・ラミ(Talaat Ramih)がアルジャジラの番組「反対意見」においてメヘリス氏の驚くべき経歴を明らかにした。元検事は被告となり、裁かれるべきだという。1980年代、当時のアメリカの副大統領、ジョ-ジ・ブッシュ父はリビア不安定化計画を実施した。共和党の選挙運動に資金援助を行ったハント家を犠牲にして石油を国有化したことへの対抗措置である。CIAはカダフィが自分の家族を保護することもできないとわかった場合ベドウイン族への権威を失うように計らう。
1986年4月5日、GIの黒人が出入りしていたベルリンのディスコ「ラ・ベル」で爆弾テロが起きる。3人が死亡し、230人が負傷した。ドイツの捜査員は慎重に対処するが、アメリカは直ちにカダフィが首謀者であると非難した。発見された証拠によりムシャブ・エテルという人物が嫌疑を受け、マルタ島で尋問される。しかしアメリカ側は、ベイル-トのリビア大使館の職員が犯人であることを示す秘密の情報を握っていると断言した。この人物も尋問を受け送還された。しかし証拠不十分で釈放されそうになる。
4月14日、ジョ-ジ・H・ブッシュとロナルド・レ-ガンはリビアに対し報復作戦を開始する。大統領官邸が爆撃され、大統領の養子の娘を含めた民間人40-100人が死亡した。彼の妻と7人の子供達は重傷を負った。
レ-ガン大統領は数時間後にテレビで発言した。執務室から同国民に語りかけ、軍事活動開始について知らせた。彼によれば、リビアは世界各地でのテロの首謀者である。「ラ・ベル」のテロも同様だ。このテロへのリビア政府の関与はドイツの情報局が傍受した外交官の通信から証明されている。アメリカ政府は国連憲章が認める正当防衛の権利に従い、対抗措置として、テロリストの公共施設に対して行動を起した、と。
15分後に、ドイツの検事デトレブ・メヘリスがマルタ島からムシャブ・エテルの証言を得たと発表する。エテルはCIAの情報すなわちリビア外交官がテロを計画したことが正しいと認めたという。これで米国防省は正当防衛として行動したことになる。
2年後、ドイツのテレビが情報提供者ムシャブ・エテルが実際はCIAのスパイであり、この人物への追跡が中止されたことを明らかにした。リビアの外交官モハメド・アマイリの共犯である人物―真のテロリストである可能性がある人物-はノルウェ-に逃げ、判決を受けることはない。こちらはモサドのスパイだった(Frontal, ZDF, 1998年8月28日)。
デトレブ・メヘリスは20年前からアメリカの利益のためアラブ世界に敵対する活動を行っていることがわかる。
さらに、デトレブ・メヘリスはアメリカのイスラエル擁護ロビ-を自認するアメリカイスラエル公共問題委員会(AIPAC : American Israel Public Affairs Committee)と関係のあるワシントンのグル-プ、ワシントン近東政策研究所(WINEP)で教鞭を執る。アメリカ軍産複合体の研究所、ランドコーポレ-ションにも勤めている。2003年に彼がこの二つの機関から受けた報酬は8万ドルにのぼる。
不幸は続く。Réseau Voltaireの協力者の一人、ドイツの元犯罪捜査員ユルゲン・ケイン・クルベルが破壊的な再調査「ハリリ暗殺問題」を発表した(Mordakte Hariri, Unterdrückte Spuren in Libanon by Jügen Cain Külbel, Zeitgeschichte Band 34 éd., 2006 )。彼はメヘリスが重要な手がかりを無視したことを示した。それを技術的に研究することで、彼はモサドに辿り着いた。
本性が暴かれたことを知り、国連調査委員会委員長はカメラを避けて急いで舞台を去る。コフィ・アナンは2006年1月初め、彼の代わりにベルギ-人のセルジュ・ブラメルツを任命する。
この後任者は前任者とは一線を画することを示すためメヘリスと仲たがいする。しかし言葉よりも行為で示すべきだろう。実際は、ブラメルツは国際法廷でカルラ・デルポンテの補佐官を務めた人間だ。前任者の推薦で任命されたため、ブラメルツは前任者の協力者全員を保持した。
調査は最初からやり直しとなる。
疑わしい証言を除けば、もはや進歩社会党代弁者マルワン・ハマデの尋問しか残らない。彼がラフィク・ハリリから受けたという告白と、アサド大統領とラフ-ドが犯人だという彼の確信についての長いおしゃべりである。証拠物件とは、モサドとNSAが傍受し親切にも提供した通話の筆記記録である。それでも、デトレブ・メヘリスが容疑者として挙げた4人の将軍の拘置は派手な生活をしている一人のレバノンの判事によって継続された。彼らに嫌疑をかける証言はもはや効果を持たず、ブラメルツ自身、彼らが拘置されている理由が理解できないと言っているにも関わらず。
彼らに対して用いられた唯一の証拠は、調査委員会が行った通話分析である。特定された関係者の2235の電話回線に属する70195の通話のデ-タが特別なソフトによって分析された。暗殺者達はテロの当日通話のために6枚のテレフォンカ-ドを購入していた。第七のカ-ドはテロの後、メディアに連絡するために用いられた。同じカ-ドが異なる容疑者達に電話するためにも用いられた。この手がかりについてGIGN創始者で司法警察捜査員、現在カタ-ルとアブダビの首長安全補佐官のポ-ル・バリル大尉に質問すると、大尉は、この作戦の暗殺者達はプロであると述べた。「電話のデ-タが分析され、将軍達に容疑がかかることを知らなかったはずはない。これは将軍達の有罪を示すものではない。暗殺者達が意図的に彼らを犯人にしようとしたことが示される」と彼は結論した(2006年11月と12月、ポール・バリルとの対談)。
国連の調査委員会の混乱にいらだち、アメリカとイスラエルの政府は次の段階に集中する。両国はレバノン軍事介入を準備する。
レバノン攻撃計画
国連調査委員会が起訴問題で手こずり、CIAがバシャ-ル・アル=アサドの後継者を探している間に、アメリカとイスラエルの参謀本部は彼らの攻撃計画を作った。アメリカ軍はイラク戦争で忙しく、休暇のリズムも遵守することができない。ドナルド・ラムズフェルド国務長官は新規の軍がレバノンやシリアに送られることを望まない。作戦はイスラエル軍の下請けに任されることになった。装備品、弾薬、情報局はアメリカのものを使う。
私達独自の情報筋によれば、ラムズフェルドは問題を信頼のおける人間、元特殊参謀本部議長バンツ・J・クラドック将軍に任せた。彼は南方軍(ラテンアメリカのアメリカ軍)でグアンタナモの尋問センタ-を設置し終わったところだ。クラドックは2006年9月の終わりにNATOの最高指揮官かつアメリカ欧州軍(欧州に駐在するアメリカ軍)の最高司令官に任命されることが決まった。この機会に指揮の地帯が改変された。アメリカ欧州軍はすでにイスラエルとトルコに拡大されていたが、レバノンにまで拡大される。全ての作戦はそこから指揮されることになる。戦争後は、クラドックは安定化のためのNATO軍を指揮し続けるはずだった。
イスラエルは複数のシナリオを想定する。San Francisco Chronicleによればイスラエル軍の士官がアメリカの様々な決定グル-プに最終的な計画を提示した(« Israel set war plan more than a year ago. Strategy was put in motion as Hezbollah began gaining military strength in Lebanon » by
Matthew Kalman, San Francisco Chronicle, 2006年7月21日)。この計画は3週間の戦争を予定する。「最初の1週間はヒズボラの長距離ミサイル発射台の破壊、指揮センタ-の爆撃、交通の遮断に集中する。二週間目に、標的はロケット弾発射施設と武器庫に移る。三週間目に陸軍が侵入するが、これは偵察任務の際に特定された標的を捕えるためである。」
私達が得た情報によれば、物資や弾薬は51、53、55、56と名づけられているイスラエルの米軍基地に運ばれた。再補給はイタリアのアヴィアノ基地に存在する第16空軍からもたらされる。戦争がシリアまで広がった場合は、フランスのイストルを含めた欧州やトルコの各地の軍事飛行場を必要に応じて使うことになった。
イスラエルはアメリカ軍心理戦争部隊がユ-ゴスラビアで作りイラクで実施した「犬の戦い」モデルを実験することになった。アイデアは単純だ。国をわずかな人間で統治することが可能だ。愛国心を壊し、国民を相対するグル-プに分裂させ、互いに敵対させ内戦を引き起こしさえすればよい。まず初めに国境を閉ざし、交通を遮断して国を孤立させ、特定のグル-プによる殺害計画についての噂を流し、テロを計画してそれを信用させる。すぐにかつての友人は互いに恐怖を抱き、いがみ合うことになる。
このモデルをレバノンに適用するのは一層容易である。レバノンはすでに恐ろしい内戦を体験しており(1975-1989)、社会の仕組みがこの種の操作に適しているからだ。「レバノン国民の計画は市民平和と共存だったにも関わらず、レバノンにおけるアメリカの真の計画は内戦を扇動することだった。(……)レバノンが内戦に戻ることはない。政治勢力とメディアが宗教間の緊張を減少させる努力をし、再びレバノンを破壊することは許されないと皆に理解させるべきだ」とハッサン・ナスララは2006年4月、内戦31周年記念日に宣言している(« Le Hezbollah accuse les USA d’avoir un projet de guerre civile au Liban », AFP, 2006年4月15日)。
客観的に言えば、内戦を再び引き起こすことはそれほど困難ではない。レバノン人は共存することを学んだとはいえ、相変わらず国民的感情を感じていないからだ。
レバノン内部の均衡
憲法と内戦を終らせたタエフの合意が宗派主義を少しずつ排除することを目的に掲げているとはいえ、歴史はレバノン国民を17の認定宗派に分け、各宗派が独自の市民法と法廷を持った。国家の最高職務は宗派の間で分割されている。大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンニ派、下院の議長はシ-ア派、等。全ての行政部は割当てのシステムに規制されている。人口の現実は大きく変わったが、割当ては1932年の人口調査に従って計算されている。4800万人のレバノンのうち、今日マロン派は35%、シ-ア派は29%、スンニ派は29%、ドゥル-ズ派は5%と考えられている(Youssef al Douweïhiの研究、An-Naharが発表2006年11月13日)。もっとも、この調査ではシ-ア派とスンニ派が同数であるが、それは誤りで、シ-ア派が明確に多数派になっている。内戦の流血の戦いの後、皆が理解したのは、悪い妥協も良い戦争よりはましだということだ。こうして敵の同胞達は礼儀正しく国民統合政府の議席を占める。
さらに、レバノンとシリアは1916年、地域を分割したフランス帝国とイギリス帝国によって作られた。その日以来、レバノンとシリアの政治責任者の大部分は両国の統合さらにはアラブ民族全体の統合を望んできた。しかし、レバノンの政治家の中には両国が1世紀近く前から別々に発展してきたため-経済格差が大きすぎて-統合は不可能だと強調する者もある。特に、統合により共同体間の人口比率が変わる。そのため、キリスト教徒は常に統合に反対し、イスラム教徒は逆に賛成してきた。最終的に、2006年2月以来統合を諦めるが両国の緊密な隣国関係を定めるコンセンサスが作られている。ベルリンの壁崩壊後のドイツ統一や朝鮮に関する討論を思わせる。この問題は関係者にしか解決することができない。ところが、NATOプロパガンダにおいてはアメリカやフランスの政府に忠実なレバノンの政治家は「西側擁護派」と呼ばれ歓迎される一方で、民族独立を擁護する人々は軽蔑的に「シリア擁護派」と呼ばれる。しかし、ドイツとの比較を続ければ、統一を準備したヘルム-ト・コ-ルは「ドイツ民主共和国擁護派」と呼ばれることがあっただろうか?
この文脈で、アメリカの大衆操作専門家はラフィク・ハリリ暗殺を利用して、グルジアのバラ革命、ウクライナのオレンジ革命、キルギスタンのチュ-リップ革命に倣った杉の革命を引き起こそうとした。その原則はよく知られている。大衆の欲求不満を贖罪のヤギに集中させ、市民の不服従により政府崩壊を引き起こし、群集が意識を取り戻す前に新たなチ-ムを課すことだ。内戦とイスラエル占領を忘れたいレバノン人は、この暗い時期の最後の名残りであるシリア軍を攻撃する。群集はバシャ-ル・アル=アサドを罵倒し故ラフィク・ハリリを英雄視する。国は再び分裂し、シリアの保護の賛成派、反対派の大きなデモが続く。しかし、色の革命のレシピは失敗した。シリアが憤慨するどころか自発的に軍隊を撤退させたからである。贖罪のヤギがいなくなり、有権者達は理性を取り戻した。集団的な感情と不公平な選挙区割りを利用して2005年5-6月の選挙では故人の息子サ-ド・ハリリの連合が過半数を獲得したとはいえ、計画されたような群集の波は生まれなかった。ネオコンの「ドミノ効果」―ダマスカスからテヘランまで民衆蜂起が伝染する-の夢はかなわなかった。
国会で過半数を占めるこの連合は、失敗に終った杉の革命の間に計画されたシリア軍駐在反対デモを喚起する3月14日連合という名を持つ。10つの党が含まれる。ハリリ家の未来潮流(スンニ派)、ジュンブラット家の社会進歩党(ドゥル-ズ派--シ-ア派の反対派とみなされるイスラム信心会)、ミシェル・アウン将軍の自由愛国党(キリスト教)、サミル・ジャージャのレバノン軍団(キリスト教)が含まれる。これら全ての党はアメリカ擁護派であるが、イデオロギ-的には雑多である。未来潮流はアメリカの共和党と親しく、社会進歩党は社会主義インタ-ナショナルのメンバ-であり、自由愛国党はキリスト教民主主義に属し、レバノン軍団(元ファランヘ)は明確にファシスト団体である。
3月14日連合は資産家階級と同一視できる。この連合はハリリ家とジュンブラット家が基盤となっている。ハリリ家は再建のための国際援助の半分を横領して世界で15番目の財産を獲得した。ジュンブラット家の財産はそれよりは少ないが、それでも彼らは百万長者であり、内戦の間に戦利品を蓄えて財産を作った。ワリド・ジュンブラットは戦争犯罪人である。彼は1984年にアブラ村などのギリシア正教の村を破壊した(« Nettoyages », André Fontaine, Le Monde, 1985年5月29日)。
複数の選挙区で投票結果の誠実さに関して深刻な疑いが存在するが、内戦でひどい目にあたレバノン人達は異論を唱えるのを諦めた。いずれにせよ、3月14日連合はもはや有権者の4分の1だけに支持されているようだ。
反対派は、今日ヒズボラに支配されている。その生成過程と変遷を無視して「シ-ア派党」と誤って提示される団体だ(Hizbullah, The Story from Within, by Naim Qassem, Saqi.éd.,2005. ; Le Hezbollah, un mouvement islamo-nationaliste, by Walid Charara and Frédéric Dumont, Fayard éd., 2004. ; Hezbollah, by Hals Jaber, Columbia University Press éd., 1997.)。
1982年から2000年のイスラエルのレバノン占領は国の南部において特に残酷だった。恣意的な逮捕、不法拘置、拷問が大規模に行われた。抵抗者のグル-プがあちこちにできた。最も貧しい社会階級の人々が多かった。失うべき財産はなく、勝ち取るべき名誉だけを持つ人々だ。このような状況では常にそうだが、抵抗ネットワ-クはメンバ-同士の固い信頼関係に基づいて作られる。共同体別に分かれた社会では、共同体への帰属に基づく。抵抗組織はイマムのシ-ア派の間に大量に生まれた。多くはイマムのム-サ・サドルの記憶やイラン革命から着想を受けた。「地に呪われた人々」はシオニストの占領と社会不正に対して蜂起した。このばらばらのネットワ-クは少しずつ連結し合い、ヒズボラのもとを作った。この名前は標語から来ている。「勝利するのは神の陣営である。」コ-ランの抜粋である(スーラ5、56節)。
2000年のイスラエルに対する最初の勝利とエフ-ド・バラクの命令による部分的撤退の後、ヒズボラは民族抵抗運動の政党としての態度を明確にした。慎重に行動し、占領の終わりにも協力者への復讐や野蛮な浄化が起こらないよう注意した。ヒズボラは民主的政治活動を行い、すべての共同体に門戸を開いた。相変わらず外国の占領下にあるシェバア農場の解放を誓い軍の支部を維持した。
ヒズボラを宗教原理主義と同一視するのは間違いである。これは、イスラム教に由来する政治組織がすべて反啓蒙的であるかのような見方だ。実際は進歩的な運動であり、カトリックのラテンアメリカの解放の神学者達の運動と比較できる。そもそも二つの潮流は接点を持つ。多数のレバノンのイスラム教徒ディアスポラがラテンアメリカに住み、パレスチナ人のカトリック教徒が解放の神学の近東バ-ジョンを発達させたのだ。
国会では、ヒズボラは他の二つの政党と共にグル-プを形成する。
まず最初にアマル。ヒズボラよりも古い政党で、ヒズボラの指導者達はその中で政治活動を始めた。指導者は現在の下院議長ナビハ・ベリである。
そして、アリ・カンソの汎シリア社会民族党、最も古いレバノンの政治団体である。1932年にフランスとイギリスの帝国主義に対抗するために生まれた。政教分離主義で反ファシスト政党であり、選挙における重みよりもはるかにまさった知的影響力を行使する。多くの重要人物がこの党に加わった。ハッサン・ナスララの父も一時期党員だった。
他の党は彼らに従った。
首長タラル・アルサンのレバノン民主党はジュンブラット派の不安定な同盟に反対するドゥル-ズ派の一部を集める。
最後に、皆が驚いたことには、ミシェル・アウンの自由愛国党がアメリカの保護者と手を切り3月14日連合を離れて反対派に加わった。自由愛国党はマロン派キリスト教のブルジョワジ-からなる大きな党である。元レバノン軍参謀長官で、また批判を受けた元首相でもあるミシェル・アウンは長い間シリアの保護とパレスチナ義勇軍への反対を体現してきた。湾岸戦争の際にフランスに見捨てられ、1990年亡命を余儀なくされ、2005年、シリア撤退後に初めて帰国することができた。亡命中は恨みを抱くなどと描写されたが、そのイメ-ジとはほど遠く、アウン将軍は内戦にきりをつけ、宗教的分裂を排除した真に民主的な未来のレバノンの基礎作りに取り組んだ。シリア撤退後はシリア政府との争いを終結させたと考え、バシャ-ル・アル=アサドの政府と礼儀正しい関係を結び、シリア軍がヒズボラの軍の派閥を支持してシェバア農場を解放しようとすることには何の問題も認めない。国の独立に身を捧げ、「シリアの干渉」(タエフの合意が市民平和維持をシリア軍に任せた際)に対する戦いから今日のイスラエルのシェバア農場占領とアメリカによる内政干渉に対する戦いへの連続性を明確に示す。
ヒズボラと自由愛国党は交渉し「合意文書」を実現した。これは様々な理由で注目すべき資料である。過去を乗り越えてこれを書くには、ハッサン・ナスララとミシェル・アウンの大きな知恵が必要だったろう。また、この文書は決議1559が提示する全ての問題を含めた様々な問題に解決をもたらす。
他方で、国連の捜査員とレバノン情報局は調査を続けていた。調査は予期せぬ展開を見せることになる。
テロの首謀者は誰か?
2006年6月14日、国連調査委員会の新たな責任者、セルジュ・ブラメルツは安全保障理事会に報告書を提出した。会議の報告を見る限り、彼が現実に行った慎重な介入は前任者の派手なスク-プとは対照的である。
「委員会は予備的ないくつかの結論に達したとブラメルツ氏は述べた。2005年2月14日12時55分5秒に起きた爆発は表面の爆発であり、地下爆発ではなかった。にわか仕立ての大きな爆弾が三菱の自動車に仕掛けられており、ラフィク・ハリリの車が傍を通った時に爆発した。爆弾には1200キロのTNTに相当するものが含まれており、三菱トラックの中か前にいた人物によって起爆されたと考えるのがもっともらしい。委員会は、ロイタ-通信社とアルジャジラに送られたビデオの録画で犯行を認めた者が攻撃の犯人であるとは考えない。爆発の場所で採取された人間の残骸に由来するDNAは、テロ犯行を主張するアーメド・アブ・アダスがラフィク・ハリリと他の22人の生命を奪った爆発を起爆した人間ではなかったことを示すとブラメルツ氏は述べた。使用された爆発物の量と爆発の規模の大きさから、ラフィク・ハリリに対する犯罪は標的殺人であるとブラメルツ氏は指摘した。レバノン元首相の車が爆発を直接受けなかった場合も彼を殺すことを目的としていたことがわかる。
委員会はテロの組織について二つの仮定に基づいて調査を進めた。まず、攻撃が個別的に組織・実行されたという仮定。計画、現場の認知、爆発物の製造、トラックの購入、爆発物を起爆する人間の選択、テロ犯行声明のビデオ製作に複数の人間が関わり、各段階の準備は互いに接触を持たない人々によって行われたとする。第二の仮定は、ラフィク・ハリリ殺人は唯一のグル-プに任せられたとする。テロ首謀者に関して委員会はいくつかの仮定とシナリオを発展させたとブラメルツ氏は述べた。(……)これに関し、委員会は暗殺の際レバノンと地域で支配的な公式、非公式な構造を明確にするのを助ける人々と共に尋問を続けている。委員会は異なる組織のレバノン・シリア士官を尋問している。
調査委員会への協力国に関し、ブラメルツ氏は報告書が扱う期間シリアが提供した援助は満足のゆく内容だったと述べた。シリアは直ちに全ての求めに応じ、いくつかの点において詳細な返事を与えた。(……)他のメンバ-国へもますます多くの援助が求められた。2006年3月15日以来、委員会は32から33カ国のメンバ-国に援助を要請し、調査が国際的であることを示す。レバノン政府とのやりとりは全てのレベルで非の打ち所がないもので、レバノン検事総長と調査判事の取り組みと支持のおかげで委員会の調査に進歩が見られたとブラメルツ氏は述べた。レバノン政府、軍、国内治安軍は委員会の任務遂行に必要な安全を保証したとブラメルツ氏は述べた。調査委員会の長はまた、委員会が2004年10月1日以来起きた14回の攻撃に関しレバノン当局に援助を提供したことを述べた。委員会は各テロの調査を進め、調査を統合するよう努力し潜在的な相互関係を示すようにした。(……)分析的に見ると事件は様々な形で、特に実行形態と意図に関して関連している可能性がある。」(安全保障理事会報告2006年6月14日、5458回会議、朝。ONU : CS/8747)
ブラメルツが過去の犯罪について調査を行っている間、事件は続く。ラフィク・ハリリはヒズボラと対話中に暗殺されたとすれば、ハッサン・ナスララも1年後に暗殺されるはずだった。しかしレバノン情報局がその陰謀を失敗に終らせた(« Liban –Complot déjoué contre le chef du Hezbollah », Reuters, 2006年4月10日、 « Lebanese intelligence said to thwart plan to kill Hezbollah chief », « Lebanese military court charges 14 suspects in plot to kill Hezbollah leader », BBC, 2006年4月10日、 »Lebanese Army Says Foiled Plot To Kill Hezbollah Leader », Dawn Jones Newswire, 2006年4月10日など)。
2006年4月の最初の週末、軍は「一つのネットワ-クに属するよく訓練されたメンバ-」9人を逮捕する。テロを準備していた8人のレバノン人と1人のパレスチナ人だ。この「組織されプロで訓練を受けていた人々のグル-プ」はエジプトとサウジアラビアがこれ見よがしに調整役を果たし、ロシアが控えめに、しかし効果的に参加したレバノン派閥の指導者間の国民対話の会議の際にテロを実行するはずだった。
軍のスポ-クスマン、サレ・スレイマンによれば、事件は「準備段階」にあり、まだ「実行の段階」には達していなかった。この集団は3月以来ナスララの移動をスパイしており、対戦車ロケット弾で武装しており、テロの当日にはこれでヒズボラ書記長の装甲車を爆破する予定だった。当局はロケット弾発射機、手榴弾、ポンプ銃、機関銃、無音ピストル、コンピュ-タ-のバッテリ-とCD-ROMを押収した。
レバノン日刊紙アッサフィルによればアメリカ製のロケット弾がベイル-トで4月28日ナスララとその装甲車を爆破する予定だった(La longue route d’Israël vers la guerre de juillet, Jürgen Cain Külbel)。軍判事ラシド・ミツヘルの調査によれば、この犯罪に90人以上が関与していた。そのうち何人かはナスララの自動車を40日間監視していた。他の者はガレ-ジを武器庫に変え、アメリカ製のロケット弾、ロシア製の機関銃、中国製の手榴弾を隠した。計画者達はC4や他の爆発物も入手しようとした。他の人物の暗殺やモスクへの爆弾テロも計画していたからだ。
ベイル-ト南部のヒズボラ司令部の近くで逮捕された共謀者は軍の情報局の尋問を受けその後軍問題担当判事に引き渡された。当局は他の共犯者の捜索を続け、首謀者すなわち「ネットワ-クに資金を与え訓練し武器を与えた国か派閥」を明らかにしようとした。
これらの情報にコメントしたハッサン・ナスララは国民に警戒を呼びかけた。この陰謀はラフィク・ハリリ暗殺や他の人物の暗殺と同様、国民対話破壊と内戦再開の目的を持つと彼は述べた(« Le Hezbollah accuse les USA d’Avoir un projet de guerre civile au Liban »,AFP, 2006年4月15日)。
未来潮流(ハリリ派政党)のメンバ-である元議員が共謀者達に様々な武器の所持を許可していた。この人物、ハリリJrの選挙運動責任者でハリリ父の親しい友人のサリム・ディアブは彼の政党の「政治・軍の支部の攻撃隊長」とみなされている。2005年7月から早くも彼は武器を支持者に配っていた。
ワリド・ジュンブラットの社会進歩党のメンバ-1人も警察に逮捕された。
テロリストのネットワ-クがなくなり、レバノンは国内の政治騒乱から守られる。レバノン情報局から漏洩する情報によれば、テロ集団はナスララの暗殺によりイラクと同様宗教間の-スンニ派、シ-ア派、アラウィ派、ドゥル-ズ派、マロン派、コプト派の間の-緊張を引きこすことを望んでいた。レバノン大統領エミ-ル・ラフ-ドは深い調査を求め、レバノンの国の統一を破壊しようとする敵に対する警戒を呼びかけた。彼はナスララがレバノン南部の解放に重要な貢献をし、常に国の平和のために取り組んできたと述べた。首相のフアド・シニオラは「この種の計画は全て市民平和への脅威である」と宣言した。国会議長ナビハ・ベリは、イスラエルが国民対話を破壊するためのこの陰謀の背後に存在すると考える。統一した平和なレバノンはイスラエルにとって「危険」を意味するからだ。ベリはこれら全ての作戦はシリアも標的にしている、ヒズボラへの支持を罰するためだと付け加えた(« Im Terrorsumpf », Jürgen Cain Külbel, Junge Welt, 2006年4月19日 )。
ハッサン・ナスララ暗殺の企てに関わった人々の逮捕後2ヶ月以内に別の人物がテロの犠牲になった。今回は、調査が殺人者のネットワ-クの解体を可能にした。彼らは何年も前から一つの敵国のためにレバノンで活動していた。
2006年5月26日、パレスチナのイスラム主義ジハ-ドの司令官の一人マフム-ド・アル=マジズブが南部のシドン市で自動車爆弾テロで殺された(« Palestinian Islamic Jihad confirms official killed in Lebanon attack » ;« Lebanese MP blames Israel for attack on Palestinian Islamic Jihad official », BBC monitoring, 2006年5月26日)。イスラム主義ジハ-ドのレバノンの指導者アブ・イマド・リファイはモサドが犯人だと述べた(« Islamic Jihad Accuses Israeli Intelligence Over Car Bomb », AP, 2006年5月26日 ; « Islamic leader killed in Lebanon blast », AFP, 2006年5月26日)。
ベイル-トでは、政府はテロを非難し「イスラエル占領の印」が見られると述べた。首相のフアド・シニオラも公然と「イスラエルは主要な容疑者だ」と述べた(« Islamic Jihad member, brother die in Sidon car bomb » by Leila Hatoum ;« Cabinet points finger at Israel in Sidon bombing » by Nafez Qawas, Daily Star, 2006年5月27日)。
シドンで使用された遠隔操作爆弾は特に意味深い。凝縮された500gの爆弾が通常の5kgの爆弾と同じ効果をもたらした。レバノン情報局によれば、この種の爆弾が前年にレバノン共産党の元党首ジョルジュ・ハウィと記者のサミル・カシルを暗殺するのに用いられた。「爆発の現場で大量にみつかった鋼鉄の小玉の破片が、爆弾が標的暗殺のために特別に作られた地雷であることを示す。ハウィとカシルの暗殺の現場でみつかったものと同一である。」国連はラフィク・ハリリ暗殺の調査の枠組みでハウィとカシルの暗殺を調査する(« Israelischer Bombenterror », Jüngen Cain Külbel, Jungen Welt, 2006年5月31日)。捜査員達はこの3つのテロの方法が同じであることを認めた。
2006年6月半ば、このテロを調査中に、レバノン情報局はイスラエル情報局がレバノンに設置したテロリストのネットワ-クを発見した。シドンのテロの犯人はこの組織に属していた(« Beirut steps up search for head of terror gorup tied to Mossad », by Karine Read ; « Judiciary starts work on case of
Mossad-linked terror group », Daily Star, 2006年6月20日、27日)。
取調べを受けた7人のメンバ-の中に、ドゥル-ズ派のハスバヤ村出身の59歳のレバノン人マフム-ド・ラフェハが存在する。レバノンの退役憲兵で国内治安軍(FSI)の元メンバ-である。彼はイスラエルによって1982年-2000年に作られ武器を与えられた義勇軍、レバノン南部軍のメンバ-でもあった。彼は警察に、1994年にモサドに採用されイスラエルで養成を受け「ハイテク」装備品と偽のパスポ-ト二つ、資料と許可証を与えられたと述べた。ハスバヤの家でモサドと直接接触しており、暗号を用いて通信していた。家宅捜査の際、捜査員は指名された「標的」の住所をイスラエル航空機に送るための電子器具を発見した。
レバノン国防大臣エリアス・ムルは2006年6月15日木曜日にイスラエルの航空機がシドンで自動車爆弾を遠隔操作で起爆したと述べた。「これまでに得られた情報により、爆弾が仕掛けられた自動車の爆発は尾行トラックに設置された監視カメラで車の動きを追っていたイスラエルの航空機によって引き起こされた可能性が高い。」国防大臣はまたこうも述べる。「30年にわたるイスラエルのレバノン軍事介入において、これほど高度な技術を用いた作戦は初めてだ。テロ技術、爆弾に関するこれほどの覇権に対しては、誰一人、いかなる場所でも安全ではない。」(« Israeli Plane Detonated Bomb That Killed Two Islamic
Djihad Officials, Defense Minister Says », An Nahar, 2006年6月16日)
レバノン軍はテレビでシドンのテロの証拠物件を提示する。イスラエル製の特別カメラ、偽の免許証と身分証明書、爆発物輸送のための改変エアコンシステム、爆弾仕掛け拡声器。軍は、テロリストが最終的に、爆弾の詰まった自動車のドア-レバノンに密輸された-の使用を選んだと述べた。
レバノン軍は声明で述べている。「軍の治安部の調査により、高度な技術を持つテロリスト組織は数年前からイスラエルのモサドと接触していており、イスラエルや国外でモサドに養成されていたことが分かった。このネットワ-クは(……)イスラエル情報局によって通信、監視、標的の特定のための器具を与えられていた。偽の資料や二重の底を持つ袋などが同様に与えられた。」モサドが彼らに弾薬を与えていたという。
2人の死者を出したシドンのテロ以外に、テロ組織の指導者マフム-ド・ラフェハはヒズボラ幹部アリ・ハッサン・ディエブ(アルバ、1999年8月6日)とアリ・サレ(2003年8月2日)の殺害、パレスチナ解放人民戦線の司令官アフマド・ジブリルの息子ジハ-ド・アフマド・ジブリルの自動車爆弾による暗殺についても自供した。彼はテロ未遂事件を繰り返し、警察が未然に防いでいた。2005年1月18日にはアルザフラニ近くでテロを計画し、1999年8月22日にはジスル・アルナメハの近くでパレスチナ運動の幹部を狙った。
レバノンの情報筋によれば、ラフェハは他の作戦においても物流面での支援を行った。2005年春以来、爆弾の入った袋をベイル-ト東部、レバノン山脈、レバノン南部に輸送した。レバノン内務大臣はメディアにこう述べている。「イスラエル特別軍が海のル-トで爆発物の入った袋をラフェハに届けていた。ラフェハはベイル-ト北部でそれらを受け取っていた。」
イスラエルはレバノンの協力者に彼らの真の標的を教えないよう注意を払った。彼らの役割は特定の場所に要素を置き、イスラエルの仲間が回収できるようにすることだ。マジズブの場合、テロの3日前、モサドのスパイが2人、ベイル-ト空港に偽のパスポ-トを持ってで入った。シドンでこれらのスパイは自動車爆弾を準備し作戦の成功の直後に国を去った。レバノンの協力者はクファキラとシェバアの間の陸路で、あるいは不法な海のル-トでイスラエルから装備品を受け取った。
マフム-ド・ラフェハはフセイン・カタブという名のパレスチナ人と協力して働いたことを明らかにした。このパレスチナ人は1982年にイスラエルの刑務所にいたときモサドに採用されたという。囚人の交換を利用して釈放された後、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)に潜入した。彼はPFLPの司令官の息子の暗殺に関わったという。組織から裏切りの疑いをかけられ、シリアで逮捕され、レバノン当局に引き渡された。レバノンは彼を証拠不十分で釈放した。ラフェハ逮捕直後、フセイン・カタブはレバノンから逃亡しイスラエルに亡命した。
ロンドンのタイムズ紙によれば、「最近レバノンでのイスラエル諜報ネットワ-クについて明らかになった事実により、セルジュ・ブラメルツが調査していたハリリ暗殺とそれに続く14の爆弾による暗殺・暗殺未遂事件に関する驚くべき関与が示された。」(« Death squad spy ring is captured », by Nicholas Blanford, The Times, 2006年6月16日)
レバノン大統領エミ-ル・ラフ-ドにとって、これらの事実は「イスラエルがレバノンで破壊工作を続けていたこと」の証拠である。彼は捜査が継続され、その結果が元首相と14のテロの調査を行う国連特使セルジュ・ブラメルツにもたらされると宣言した。
一連の要素がレバノンの公的討論に表面化し、イスラエルがレバノン著名人の暗殺の背後にいることを示唆し、シリアの犯行であるという説を問題視させた。テルアビブとワシントンでは、政治と軍の責任者が地域での彼らの計画に影響が及ぶことを心配し始めた。次にもたらされた情報が火薬に火をつけることになる。
戦争を早める
2006年6月21日、イスラエル情報サービスのデブカファイルが、メイル・ダガンその人がマフム-ド・ラフェハを採用していたと発表した。投獄されていたスパイは1989年に「ヘブライ人国家によって標的とされた人々に対するイスラエルの作戦を現地で準備するための物流情報センタ-」設置のためダガンに採用されたことを認めた(« An exploding car door detonated by an Israeli plane over Lebanon is suspected of killing the brothers Mahmoud and Nidal Mahjub in Sidon May 26 »,Debka.com, 2006年6月21日)。当時ダガンはレバノン南部のイスラエル占領軍の司令官だった。彼は非常に残虐だったという記憶を残した。2002年に友人アリエル・シャロンが彼をモサド長官に任命した時、ダガンはレバノンで一連の暗殺を実行するためラフェハのネットワ-クを起動した(« Mossad’s new chief revives Isreal’s death squads » by Ed. Blanche, Daily News (Beyrouth), 2006年5月24日)。
レバノン人は自国内のテロが直接イスラエル上位責任者の命令で行われていたことを示す大量の情報にいらだった。2006年6月24日、戦争開始の3週間前、レバノン外相ファウジ・サルクは「レバノンは、国連の安全保障理事会に訴えこの機関がレバノンで最近再開されたイスラエルのモサドの諜報の問題を扱うようにする権利を持つ」と宣言した。外相はまた、イスラエル諜報組織とこれに関与する人物に関する情報を国連事務総長コフィ・アナンに伝える意図があると述べた。国連がこの事件を安保理の月一回の報告の中に含めなかったので大臣は憤慨していた。「この事件は非常に危険である。イスラエルがレバノンの領空を侵害するために特に危険である」と彼は付け加えた(«Lebanon Condemns U.N. for Ignoring “Israeli Spy Network”» Israel National News, 2006年6月25日)。
レバノンが最終的に国連安全保障理事会に「破壊工作と領土侵害」についてイスラエルに対する訴えを起した時、国連代表ゲイル・ペダ-ソン、ベイル-トのイギリス大使ジェ-ムズ・ワット、アメリカ大使ジェフリ-・フェルトマンはイスラエルを事件から切り抜けさせようとした。
フェルトマンにはアイデアがあった。彼の見方によれば、諜報網を「狩り出した」のは「レバノン情報局ではなくヒズボラである」。これはヒズボラの「政府内での権限の逸脱の企て」である。
コンドリ-ザ・ライス国務長官のイラク問題担当補佐官ダヴィド・サターフィ-ルドはシリア政府に「イラクの過激派によりシリアの安定が脅かされる」と警告することさえする(« US accuses Hizbullah of attacks in Iraq », Daily Star, 2006年6月22日 ;« Lebanese Hezbollah denies involvement in Iraqi insurgency », Xinhua, 2006年6月22日)。彼によれば、ヒズボラは敵イスラエルに対するレバノン南部での活動に満足せず「イランと共に活発に暴力的な活動に参加しており、(イラクで)イラク、アメリカ、イギリスや連合軍の他国の兵士を殺している。イランの関与は様々な形を取るが、最も有害なのは精巧な爆発物の散布である。これを終らせなければならない。」サタ-フィ-ルドは詳細を提示することを拒否し、モサド長官メイル・ダガンが既に述べた同じ断言を振りかざすだけで満足する-イランとその「私生児」ヒズボラがイラクでの爆弾テロの直接の責任者であると。
この防火措置にも関わらずパニックがテルアビブとワシントンを襲い始めた。問題解決が余儀なくされた。モサドの暗殺行為に関する調査を中止させレバノン人が真実を知ることを妨げる唯一の手段は、秋に計画されていた戦争を早めることだ。この問題はAmerican Enterprise Institute(アメリカ公共政策研究所)が毎年コロラドのビ-ヴァ-クリ-クで開く国際フォ-ラムの場で2006年6月17日と18日に討議された。イスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフ、元大統領ジェラルド・フォ-ド、国防長官ドナルド・ラムズフェルドがリチャ-ド・パ-ルとナタン・シャランスキ-と共に長い議論を行った。
6月22日、米国防長官ドナルド・ラムズフェルドとの共同記者会見で、イラク米軍司令官ジョージ・ケ-シ-将軍は同じ言葉を繰り返す。「我々はイランの訓練活動にヒズボラが使われていることを示す要素を持っている。」
アメリカ側のこの扇動・愚論の目的はラフィク・ハリリの暗殺がシリアではなくイスラエルの犯行であるという疑いの出現にブレ-キをかけることだった。
7月7日、デイリ-スタ-紙は「イスラエル軍は2週間前から(レバノン国境付近で)最大の警戒態勢にあり、レバノン領空侵害を開始した」と伝える(« Beirut expects Security Council to grant full airing of complaint over Mossad hits » by Read El Rafei ; « Jewish state maintains ‘high alert’ on Lebanese
border » by Nada Bakri, The Daily Star, 2006年6月21日、7月7日 ; « Lebanese Complain of Israeli Assassinations », by Benny Avni, New
York Sun, 2006年6月20日 )。
4日後の2006年7月11日、アルマナ-ルのニュ-スはレバノン政府が国連安全保障理事会に対し、年の初めからイスラエルがレバノンの地で行っているテロ活動を国際法に基づいて非難する決議あるいは宣言を要請したと報じた。アルマナ-ルは、この要求が「アメリカとフランスを狼狽させる」と述べている。ニュ-スではまた、レバノンの匿名の外交官の情報によれば「西側諸国は外国でのモサドの活動について安保理に会議を要請しないようベイル-トに圧力をかけている」と報じた(« Western countries urge Beirut not to call for a UN Security Council meeting over the captured Israeli network », Al-Manar,
2006年7月11日)。
レバノン外相はその日に、安保理への要請を諦めるよう政府に圧力をかけている者の中にアメリカ大使ジェフリ-・フェルトマンが含まれることを認めている。大臣は「西側諸国が不平等な政策を行うことが残念であるが、ベイル-トはこの問題について安全保障理事会の会議を引き続き要求するつもりである」と述べた(« USA und Frankreich schützen Mossad » by Jürgen Cain Külbel, Junge Welt, 2006年7月14日)。
その数時間後に、ヒズボラは2人のイスラエル兵を捕える。この事件を口実として、イスラエル戦争機械は以前から計画していた攻撃を開始する。しかし、空爆にも関わらず、レバノン安全保障局は仕事を続けた。
ベイル-トのアラブ語新聞リワアは2006年7月27日に当局が戦争開始以来「敵と契約して情報を伝え戦闘機・戦艦の攻撃地点の特定を行った」53人の人々を逮捕したと報じた。ベイル-トの日刊紙アドディヤルも前日に、敵のために諜報行為を行った70人以上のスパイが逮捕されたこと、ベイル-トの南部だけで20人が逮捕されたことを報じた。
その前の日曜日に、レバノン日刊紙アッサフィルは「この諜報組織の責任者」が尋問の際「2人の兵士の捕獲の4日前、イスラエルは全ての諜報員を最大の警戒態勢に置き、潜伏していたスパイに、レバノン全体主にベイル-ト南部の郊外における中心的建物とヒズボラの事務所を監視させるための指示と技術を与えたことを告白した」と報じた。
この日刊紙によれば、「イスラエル情報局の高官」が「レバノン領土とくにベイル-トと南部に存在し何年も前から活動していたイスラエル諜報員のネットワ-クについての情報」を与えた。
彼らは、日程を早めて、はるか以前から計画していた征服戦争を始めたように見える。これによりイスラエルは、結果が外交的な動乱を引き起こす可能性がある捜査を中止させるつもりだった。この攻撃で自分達が勝利すると確信していたイスラエルは、ベイル-トの安全保障事務局を破壊しようとしなかった。しかし、敗北の直後、彼らは防諜担当補佐官でありモサド諜報網についての調査の責任者だったサミル・シェハド大佐に対するテロを企てた。9月5日に彼の車列が攻撃を受けた。大佐と他の4人が重傷を負い、警護員の一人が死亡した。
この物語の最初から、アメリカとイスラエルの堅固な同盟関係が見られた。何十年も前から変わらないこの国際政策は多くの議論を呼んだ。分析家達は両国の共通の利害は何か、どちらがどちらに権威を行使しているのかと自問した。この問いへの彼らの答えが一致しないのは、イスラエル国家の起源を考慮に入れずに問題を扱っているからだ。ここで歴史的な説明をしておくことが不可欠である。
狂信化する
イスラエルとアングロサクソン人
シオニスト政権の性質と、イスラエルとアングロサクソン人の関係は、公式の聖典に満足していては理解することができない。公式の説は、ユダヤ人国家の計画が、フランスで1895年にドレフュス事件を見て、ユダヤ人がヨ-ロッパで平和に暮らすことが不可能だと確信したテオドル・ヘルツルによって考案されたとする。彼は1917年のバルフォア宣言に勇気づけられた。このバルフォア宣言でイギリス国王は当時イギリス委任統治下にあったパレスチナにおける「ユダヤ人国家」の建国を許可した。しかし1948年になってはじめて、ナチスの犯罪に恐怖を抱き、国際社会がユダヤ人のための国家の建国を決めたという。
この提示の仕方は一貫性がない。シオニズム運動が欧州の反ユダヤ主義への反動として作られたならば、この運動は反ユダヤ主義と共にはるか以前に消えてなくなっていたはずだ。国際社会がユダヤ人国家の建国をナチス犯罪の償いとして決定したならば、ドイツ国にそれを課し、ドイツの元の領土に植民を行ったはずだ。
実際は、アングロサクソン人とシオニズムの関係はさらに古く、この論拠が見せるのとは全く違う性質を持つ。世論はキリスト教シオニズムについてあまり情報を持たず、最近の副次的な現象だと思っている。実際は、キリスト教シオニズムは17世紀から存在し、アングロサクソンの多くの国家主席や政府の政策を決定づけてきた。私達がこれから見直す宗教の歴史は、政治思想の歴史の一部である。この歴史を知れば、イスラエルとアメリカの現在の浸透関係が理解できる。さらに、政治学者ジョン・ミアシャイマ-とスチ-ヴン・ウォルト、そして社会学者ジェームズ・ペトラスが最近示したように、イスラエルロビ-がアメリカになぜこれほどの影響力を行使するのかを理解することができる。(« The Israel Lobby and U.S. Foreign Policy », by John J. Mearsheimer, Stephen Walt, Working Paper RWP06-011, John F. Kennedy School of Government, Harvard University, 2006年3月13日 ; The Power of Israel in the United States, by James Petras, Clarity Press, 2006)
これからお話しすることは一人以上の読者を驚かせるだろう。しかしこの話には、専門家が知らないことは一つも含まれない。私は主に世界シオニスト機構の内部で読まれる資料に裏付けられた研究を読み、真偽を確認するだけにとどめた。私がここで手短に触れるこの主題を深く知ることを望む読者が準拠を参照できるよう、随時注をつけることにする。この主題は近東の理解には不可欠だが、この本の中心テ-マではないからだ。
欧州の読者の多くは政治活動における特殊な信仰の重要性に途方に暮れるだろう。私達は神学者にこの議論を任せよう。政教分離主義の観察者として、私達はそれらの信仰について意見を述べることはしない。その影響から考慮した判断を下すだけにとどめる。
16世紀の終わりに、イギリスに、ジャン・カルヴァンのプロテスタンティズムに着想を受けた新たな宗教集団が現れる。彼らは宗教の権威-カトリックや教皇の教会だろうと、イギリス国教会、イギリス国王の教会だろうと-と典礼の重要性を問題視する。彼らは神の言葉の読書と集団祈祷による神との直接の接触を重視する。その信奉者は聖書を未来に起こることを啓示する年鑑のようなものとみなす。彼らは非常に不寛容で、キリストを迎えキリストと共に祝う千年間の平和-ミレニアム-の前の7年間の苦悩を切り抜けることを可能にする絶対的な道徳の純粋さを追求する。しかし、彼らは、予言が実現するためにはユダヤ人がまず「地の果て」まで散り散りになり、その後ソロモン王の神殿が再建されるべきパレスチナに再集合しなくてはならないと考える。
国王によって重要な役職から追放された清教徒達は共同体を作り、新たな経済モデルを作った。そこには伝道の熱心さに育まれた商業的攻撃性が見られる。彼らはまもなく自由貿易と市場開放を理論化することになる。
清教徒の中には、イギリス国教会との紛争が取り返しのつかないものだと考え、北アイルランドやオランダに亡命した者もある。1620年、100人程の狂信者がメイフラワ-号に乗って欧州を去り、アメリカに渡って現在のマサチュ-セッツのプリマスに植民地を作った。彼らは「巡礼の父」と呼ばれる。彼らは「新たな選民」と自己を定義し、アメリカは彼らの目に「新たなイスラエル」として映る。彼らは、彼らの神に感謝の行為(thanks giving)を行う。それを毎年記念する祭りは北アメリカの主要な祝日の一つとなっている。
それ以外の清教徒達はイギリスに残った。宗教的・政治的階級組織に反対し、彼らは武力で社会を「均等化」しようとする。彼らはイギリスの「第一次市民戦争」で中心的な役割を演じる。最終的に彼らのチャンピオン、クロムウェルが王権を倒し、国王を斬首し、1653年から1658年まで共和主義独裁体制コモンウェルスを敷いた。彼らは聖なる使命を与えられていると確信していた。選民(ユダヤ人)を守りイスラエル再建を助けることで彼らは「新たな選民」になり、イギリスは「新たなイスラエル」になると考えた。その理由で、クロムウェルは予言達成のため地の果てまで分散され4世紀前から追放されていたユダヤ人をイギリスに戻らせた。同時に、彼は未来のキリスト到来を待つためパレスチナにユダヤ人を集める準備をした最初の国家主席となる。しかし、政治神秘主義的な業績を成し遂げる前に死亡する(毒殺されたと考えられる)。
イギリスの騒乱はその後も長い間続く。王政復古で落ち着きが戻ったとはいえ、復讐が行われた。オリヴァ-・クロムウェルの死体は掘り出され公の広場で斬首された。
「新世界」の清教徒植民地の発展とイギリス国王のフランスに対する軍事的勝利により、大西洋を横断し北アメリカの東岸全体を含む広い帝国の建設が可能になった。しかし、18世紀末、清教徒と王政主義者の間の対立は再びアングロサクソン世界を分裂させる。
ヨーロッパで「アメリカ革命」と呼ばれるものは、フランス革命のイメ-ジとは全く異なる。その紛争は啓蒙学者の人間主義的理想から影響を受けてはいなかった―叛徒が当時の時代の思想、ロック、ルソ-の社会契約論、モンテスキュ-の権力分立を取り入れたのは確かだが。
イギリスから見れば、これは「第二次市民戦争」であり、アメリカの視点では「独立戦争」だった。アメリカの清教徒はイギリス国王と国教会への臣従義務を問題視した。彼らはジョ-ジ王に税金を払うことを拒否した。共和主義的理想からではなく、「われらの王はイエスである」と叫んで拒否したのである。トランスアトランティック帝国破壊を喜ぶフランスに支持された叛徒はアメリカ合衆国の独立を宣言する。
新たな国家の創始者の一人ベンジャミン・フランクリンは「巡礼の父達」がジョ-ジ王の軍隊から逃げ、王の軍勢が聖書のファラオの軍勢と同様海に飲み込まれるように大西洋を割るモ-セを表すアメリカ国章を提案した。ジョージ・ワシントンはモ-セの死後「選民」を導くヨシュアに自らを喩える。トマス・ジェファソンは大統領就任演説で「巡礼の父達」をアメリカという「約束の地」に導いた神に感謝を捧げる。
イギリスで君主制が勝利し、アメリカでセクト主義が勝利したとはいえ、この相対する要素はどちらの社会にも存在した。弁証法的な対立はどちらにおいても続けられた。
19世紀イギリスで、新たなイスラエルの教義が記者で作家のベンジャミン・ディズレーリと共に現れた。彼は『タンクレッド-新十字軍-』で成功を収めた。この本は小説だが、政治計画でもある。若い領主がイギリスの上流階級に欠けている信仰を求めて聖地に出発することを夢見ている。彼は裕福なユダヤ人銀行家の助けでそれを実現する。この協力とル-ツへの帰還がこの貴族を若返らせ、彼を通して古いヨ-ロッパを再生させる。
ユダヤ人の家庭に生まれたベンジャミン・ディズレ-リは若い頃、便宜上イギリス国教会に改宗した。彼は自分を「ユダヤ民族のイギリス国教徒」と定義している。1868年に保守党を作り、ヴィクトリア女王の首相となる。1874年から1880年にも再び首相を務めた。
ディズレ-リは国際関係を再組織し、1878年に有名なベルリン外交会議を開く。彼はオスマン帝国、特にパレスチナにおけるユダヤ人の市民・宗教権を保証させる。ディズレ-リはベルリン会議の議題の中に「イスラエル復興」を記させたが、ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクはそこに利点を見出さなかったために除外した。
過去3世紀の間、キリスト教徒の「復興主義者」(聖書のイスラエルの復興を望む人々)はユダヤ人に社会に反響を得られなかった。その逆に、ラビ達はイスラエル人の宗教の政治的な利用に原則的な反対を表明した。しかし、1891年にロシアでポグロムが起こり、ユダヤ人の中には欧州を去りパレスチに移住することを望む者が出てきた。オスマン帝国のパレスチナへの移住の資金はエドモンド・ド・ロスチャイルドの人道事業が提供した。
反ユダヤ的暴動はアメリカ人の感情をもかきたてた。413人の高位高官が主要な国家主席にあててウィリアム・ブラックスト-ン牧師が書いた請願書に署名した。彼は「イスラエル人の状況と彼らの昔の祖国としてのパレスチナ要求を考慮し、適切な手段で彼らの苦しい生活状況を改善するするための国際会議」を開くよう懇願する(Zion’s Call, Christian Contributions to the Origins and Development of Israel, by Laurence J. Epstein, University Press of America éd ., 1984の中で引用)。署名者の中には、ジョン・ピアポント・モルガンやジョン・D・ロックフェラ-などの大銀行家や下院議長、最高裁判所議長などの高位政治家が見られる。
その年、アメリカ大統領ベンジャミン・ハリソンは一般教書演説でこう宣言する。「この政府はツァ-リの政府に友愛の精神をこめて、しかし厳粛に、ロシアのヘブライ人に対する厳しい措置に関する懸念を表明する機会を得ました。」
この請願書の創始者ブラックストーン牧師は一部のイスラエル人にとってシオニズムの真の父と見なされている。彼はまたキリスト教会で急速に広まった新たな教義ディスペンセ-ション主義運動の人気説教師の一人だった(Jesus is Coming by
William E. Blackstone, 1878)。この教義は人類史を7つの時代に分ける。私達は6番目の時代、恩寵の時代に生きており、7番目の時代、ミレニアムに備えなければならない。時代の移行は7年の苦難の時期を経る。非キリスト教徒だけが苦難を被る。真のキリスト教徒は神の手で天国の神のもとに移され、ミレニアムになって初めて地に戻ってくる。携挙(Rapture)と呼ばれる神学説である(Fundamentalism and American Culture : The Shaping of Twentieth Century Evangelicalism, 1870-1925, by George M. Marsden, Oxford University Press éd., 1980)。
1895年になって初めて近代シオニズムの公式の父テオドル・ヘルツルが彼の運動の基盤を作り、1897年にバ-ゼルで最初の世界シオニスト会議を開く。彼の最初の目的はキリスト教徒の復興主義者の目的からはかけ離れている。彼はパレスチナには関心がなく、世界のどこでも構わないので迫害されたユダヤ人の避難所としてユダヤ人の植民地を作ることを望む。彼は様々な国の国家主席や政府と接触して自分の大義を進めようとする。イギリス首相ネヴィル・チェンバレンは国王がアフリカ東部に未開の土地を所有すると指摘する(現在のウガンダ)。1903年、ヘルツルはこの提案に同意し弁護士デヴィド・ロイド・ジョ-ジにユダヤ植民基金(Jüdische Colonialbank)への委譲計画を執筆させる。しかしシオニスト会議ではこの提案のために組織が分裂しかける。代表団は民族的な植民地の要求と聖書の文化を関連付けており、提案を拒絶した。中央ヨ-ロッパのアシュケナ-ジのユダヤ人は血統ではなく改宗によって古代パレスチナのミズラヒムの子孫となっているにも関わらず、パレスチナにおける民族国家の建国を選択し、この土地における歴史的権利を持たないかわりに聖書に基づく権利を持つと主張する(Theodor Herzl, Founder of Political Zionism, by Israel Cohen, Thomas Yoseloff éd., 1959 )。
チェンバレンとロイド・ジョ-ジは2人とも英国国教会に属しておらず、「復興主義者」である。イスラエルのための彼らの活動を導くのは彼らの個人的な信仰であり、彼らは公衆がこの主題についての自分達の率先的行動を議論しないよう注意した。
ユダヤ人はアングロサクソン系キリスト教運動が3世紀前から彼らのために選んだ役割を演じることに同意した。第一次世界大戦中、2人のシオニスト指導者、無政府共産主義者ヨセフ・トルンペルド-ルとファシスト哲学者ゼエヴ・ジャボチンスキ-が、パレスチナをオスマン帝国から解放しそこに植民地を作るためにイギリス国王の側で戦うユダヤ人志願者を募った。イギリスは躊躇しながらもこの「ユダヤ人部隊」を軍に編入したが、別の戦場に配置した。最初は主にロシアから来た数百人の戦士だけで、「シオン騾馬部隊」を構成し、その後5000人ほどの小銃兵連隊となった(War and Hope, A History of the Jewish Legion by Elias Gilner, Herzl Press éd., 1969.)。この行動はイギリスで議論を引き起こした。その主な理由は、これによりユダヤ人が宗教ではなく血統と認められることになるからだった。
オスマン帝国への共通の勝利を先取りし、1916年にフランスとイギリスは近東の分割を取り決めた。サイクス・ピコ協定(交渉にあたった2人の外相の名前からこう呼ばれる)はレバノンがシリアから切り離されフランス影響下に置かれることを予定する。シリアの後背地はイギリス支配下に置かれる。パレスチナは象徴的な争点であるため、後に話し合われることになった(The Boundaries of Modern Palestine, 1840-1947, by Gideon Biger, Routledge éd., 2004)。
しかし、この協議を待たずにデヴィド・ロイド・ジョ-ジ率いるイギリスの軍事委員会の9人のメンバ-はフランスに政策を強制する手段を考え、戦争に参加していなかったアメリカに支持を求めた。イギリスの新外相アーサ-・バルフォアはニュ-ヨ-クでアメリカの最高裁判所判事ルイス・ブランダイスと会う。ブランダイスは戦争によるヨ-ロッパのシオニスト連盟の事務所の閉鎖を考慮し、シオニスト指導者としての責任を事実上引き受ける。バルフォアとブランダイスはブラックスト-ン牧師に接触し、復興主義キリスト教徒を動員し、復興主義者のアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンに圧力をかけるよう求める(The Politics of Christian Zionism 1891-1948, by Paul C. Merkley, Fank Cass éd. 1998)。イギリス側では、この戦略は秘密にされる。成功するために、当然ながら庶民院で議論されることはなく、ダウニング街十番地の限られた人々による委員会で話し合われた。これらの会合の報告書は存在せず、交換された論拠の詳細が知られることはない。歴史家ジル・ハミルトンは、それでもこのグル-プの複数のメンバ-が復興主義者だったことを示している(God, Gunbs and Israel. Britain, the First World War and the Jews in the Holy Land, by Jill Hamilton, Sutton publishing éd., 2004.)。
最終的に、1917年11月2日、ア-サ-・バルフォアがシオニスト会議代表者ウォルタ-・ロスチャイルド男爵に公式書簡を出す。これにより、国王は留保付きで、すなわちイギリスの影響を確立させる条件で、シオニスト計画を支持することを約束する。
これは短い文書である。
ロスチャイルド男爵殿、
陛下の政府の名においてシオニストの希求に答えるこの好意の宣言をお届けすることができ嬉しく存じます。この宣言は委員会で審議され承認されました。
陛下の政府はパレスチナにユダヤ民族のための国家を建設することに好意的であり、この目的達成のためにあらゆる努力を行うつもりです。その際、パレスチナに存在する非ユダヤ人共同体の市民権、宗教権を侵害するような行為、また他国でユダヤ人が享受する政治的権利・地位を侵害する行為が行われてはなりません。
この宣言の内容をシオニスト連盟に知らせて頂きたく存じます。
敬具
ア-サ-・ジェ-ムズ・バルフォア
言葉を選んで書かれたこの宣言は、原住民の市民権と宗教権を認めるが、その政治的・民族的権利は否認するため、植民地化の勅書と見なされる。
協定通り、ウィルソン大統領はバルフォア宣言を認定するが、当時アメリカは第一次世界大戦への参戦について議論中だった。アメリカはドイツとオ-ストラリア・ハンガリ-に対して宣戦布告しただけで、オスマン帝国とは戦争を始めていなかった。しかし、彼らは紛争後オスマン帝国領のパレスチナがイギリス保護領ユダヤ国家となることをすでに認めていた。
1918年1月8日、ウッドロウ・ウィルソンはアメリカの戦争の14の目的を公開し、その中に「イスラエル復興」が含まれていた。第12点として、非明確にこう書かれている。「オスマン帝国支配下にある諸国へ、生命の絶対的安全と自立的な開発の可能性を保証するべきである。」
ブラックスト-ン牧師はこの計画の資金提供のため基金を募る。しかし、彼はこの世の終わりが間近に迫っているのではないかと恐れる。正しい復興主義キリスト教徒として、自分はキリストに携挙され、7年間の患難を免れるため天国に移されねばならない。その場合、集めた基金を守ることができないだろう。そのため、牧師は基金をブランダイスに委ねる。ブランダイスはユダヤ人だから携挙の間も地上に残るだろうと牧師は考えた(The Politics of Christian Zionism 1891-1948,前出)。
それと同時に、イギリスの軍事委員会メンバ-の一人で労働党創始者かつ復興主義活動家ア-サ-・ヘンダ-ソン(数年後にノーベル平和賞を受賞)が、ユダヤ国家建国を「戦争の目的」として同僚達に認可させるのに失敗して辞任する。それでも彼は1917年12月に、労働党と組合にこれを認めさせるのに成功する。労働党と組合は戦争の目的についての覚書を採択する。
「(労働党と組合の)会議は、全ての国のユダヤ人に宗教、教育、住居、商業の基本的自由、各国の住民に認められる権利と同じ市民権を与えることを要求する。さらに、会議はパレスチナがトルコの厳しく抑圧的な政府から解放されるべきだと考える。この国は国際的な保証を与えられた自由国家をなすべきであり、帰還を望むユダヤ人は帰還し他民族、他宗教の干渉を受けずに自由に自己救済に励むことができなければならない。(Biblical Interpretation and Middle East Policy. The Promised Land, America, and Israel, 1917-2002, by Irvine H. Anderson, University Press of Florida éd., 2005にて引用)」
第一次世界大戦が終ると、アメリカは国際連盟の多国間協議の原則を拒否するが、それでもこの機関がイギリスに与えたパレスチナ委任統治・「ユダヤ人国家」植民の権利を認める。さらに、アメリカはシオニスト計画を支持し、イギリス人に対して宗教的な競り上げを行う。情熱的な雰囲気の中、聖書の引用をちりばめた発言がなされた後で、議会は全員一致で宣言する。「アメリカ国家はパレスチナにユダヤ人国家の建設を促進する。その際、パレスチナに存在する非ユダヤ人共同体の市民権・宗教権を侵害する行為がなされてはならない。パレスチナの聖地と宗教施設は適切に保護されるべきである。」(ロッジ・フィッシュ決議。決議73、第63議会、第二セッション、1922年9月21日)
ところが、現地で状況は管理不可能になる。ユダヤ人大量移住が紛争と暴動を引き起こした。イギリスの植民地行政官はアラブ人民族主義者とユダヤ人民族主義者の両方を鎮圧した。行政官は、異なる民族を共存させるのは不可能だという報告を出す。ロンドンでは明白な事実を認める-この計画は諦めるべきだと。パレスチナ分割案が第二次世界大戦勃発時にすでに作られていた。
1941年4月30日、アメリカのキリスト教シオニストはアメリカパレスチナ委員会(American Palestine Committee)を作る。最初は、3人の大臣、68人の上院議員、200人の下院議員を含む。彼らはイギリス人よりもアメリカ人のほうが優れたキリスト教徒であると示す決意を持つ(American and Palestine. The Attitude of Official America and of the American People Toward the Rebuilding of Palestine as a Free and Democratic Jewish Commonwealth, by Reuben Fink, American Zionist Emergency Council, 1944)。彼らの公の介入はイギリス政府の怒りを引き起こした。彼らはシオニズム支持の競り上げにより、世界大戦中にアラブ民族が離反するのを恐れていた。ロンドンでは、非イギリス国教会派の政治家の時代は終っていた。ウインストン・チャ-チルを中心としたイギリス国教徒が再び支配的になっており、彼らはセクト主義者によるパレスチナ計画の話に耳を貸そうとしなかった。
1942年1月20日、ベルリンで、ドイツ警察の長ラインハルト・ハイドリヒとアドルフ・アイヒマンがヴァンゼ-会議を開く。他の9人のナチス指導者と共に、彼らは「ユダヤ人問題の最終的解決」を命じる。3年以内に数百万人が逮捕され、あるいは「夜と霧」の破壊工作者や抵抗者となった。ヨ-ロッパのユダヤ人破壊は極めて秘密裏に始められた。「最終的解決」は20世紀初頭ドイツがナミビアの黒人ヘレロ虐殺のために作った強制収容所の技術を利用し改良したものだ。しかし、今回は欧州人が別の欧州人を虐殺するという点で根本的に新しい。「最終的解決」はまた宗教的な解釈を与える。多くのイスラエル人にとって、「ショア-」(災害)であり、共同体全体がその犠牲者である。復興主義キリスト教徒にとっては「ホロコ-スト」であり、ユダヤ人がその犠牲者である。
1942年5月、シオニスト機関の特別会議がニュ-ヨ-クのビルトモアホテルで開かれる。ダヴィド・ベングリオンが議長を務める。会議では、イギリス国王の時間稼ぎが非難され、シオニストの運動をアメリカの保護下に置くべきだと主張された。参加者達は欧州のユダヤ人の殲滅を知らず、パレスチナの未来に焦点を当てた。8つの決議が採択されそれ以降の計画となった。アラブ人とユダヤ人の間でパレスチナを分割するというイギリスの案を拒否し、ユダヤ人の軍隊を作ることで「ユダヤ人国家」から、「ユダヤコモンウェルス」に変えることである。(コモンウェルスの語は国家の代わりに用いられている。オリヴァ-・クロムウェルの共和国を準拠としている。)第二の重要な結論は、無制限の移民を許可すること、すなわち復興主義のキリスト教徒が望むように、全てのユダヤ人を集めることである。
これらの原則の実施はパレスチナのシオニスト機関によって翌年決定される。Encyclopedia Univers alisはこう要約している。「パレスチナ全土とおそらくトランスヨルダンも含むユダヤ人国家。アラブ人のイラクへの移動。ユダヤ人による中東全体の経済開発・管理部門の制圧。」(« Le Sionisme, une entreprise de colonisation », by Sadek J. El-Azem, in Encyclopedia Universalis, 1989.)
1944年1月27日、ビルトモアの原則はアメリカ議会で認可される。議会はこう決定する。「ユダヤ人が自由で民主主義的なユダヤコモンウェルスとしてパレスチナを再建できるよう、アメリカは調停を利用し、ユダヤ人を自由に入らせるためにパレスチナを開き、植民地化のために全ての可能性が提供されるよう適切な措置を取るべきである。」この表現はテオドル・ヘルツルを驚かせただろうが、17世紀の清教徒達の望みに正確に一致する。
第二次世界大戦後、イギリスはパレスチナで秩序を維持することができない。シオニストには民族国家建設を約束し、アラブ人には軍事参加と引き換えに独立を約束していたからだ。問題解決のため、イギリスは委任期間が終り地域を去ると同時に、国連に危険なカ-ドを捨てた。シオニストはイスラエル国家を一方的に宣言する意図を隠さない。アラブ隣国は武力衝突に備える。ワシントン、国務省、国防省は、石油政策を含め、地域での影響力を危険にさらすユダヤ人国家建設に強く反対する。それでも、復権主義キリスト教徒の圧力を受け、また自身の宗教的確信から、ハリ-・トル-マン大統領は異なる決定をする(Harry Truman and the Founding of Israel,by Michael T. Benson, Praeger Publishers éd., 1997.)。1947年11月29日、国連総会は米国の圧力のもとで決議181を採択する。この決議はイギリスの委任統治終了と同時に、すなわち1948年5月15日に、二つの国家(ヘブライ人国家とアラブ人国家)を建設することを許可する。コミュニケ-ションの技巧により、ワシントンはユダヤ人植民地を国家の地位に上げながら、イギリス領パレスチナを非植民地化すると主張する。
移行時期に、シオニスト義勇軍ハガナがテロ運動を行ってアラブ人に恐怖を与え、退去を強制した。運命の定めた日の前日、80万人以上のパレスチナ人がすでに亡命を始めていた。ダヴィド・ベングリオンはパレスチナのユダヤ人移民と世界シオニズム運動の名のもとに国連と直接交渉する。そうすることで、ベングリオンとトル-マンは国際社会に既成事実を見せ、パレスチナ国家の建設を妨げた。
パレスチナのアラブ人はイスラエル軍の管轄化に置かれる(1966年11月まで)。アラブ人の移動は限られ、パスポ-トは没収された。イギリスの植民地法が今度はアラブ人にだけ適用された。アラブ諸国が準備なしに介入したが、彼らの軍隊は直ちに敗北した。彼らにとってこれは「大災害」(アル・ナクバ)である。
フォルケ・ベルナドッテが国連の調停官に任命される。このスウェ-デンの外交官は死の収容所から多くのユダヤ人を救ったため人気があった。彼は決議181の完全な実施、すなわちパレスチナ難民の帰還、パレスチナ国家建設、エルサレムの国際統治を勧めた。後のイスラエル首相イツハク・シャミルの命令で、ベルナドッテは1948年9月17日にシオニスト武装集団によって視察団指揮官のフランス大佐と共に暗殺された。それ以降、パレスチナは平和を知ることがない。
1年後、アメリカ大統領ハリ-・トル-マンはホワイトハウスにイスラエルの大ラビを招く。大ラビは言う。「あなたが2000年の後イスラエルを再生させる道具となるため、神があなたをあなたの母の胎内に置かれた。」それ以降、トル-マンは自分について「私はキュロスである!」と言うようになる。キュロスは聖書の中の人物であり、バビロン捕囚後ユダヤ人のパレスチナへの帰還を可能にしたペルシャの王だ(The Politics of Christian Zionism 1891-1948前出)。
3世紀の間、アングロサクソン人は純粋にイデオロギ-的な理由でイスラエル国家の建国を望んだ。20世紀初頭になって初めて、彼らは計画実現のためにユダヤ民族主義者を見出した。アメリカは新たな国家を支持することで戦略的な利害を全く満たさなかった。その反対に、彼らは産油国であるアラブ諸国との関係を危険に晒した。
イスラエルと南アフリカの同盟
イスラエル国家の最初の30年間、歴史的な状況によって、ユダヤ人国家とその創造者であるシオニストのキリスト教徒との関係が弱まった。しかし、両者は互いの存在なしには存続できず、南アフリカのアパルトヘイト政権により、さらにロシアを介して、新たな協力関係を結んだ。彼らは神権政治というジンテ-ゼに到った。
冷戦中、ワシントンの広報局は東西の紛争を終末論的戦い、すなわち善と悪との戦い、宗教の自由を持つ国と無神論の共産主義国の間の戦いとして解釈した。大規模な福音再伝道の努力がなされた。国務長官と国防長官を務めたジョージ・マ-シャル将軍は、外交官と軍人の間でこの思想が発展するよう監督した。彼は大西洋陣営を強化するため、福音派がイギリス国教会・カトリック教会と接触するような教会統一作戦を考案した。このことにより、彼が望まないイスラエル擁護主張を行う福音派を少数派にすることができる。
マ-シャルはCIAと共にヨ-ロッパ復興計画を設置する。その計画は彼の名前で呼ばれ、その結果、彼はノ-ベル平和賞を与えられた。マーシャルは移動の際、牧師のアブラハム・ヴェレイドとハラルド・ブリ-ドスンを連れて行った。牧師達は反共産主義のキリスト教指導者のネットワ-クを設置した(Modern Viking, The Story of Abraham Vereide Pioneer in Christian Leadership, by Norman Grubb, Zondervan Publishing House éd., 1961.)。この措置はトル-マン大統領、イギリス国王ジョ-ジ6世、オランダ王妃ウィルヘルミナ、台湾の蔣介石に承認された。1952年、オランダでキリスト教徒議員国際会議が開かれた。NATOを先取りする事業を行っていたアルフレッド・グランサ-将軍が会議の中心人物だった。この機関は現在フェロ-シップ財団と呼ばれており、40年間、ソ連圏に対して大西洋陣営のキリスト教アイデンティティを強化するため祈りの会と会議を企画した(Washington : Christians in the Corridors of Power, by James C. Hefley and Edward E. Plowman, Tyndale House Publishers éd., 1975.)。この機関はペンタゴンの近くに司令部を持つ。軍の情報と教育を担当する部局が国防省に作られ、この財団に委託された。この部局はマニュアルを出版し、アメリカ軍への奉仕を世界の宗教的自由のための十字軍遠征と同一視させる教育を施す(Militant Liberty. A Program of Evaluation and Assessment of Freedom, US Government Printing Office, 1955 ; Ideas in Conflict, Liberty and
Communism, by Armed Forces Information and Education, Department of Defense, US Government Printing Office, 1962. )。
1954年、全ての子供が毎朝学校で暗唱し、全てのアメリカ国民が厳粛な機会に述べる臣従の誓いが以下のように改変され、神への準拠が組み込まれる。「私は合衆国の旗とそれが体現する共和国、全ての民のための自由と正義が存在する神の指揮下に統一された不可分の国家への忠誠を誓います。」1956年、上院・下院の共同決議が「我々は神を信じる」を、「一人はすべてのために」のかわりにアメリカのモット-として選んだ。翌年には早くもその標語が銀行の紙幣に印刷される。キリスト教のアイデンティティは大西洋同盟だけでなく、資本経済システムにも適用される(« La bataille pour l’identité états-unienne » by Cédric Housez, Réseau Voltaire, 2004年8月18日)。
当初の教会統一的な性格にも関わらず、フェローシップ財団は次第にこの機関が統制する福音派教会だけを中心として活動するようになる。財団はアメリカの帝国主義とその軍事行為を熱心に支持するよう教会を扇動する。まもなく、財団はジュネ-ブの主要な古典的プロテスタント信者連盟である教会統一会議と対立するようになる。アングロサクソンの宗教文化内部の緊張が再び目覚める。この会議はイスラエルにおける人種差別とベトナム戦争を非難する。そのため、1974年にペンタゴンはライバル組織、ローザンヌの委員会を作る。国防省から費用を与えられた4000人の福音派信者が新たな指導者ビリ-・グラハム牧師を中心に会議を開いた。グラハム牧師はロック・スタ-のように世界中を巡り、宣教ショ-を企画し、ますます多くの聴衆を集めた。
他方で、世論は少しずつシオニスト政権の時代錯誤に気づき始めた。イスラエル国家はイギリスの非植民地化の結果として国際社会に提示されたにも関わらず、19世紀のテオドル・ヘルツルの計画に一致するユダヤ人の植民地国家であることが明らかになった。その特殊性から、この国は他の植民地国家に似ていた。
南アフリカではオランダの清教徒が19世紀のイギリス信託統治から自分達を解放した。彼らは自分達が聖書の出エジプト記になぞらえた「グレート・トレック」の際、内陸へ突き進んだ。彼らは自分達の神の加護を祈り、ブラッド・リバ-の戦いでズール-人に勝利し、後の南アフリカを建設する。この地を彼らもまた「新イスラエル」と呼んだ。第二次世界大戦中、彼らはイギリスに対してナチスを支持し、その後アパルトヘイト政権を建てた。他方でロ-デシアのイギリス人達は非植民地化の見通しに恐れをなし、イギリス国王に反乱し1965年に独立国家を作った。
イスラエル、南アフリカ、ローデシアの司法体系は異なるが、3つとも同じ差別的な目的を追求している。土地と権力を民族的少数派に独占させるという目的だ。そのため、これらの国家がナチズムや反ユダヤ主義といった不興を買うような主題を除外して互いに頻繁に接触するのは論理にかなっている。
1953年、国連総会は「南アフリカの人種差別とシオニズムの間の同盟」を告発する(国連総会決議3151、1953年12月14日に採決)。
国際社会からのけ者にされた南アフリカ、ローデシア、イスラエルの三国は関係を密にする(シオニズム運動と南アフリカの古い関係については« l’Alliance
Israël-Afrique du Sud et le Tiers-Monde » by Marwan R. Buheiry, Revue d’études palestiniennes no13 automne 1984)。1976年、南アフリカ首相ジョン・フォルスタ-は労働党の首相イツハク・ラビンに招かれイスラエルを公式訪問する。「最終的解決」の生存者と共に昼食をとるため、アフリカ-ナ-達はハ-ケンクロイツの腕章を外した。両国は西側諸国における共同のロビ-ネットワ-クを設置する(La Propagande de l’apartheid. Quand l’Afrique du Sud se crée une image de marque, by Jacques Marchand, Editions Kharthala, 1985.)。彼らは共に原子爆弾軍備計画を進める(Israel and South Africa. The Unnatural
Alliance, by James Adams, Quartet Books éd., 1984. )。
アフリカ-ナ-達はバントゥ-スタンを作って白人の支配を維持しようとする。黒人を保護区域(貧しい地帯が望ましい)の中に詰め込み、その区域を独立国家とみなすふりをするというアイデアである。これにより、南アフリカは黒人の労働力を搾取し続けながら100%白人の国となる。この「アパルトヘイト」というモデルは実施が困難であることが分かった。最終的に黒人は行政的には保護区域の中に住居を与えられ、物理的には白人の領域である仕事場所に身を置くことになった。これは新アパルトヘイトである。南アフリカの実験所はイスラエルに着想を与えた。ジョン・フォルスタ-と同盟を結んだイツハク・ラビンはレバノン南部のバントゥ-スタン計画の指揮者となった。彼は国防大臣として軍事占領時代にこの計画を監督した(1984-90, 1992-95)。
1982年、レバノンが内戦状態にあった時、イスラエルはファシスト義勇軍と同盟してパレスチナ難民の抵抗運動を掃討しようとした。これは「ガリラヤの平和」作戦と呼ばれる。アリエル・シャロンの戦車が国連レバノン駐留軍の戦列を越えてベイル-トを占拠する。国際協定の後、パレスチナ解放機構は退去した。脅迫を受けファシストのバシル・ジュマイエルが共和国大統領に選ばれたが、3週間後、司令部を爆破され補佐官と共に死亡した。報復としてアリエル・シャロンの戦車がサブラとシャチラの難民収容所を包囲し、イスラエル兵に統括されたファシスト義勇兵が男性、女性、子供を虐殺する。1985年イスラエル軍はレバノンの北部から撤退するが、2000年まで南部占領を続けた。この地域は独立の虚構を持つバントゥ-スタンに変えられた。レバノンの地域として「レバノンの南部」と呼ばれることがなくなり、自治地区、ほぼ国家のようなものとして「南レバノン」と呼ばれる。この地域は協力者のグル-プ、南レバノン軍(ALS)に統治されており、福音派に改宗しフェロ-シップ財団に加入したシ-ア派のサード・ハダド少佐がこの軍を統括している。ハダドはパット・ロバ-トソン牧師と共に希望の声(Voice of Hope)というラジオ局を作った(Spiritual Warfare. The Politics of the Christian Right, by Sara Diamond, South End Press éd., 1989.)。ロバ-トソンは現在のテレビ局LBC設立にも資金提供した。
他方で、1980年9月、イスラエル国会は国際法に違反して西エルサレムと東エルサレムは一つの同じ都市でありイスラエルとユダヤ民族の永遠の首都であると宣言する。この宣言は国連によって直ちに非難され(1980年8月20日に採決された安保理決議478、アメリカは棄権)、大した影響は及ぼさなかった。1967年以来占領下にある町の東部は自治を維持し、イスラエル政府機関はテルアビブに存在する。
イスラエル国会のこの宣言はシオニストのキリスト教徒達の計画の第二部を起動する。清教徒の計画は「イスラエル復興」にとどまらない。彼らの計画はエルサレムのアル=アクサー・モスクがある場所に「ソロモン王の神殿を再建すること」も含む。そのためにフェロ-シップ財団と南アフリカとイスラエルは協力してエルサレム国際キリスト教大使館(International Christian Embassy Jerusalem)を作った。この機関は「聖地」において南アフリカの諜報員ヨハン・ラックホフ(Johann Luckhoff)によって統括され、シオニストのキリスト教徒による「聖地」巡礼を容易にする努力を行う。それと同時に、パット・ロバ-トソン牧師の助けを借り、ユダヤ人移民のための基金を収穫する。この目的のため、機関は合衆国の各州に「領事館」を開く。フェロ-シップ財団に加入している高級将校オリヴァ-・ノ-ス大佐は中央アメリカにキリスト教大使館を開く(More Than Conquerors. A History of the Officers’ Christian Fellowship of the USA, 1943-1983, by
Robert W. Spoede. Officers’Christian Fellowship Books éd., 1993. )。ロビイスト達はそこで、大使館をテルアビブからエルサレムに移すよう各国を説得する任務を持つ。キリスト教大使館はグアテマラなど、のけ者扱いされる他の国家とイスラエルの関係を強化した。イスラエル軍はグアテマラに軍事補佐官を送りインディアンに対してバントゥ-スタンモデルを適用させる(The Guatemala Military Project : A Violence Called Democracy, by Jennifer Schirmer, University
of Pennsylvania Press éd., 1998.)。この措置はフェロ-シップ財団のメンバ-の軍事独裁者エフライン・リオス・モント(牧師・将軍・大統領を兼任)の指揮下で行われた。さらに、ラテンアメリカ諸国におけるキリスト教大使館は反革命運動支持作戦においても一つの役割を演じることになる。
1985年8月、エルサレム国際キリスト教大使館はシオニストのキリスト教徒の最初の国際会議を開く(Prophecy and Politics. Militant Evangelists on the Road to Nuclear War, by Grace Halsell, Lawrence Hill & Company éd., 1986.)。会議はバ-ゼルで、テオドル・ヘルツルが98年前に最初のユダヤ人シオニストの会議を開いた広間で行われた。
1991年、南アフリカがアパルトヘイトを廃止した数ヵ月後、イスラエルとアラブ列強はアメリカとソ連が推進するマドリ-ドの平和会議で対面した。イスラエル政権も同様に変化を遂げたと信じた国連総会はシオニズムを人種差別の形態として非難した。それは間違いだった。首相になったイツハク・ラビンは二つの選択肢を持っていた-二つの大国の圧力に屈し「二つの国家」という解決法(決議181で予定されたパレスチナ国家建設)を選ぶか、それとも、バントゥ-スタンモデルを拡張しパレスチナ人を保護地区に押し込めて彼らが独立したという印象を与えるか。二枚舌は効果的だった。「分離発展」という南アフリカのレトリックから借りた鎮痛作用を持つ発言が役に立った。パレスチナ・バントゥ-スタンはまだ真の国家ではないが、まもなくそうなる-パレスチナ人が強制された規範に従った時に真の国家になると彼は述べた。これが1993年のオスロ・プロセスである。合意の文章は極めてあいまいな用語を用いている。強制的な条項は全く含まれず、適用の方針は後援国アメリカとロシアに従属するようになっている。失うものは何もなく、勝ち取るものだけをそこに見出すヤセル・アラファトは提案を承諾する。しかし、ラビンは自己の成功の犠牲となる。過激派はこの合意が「約束の地」の一部におけるユダヤ人の主権を失わせると錯覚した。彼らは狂信者にラビンを暗殺させる。
新アパルトヘイトのモデルは2003年、首相となったアリエル・シャロンの「分離計画」の名前で再び用いられる。彼はイスラエルの新たな国境を一方的に引き直し、この地域の民族浄化を行うために住民を移動させる。イスラエルをユダヤ化し、場所によっては壁で分離されたパレスチナ領土をアラブ化するためだ。
イツハク・ラビンは「平和と協力」と称した理論に戻づいて南レバノン植民地化とオスロ・プロセスを創始した。この理論は南アフリカの言説の完全な複製と言える。レバノン人とパレスチナ人を開かれた境界線で囲まれた場所に強制移住させ、イスラエル軍はこの境界を自由に通って弾圧行為を行う。力の弱い自治政府はイスラエルとの協力を余儀なくされる。人類学者でレバノンの政教分離党の元党首ユーセフ・アシュカルが述べたように、バントゥ-スタンの原則とは、弱い政権を設置して住民に対する戦争を続けることである。
新保守主義者の影響下で、シオニストの宗教信仰とアパルトヘイトの実践は新たな政治教義を生んだ。
神権政治
上院議員ヘンリ-・“スク-プ”・ジャクソンは、1983年に死去するまで、軍産複合体の利益の擁護者でソ連との対決を支持した人物として提示されてきた。民主党の好戦的極左を体現し、1976年の大統領選に出馬して敗退した。しかし、本書では彼の政治活動の別の側面をとりあげる。
1974年、彼はアメリカと移民を制限する共産主義国との間の商業関係を部分的に禁止する修正案を推進する(Titre IV, section 402, US Trade Act 1974 )。これにより、彼はソ連が高等教育を受けた国民に大学の学費返還に匹敵する移住税を要求しないようにする。目的はソ連のユダヤ人の移住を促進するためだった。最終的に百万人のユダヤ人が彼らの“アリーヤー”(聖地に行き信仰を高めること)を行った。そのうち10万人については、エルサレム国際キリスト大使館が費用を負担した。57万3千人のユダヤ人(および福音派キリスト教徒)がアメリカ合衆国への移住を選んだ(Jackson-Vanik and Russia Fact Sheet, ホワイトハウス2001年11月13日)。
ヘンリ-・ジャクソンは優秀な若者に囲まれた。若者は全てユダヤ人、極左に限られ、トロツキ-主義者が多かった。エリオット・アブラムズ、フランク・ガフニ-、エドワ-ド・ルトワク、リチャ-ド・パ-ル、ポ-ル・ウォルフォウイッツがその中にいた。彼らは後に新保守主義潮流・共和党に合流する。彼らは現在アメリカの国家安全保障会議、国防省、世界銀行で重要な役割を演じている。若い頃の決意は捨てたが、彼らは経験上全体的革命の野心、組織を操作する方法、いくつかのレトリックを保持する。ユダヤ人移民計画を成功させるため、彼らはソ連で若いウクライナ人、アナトリ-・シャランスキ-を利用する。シャランスキ-は1977年にスパイ容疑で逮捕され、スパイ交換の際に釈放された。彼はその後、ナタン・シャランスキ-と名乗る。
この非常に均質なグル-プの一人一人のメンバ-は、他のメンバ-の助けを借りて政治的な経歴を積んだ。彼らは冷戦中の「Bチ-ム」における活動で知られている。ソ連の脅威を強調し軍備競争を推進した。彼らは「現在の危険に関する委員会」を統括し、全米民主主義基金(NED)、合衆国平和研究所(USIP : US Institute for Peace)を創立した。1989年ソ連の体制が揺らぐと、彼らは80人の新指導者を選びボリス・エリツィンの周囲に集め、モスクワに組織を作った。翌年、6人の最も優秀な人材がホワイトハウスから特別ビザを与えられアメリカでリチャ-ド・パ-ルの指揮下で追加の訓練を受ける(« The Free Congress Foundation Goes East » by Russ Bellant and Louis Wolf ;« Walkie –Talkie Mischief » by Louis Wolf ; « Western Intervention in the USSR » by Sean Gervasi, Covert Action Information Bulletin, no35 Automne 1990, no37 Eté 1991, et no39 Hiver 1991-92.)。彼らはミハイル・ゴルバチョフを排除したがソ連保安部復権は成功しなかった1991年のク-デタ-失敗の後、空になっていた政権の座を奪取する。
ジャクソン派に操作されたボリス・エリツインはソ連を解体する。彼は多くの共和国の独立を助け国家の資源を数人の友人の利益のために民営化する。彼らが略奪し破壊したこの国における自分達のビジネスを擁護するため、彼らは互いに衝突しあい、大犯罪組織を利用することもあった。彼らの大部分は戦利品を持って国外退去し、歓迎する金融市場にこれをもたらした。1994年、アルミニウム王のミハイル・チェルノイがイスラエルに亡命し、百万人の旧ソ連出身ユダヤ人を見出した。彼はイスラエルのロシア語圏の政党すなわちナタン・シャランスキ-率いるイスラエル・バ・アリヤとアビグドル・リ-ベルマン率いるイスラエル・ベイテヌに資金提供する。両政党ともに政教分離主義でパレスチナ人の「輸送」すなわち強制移住を含めた厳格なアパルトヘイト政策を支持する。
2003年10月11日、キング・ダヴィド・ホテルでエルサレムサミットが開かれた(会議の記録はThe Jerusalem Alternative, Moral Clarity for Ending the Arab-Israeli Conflict, Balfour Books éd., 2005)。庇護者ミハイル・チェルノイの招待状にはこう書かれている。「イスラエルは東洋の全体主義と西洋の道徳的相対主義に代わる道徳的な選択です。イスラエルは私達の文明の存続のための戦いのグラウンド・ゼロです。イスラエルを救い、西側諸国をイスラエルと共に救うことができます。今こそエルサレムに集まる時です。」80人のフェロ-シップ財団代表、アメリカとロシアのジャクソン主義者、イスラエル右派の人々が神権政治という新たな概念の周りに集合した。
3日間の討議の末、ヘンリ-・スク-プ・ジャクソン賞がリチャ-ド・パ-ルに授与された。彼は演説の中で、イスラエルがテロ支援国に対する予備攻撃と戦争に関するブッシュの教義を採用したことを長々と称賛した。
参加者は会議の最後の宣言で、ファシズムと共産主義の後、自由な世界はイスラム過激派という新たな敵に立ち向かわねばならないと述べた。彼らは国連の新保守主義者の批判を利用した。彼らは一国一票制を終らせるよう、すなわち反逆国から投票権を奪うよう要求した。また、パレスチナ国家の設立に決定的に反対を表明した。彼らはジハ-ド主義(イスラム教の名のもとに抵抗を行うこと)は人種差別・民族虐殺の一形態とみなすべきだと主張した。「テロリズム」を防止するためにあらゆる例外的な司法手段・軍事手段が用いられるべきであると述べ、アラブ諸国の石油収入の没収とその国際機関による管理への賛成を表明した。彼らは、メディアがイスラエル擁護活動と、イスラエルが犠牲になっているテロリズムの間に道徳的な序列をつけるべきだと強調した。また、大学における反シオニズム主義を防止するべきだと呼びかけた。
署名を行った高位高官達は、イスラエルが復興され領土を拡大することと世界平和との間に聖書的な関連づけを行っている。これは「神権政治」、神が世界のために望み、預言者達に啓示した政策なのだ。「私達は全ての国家が永遠で不可分なイスラエルの首都エルサレムを、創るべき新たな統合の中心地として選ぶよう呼びかける。神の着想によるイスラエル復活の目的の一つはここを、預言者が予言した平和と繁栄の時代へ人々を導く新たな諸国統合の中心地にすることであると我々は考えている。
不幸なことに、大部分のイスラム国家はイスラエル破壊を誓っている。世界の自由な国々へ次のことを理解するよう呼びかける。イスラエルの国民が約束の地で平和に暮らすことができれば、世界全体を平和が支配するだろう。イスラム過激派がイスラエルを破壊して勝利すれば、平和は決して訪れず、西洋文明もジハ-ドの前に屈服するだろう。世界全体の救いのため、イスラエルの地はイスラエルの民に属さねばならない。」(Jerusalem Declaration, 2003年10月14日)
一ヵ月後、エフ-ド・オルメルトはハレツ紙の質問に答え、自国は黒人の要求に対する白人の南アフリカと比較できる状況にあり、困難な決定を行わねばならないだろうと述べた。「私達には時間が永久にあるわけではありません。ますます多くのパレスチナ人が二つの国家案を交渉することへの関心を失っています。彼らは紛争の本質をアルジェリアのモデルから南アフリカのモデルに変えようとしています。占領に対する戦いから一人一票への戦いへと。当然ながらこの戦いは一層清廉で人気があり、強力な戦いになります。私達にとってこれはユダヤ人国家の終わりを意味するでしょう。」(« Maximum Jews, minimum Palestinians » by David Landau, Haaretz, 2003年11月13日)彼はイエディオト・アハロノト紙で、取るべき決定がディアスポラに理解されないのではないかと懸念を表明する。「私は南アフリカのアパルトヘイトに対する戦いの重荷を背負った自由主義ユダヤ組織が先頭に立って私達に戦いを挑むのではないかと恐れます。」(« An Ally of Sharon Foresees a Olestinian State », by James Bennt in The New York Times 2003年12月6日で引用)
「エルサレム宣言」がいかに呆然とさせる内容のものであるとしても、これは直ちに政治的な効果を持った。2004年4月14日、アリエル・シャロン首相とジョージ・W・ブッシュ大統領は手紙のやりとりを行った(« Letter from Prime Minister Ariel Sharon to US President George W. Bush » ;« Letter from US President George W. Bush to Prime Minister Ariel Sharon » イスラエル外務省2004年4月14日)。この書簡はイスラエル人にとってバルフォア宣言よりも重要とみなされる。アメリカ合衆国は「分離計画」(新アパルトヘイトの原則)を認可した。
ハレツ紙の論説委員、アキヴァ・エルダルはこう注釈する。「ガザ地区とヨルダン川西岸地区に関する計画の政治・軍事・経済的な側面はバントゥ-スタンに信じられないほど似ている。南アフリカで多数派の黒人への支配を続けるため少数派の白人が発明したものの一つだ。黒人および混血の人々は限られた自治権を持つ10の互いに切り離された飛び地に押し込まれ、彼らの経済的な快適さは白人の意志に基づいていた。軍の撤退は、ガザが占領地区であることに基づく要求が法的基礎を失うことを意味する。独立した実体に変えられたガザでイスラエルは政治的に合法な責任、道徳的・経済的な責任を免れる。しかし計画が排除するのは責任と何人かの市民、多くの兵士だけである。それ以外は、ガザ地区の制圧は彼らが行う。イスラエルは全ての国際交通を監視する。
独立した実体はイスラエルの合意なしには自己の領土の監視のため外国の軍隊に頼ることを許されない。しかし、イスラエルはガザの百三十万人の住民の責任を負わない。イスラエルはパレスチナ人に有無を言わせずこの計画を承諾させた一方、武器の存在はすでに存在する合意に反すると言ってガザの非武装化を求めている。
(……)この計画の最も興味深い点は、パレスチナ人の交通が続けられるようヨルダン川西岸地区の住民を退去させるという部分だ。この表現は南アフリカでも使われた。南アフリカの白人はそれにより原住民のための橋やトンネルを建設し土地を支配し続けられると考えた。」(« Creating a Bantustan in Gaza » by Akiva Eldar, Haaretz, 2004年4月16日)
それだけではない。シャロンとブッシュの取り交わした書簡で、アメリカは国際法の義務を認めるが、その実践を非現実的とみなす。そのため、ジュネ-ブ第四条約49条に違反する形で、アメリカは370万人のパレスチナ難民の「帰還の権利」(あるいは財産没収の賠償)を否認することになった。同様に、アメリカは安全保障理事会の決議242と338に違反する形で、占領地区(ガザ、ヨルダン川西岸地区、東エルサレム、エジプトのシナイ半島、シリアのゴラン高原、レバノンのシェバ農場)が征服された土地と認める(« Bush bouleverse le principe de“ territoire contre la paix ”», AFP, 2004年4月16日)。
アングロサクソン人とイスラエルを結びつける絆は父子関係にとどまらない。彼らは共に一つの言語と一つの計画を考案した。
支配する
思想上の指導者
帝国の支配は軍事力だけによって行使されるわけではなく、思想体系をも利用する。多国籍指導階級は権力拡大のためあらゆる手段を用いることを彼らに許すレトリックを自己に与える。レオ・ストロ-スの行政権一元化のイデオロギ-である。他方で、誤った概念が公衆の頭に叩き込まれ、人々が世界の見方を変え現状を受け入れるようにする。国際テロリズム、文明の衝突などの概念がそれにあたる。この点を細かく見てみよう。
ワシントンとテルアビブの政権にある軍人と政治家はしばしばレオ・ストロ-スを引き合いに出す。レオ・ストロ-スはシカゴ大学の哲学史教師で1973年に死去した(Leo Strauss : The Straussians and the Study of the American Regime, Kenneth L. Deutsch and John Murley, Rowman& Littlefield Publishers,
1999.)。実際は、このドイツからのユダヤ人移民の授業に出た者は少ない。“師”は彼らを自分の弟子と認めないかもしれない。彼らの多くはレオ・ストロ-スの助手の一人で哲学者のアラン・ブル-ムの教えを受けている。アラン・ブル-ムがニーチェとハイデッガ-のヨ-ロッパ・ニヒリズムに関する師の業績に具体的な政治的規模を与えた(« Leo Strauss et George Bush », Corine Pelluchon, Le Banquet no19-20, 2004)。
いずれにせよ、ソクラテスは言うべきではなかった真実を述べたために死刑になったという観念はレオ・ストロ-スをセクト主義的行動へ駆り立てた-あらゆる濫用を可能にするセクト主義へ。真の哲学者は公然と思想を述べると危険なので、大衆へ与える教えと最良の弟子だけに与える秘教的な教えを区別しなくてはならない。そこから出発してシカゴの師はプラトン、ゾ-ハル、カバラ、マイモ-ン、アヴェロエスの謎を解明し、その秘教を再構成しようとする。そして、それを口頭で贔屓の学生に伝えた。ソクラテスがアテネの民主主義に迫害されたように、アメリカの民主主義に迫害されないためである。プラトンもアヴェロエスも他の哲学者もレオ・ストロ-スが彼らのものと決めた秘教を否定しないのは言うまでもない。
ストロ-ス主義者は彼らの師から、隠蔽への好みだけでなく暴力と嘘への崇拝も受け継いだ。レオ・ストロ-スはドイツでユダヤ人として生まれたためワイマ-ル共和国におけるナチズムの上昇を見た。この経験から彼は、強い体制が弱い体制に勝利し、民主社会はつねに独裁者の手中に落ちると結論した。そのため、問題は自由と平等を擁護することではなく-それらは神話にすぎないので-、独裁者がいかにして全員の幸福のために行動するようにするかであった。彼の弟子達は次のように言う。国民が民主主義を信じたいなら信じるふりをしよう。しかし権力が我々よりも悪い者の手に落ちないよう武力で統治することを躊躇してはならない。そもそも、次の“最終的解決”の犠牲にならないための唯一の方法は独裁者の側につくことだ(Leo Strauss and the American Right, by Shadia B. Drury, St Martin Press éd., 1997)。
さらに、レオ・ストロ-スは近代の人間がいかにして道徳価値を相対化する危険を冒しながら少しずつ信仰よりも理性に重要性を与えていったかを研究した。ストロ-ス主義者はこれに政治的結論を与えた。道徳的退廃を避けるためには理性と信仰、科学と聖書を切り離すのではなく結合させるべきだ。これらを体現する国―アメリカとイスラエル-も同様に連盟させるべきだと。
ストロ-ス主義者が師の教えを魅惑的な教義に変えたのは偶然ではない。レオ・ストロ-ス自身がそれを推進している。この学者は、死ぬまで戦った勇気ある兵士、古代スパルタの重装歩兵ホプライトを崇拝している。彼の授業に出ることは、新たなスパルタの兵士ホプライトになることを意味する。実践学習もこれに伴う。ホプライト連隊が他の教師の授業に侵入し体制を揺るがして釈明を求めるというような。シカゴ大学からマルクス主義者を除去するべきだ。ナチスがユダヤ人をドイツの大学から除去したように(Leo Strauss and the Politics of American Empire, by Anne Norton, Yale University Press éd., 2004)。
レオ・ストロ-スは若い頃、法学部教師カ-ル・シュミットと親しくなり、その友情は歴史の盛衰を超えて続いた。シュミットはワイマ-ル共和国が弱く、緊急事態に重要な決定を下す能力を欠いているという観念にとりつかれていた。そのために、ナチスの偽科学的人種差別に反対だったが、進んで補佐官になり、第三帝国の憲法の執筆を担当したのだ。体制において卓越した地位にあったにも関わらず、彼はナチスの犯罪には関わらなかった。シュミットはニュルンベルク裁判で裁かれ、無罪放免になった。
シュミットは権力分立の原則と両立しうる強い国家の理論を作った。彼によれば、政治が効果的であるためには執行部が絶対的に独立している必要がある。この原則は「行政権一元化理論」(Unitary Executive Theory)としてストロ-ス主義者に採用された。(《The Return of Carl Schmitt » by Scott Horton, Balkinization, 2005年11月7日 ; « Cheney Schmittlerian Drive for Dictatorship », Lyndon Larouche PAC, 2006年1月6日)
第一に、合衆国政府は政府の各局の間のライバル関係によって蝕まれている、この内部闘争を超越する唯一の方法は法廷ではなく彼らの属する部署の唯一の長によって裁定させることである。その結果、行政権は廃止され、執行機能は行政部全体ではなく一人の長によって体現される。
第二に、立法・行政・司法の三権分立の目的は、互いに監視しあい独裁を防ぐことではもはやなく、合衆国大統領が司法官と議会にわずらわされないことである。
この「行政権一元化理論」はバークレ-大学の教師ジョン・ヨ-によって流行することになった。フェデラリスト協会の仲間と共にジョン・ヨ-は対テロ法を執筆した。この法律は裁判を受ける者の権利に関する主要な合衆国憲法の措置を停止する。彼はこの法案をアメリカ合衆国愛国者法として、2001年9月11日のテロの一週間後、集団的なパニックを利用して、大した議論もなく議会で可決させた。さらに、ジョン・ヨ-は法務省補佐官になり、追訴事項なしにグアンタナモの囚人を永久拘留するための論拠を執筆した。その後、明解な題の本を出版した。『戦争と平和の力 9.11後の憲法と外国問題』(The Powers of War and Peace : The Constitution and Foreign Affairs after 9/11, by John Yoo, University of Chicago Press 2d., 2005.)
アメリカとイスラエルの指導者階級はこのように、政策隠蔽、武力と嘘の使用、両国を救う同盟関係、見識ある独裁を称揚するイデオロギ-を手にした。この同じ人々が平行して世論に独裁を受け入れさせるための恐ろしい世界観を発明し、大衆に課したのである。
“イスラムテロリズム”の発明
1979年、まだ大衆に名を知られていなかった若者ベンヤミン・ネタニヤフはパレスチナ抵抗運動に対抗するためのシンクタンク、ヨナタン研究所を作った。ハイジャック機の人質を解放するためのエンテベ作戦に参加して死亡した兄ヨナタン(ヨニ)の名前をつけた。ベンヤミンとヨナタンは修正主義シオニズム運動の歴史的指導者でユダヤ人部隊の創設者、ゼエヴ・ジャボチンスキの秘書を務めたベンジオン・ネタニヤフの息子である。
アマン(イスラエル軍情報局)の支持を受け、この機関はエルサレムで、当時の全てのテロ行為の裏にソ連が存在することを示すための会議を開いた(この会議についてはInternational Terrorism : The Propaganda War, by Philip Paul, Thèse de relations internationales San Francisco State University, 1982.会議の記録はInternational Terrorism : Challenge and Response, Jonathan Institute éd., 1981.)。アマンの4人の責任者と元責任者、NATO前事務総長が出席した(イスラエルの将軍Chaim Herzog, Méir Amit, Aharon Yariv, Schlomo Gazit 、NATOのManio Brosio)。アメリカとイギリスの代表団、外国の情報局関係者も参加した。共和党のジョージ・H・ブッシュはCIA元長官という立場で出席した。ブッシュは民主党上院議員のヘンリ-・スク-プ・ジャクソンとアメリカユダヤ委員会の雑誌「コメンタリ-」の記者に同伴されていた。
この時点までは、アイルランドテロリズムやパレスチナテロリズムと述べながらそれらの間の関係を想定することはなかった。それ以降は、全ての集団が関係を持ち、各集団は民族解放闘争の表れではなく、ソ連と同じように西側諸国を不安定化するための秘密の計画に関与していると断言されるようになる。彼らと交渉するのは無駄である。なぜなら彼らが主張する大義は隠れ蓑にすぎない。テロリズムは民間人に対する軍事的技術ではなく、道徳的な選択の結果なのだ。この選択により、テロリストは彼らと彼らの主張の悪魔的な性格を表す、と。
イスラエル側では、二つの党の高位の代表がこの会議に出席した。労働党指導者のシモン・ペレス、リク-ドのメナヘム・ベギンである。ベギンは首相の立場から、悲嘆にくれる人々が固執的に“パレスチナ抵抗運動”を呼ぶもの、今後は“国際テロリズム”と名づけられるものにおけるソ連の責任を非難するため、できるだけ多くの情報を交換しメディアキャンペ-ンを行うよう参加者を促した。彼らはそれを首尾よく実行した。
このキャンペ-ンはフランスで2人の演説家に引き継がれた。ドゴ-ル暗殺未遂事件を繰り返した元秘密軍組織指導者のジャック・スステルとフィガロ紙のアニ-・クリ-ゲルである。KGBの秘密の役割やカダフィ大佐のリビアでの役割についての想像上の詳細を語るセンセ-ショナルな本が大量に出版された。テーマが開始され、これはベルリンの壁崩壊まで10年間ほど続いた。
ストロ-ス主義者達にとって、この会議は決定的な段階だった。それまでは、ソ連を告発するのにデ-タを大幅に改竄し、公衆にソ連が過剰軍備され好戦的であると示さねばならなかった。不安がエネルギ-を集結させ、アメリカとその連合国の警戒を取り去り、世界征服のための軍備生産を活性化することを可能にした。しかし、ソ連は存在し、赤の広場に軍隊が行進するのが見られた。ロシアの熊が真の脅威となるにはあまりにも弱体化していることを発見される恐れがあった。ストロ-ス主義者達は赤の脅威の虚構を提供するためにソビエトの経済システムの失敗やモスクワへの大規模な食料援助を隠さねばならなかった。
“国際テロリズム”はそれが純粋に潜在的なものであるだけに制御可能だった。存在しないものは否定する力がない。さらに、テロリズムが戦略でなく悪の表現であるならば、歴史的な状況と関わりを持たず、政治的な解決を見出すことはないだろう。テロはいつでもどこでも起こる可能性があり、テロリストの性質だけがテロの理由となる。全ての人間が危険にさらされている。全ての人間が恐怖を持つ理由がある。自分の自由と家族の自由を犠牲にしなければ生き延びることはできない。
ヨナタン研究所は1984年にワシントンで二回目の会議を開いた。ベンヤミン・ネタニヤフはその間に代理の米国駐在イスラエル大使になり、3ヵ月後には国連大使になる。多くの「ジャーナリスト」が演説家としてこの会議に参加した。アメリカからはボブ・ウッドワ-ド、ジョ-ジ・ウィル(ワシントン・ポスト)、フランスからはアラン・ブザンソン、ジャン=フランソワ・レヴェル(フィガロ)が出席した。副大統領ジョ-ジ・H・ブッシュの代理として国務長官ジョ-ジ・シュルツが出席し、イツハク・ラビンは自らワシントンへ赴いた。メディアで取り上げられた演説の中でシュルツは世界中のテロ組織の連携を“恐怖の同盟”と呼んで非難した(« Soviet Using Terrorism, Shultz Asserts » by Joanne Omang The Washington Post, 1984年6月25日 )。この同盟はシリア、イラン、リビア、北朝鮮から構成され、ソ連から資金を受けている。これに対して戦うため、ラビンは国連から独立し、アメリカの主導権のもとに国際テロリズムを防止するための「自発的な国々からなる国際機関」を作る提案を行う。シュルツもまたテロリズムに対する「予防的活動」の許可を提案する(« Preventive action discussed Combat terrorism, Shultz
urges » Reuter, 1984年6月24日 )。
これらの主題が公的な言説に現れるのはこれが初めてである。ジョ-ジ・シュルツの「恐怖の同盟」はジョージ・W・ブッシュの「悪の枢軸」に先行する。その構成国はほぼ同じだ-リビアがイラクに代えられることを除けば。なぜ北朝鮮が近東の国々と共にあげられているのかは分からない。「自発的な国々からなる機関」はアフガニスタンとイラクを攻撃する「テロに対する自発的な国々の連合」の前身である。また、予防的活動の理論はジョージ・W・ブッシュの政策を予告する。
しかしながら、このレトリックは相変わらず完全に共産主義に対して用いられている。そのため、まだ著名ではないバ-ナ-ド・ルイス教授はこう説明している。「イスラム教は世界の大宗教の一つであり、他の姉妹宗教とその道徳価値・道徳規範・道徳法規を共有し無実の者の虐待を非難する。(……)一般的に、イスラム教徒はキリスト教徒やユダヤ教徒と同様テロリズムには反対で、テロリズムへの嫌悪を共有している。通行人や非戦闘員・無実な者に対する近代テロリズムはイスラム教徒のものではない。テロリストが用いる爆弾や火器はイスラム世界へ外からもたらされるものである。」(« Terrorisme islamique ? »by Bernard Lewis in Terrorism : How the West Can Win sous la direction de Benyamin Netanyahou, Farra Straus Giroux éd., 1986.)
数年後、ベルリンの壁が倒される。ソ連が崩壊している一方で、バ-ナ-ド・ルイスは意見を変える。イスラム教徒が悪者になるにはソビエト人が必要ではなくなった。ユダヤ・キリスト教に比べてイスラム教はあまりに劣っているので、二つの文明は衝突する。この差異を意識するイスラム教徒は激怒しテロリズムに身を投じる(この分析は最初、全米人文科学基金が企画した会議で発表され、その後 « Resentment and Anger of the Moslem Masses »という題で1990年にスミソニアン協会、フ-ヴァ-研究所で発表されたのち、本となった。“The Root of Muslim Rage” by Bernard Lewis, Atlantic Monthly, September1990)。
この文明衝突理論は戦略となる。イデオロギ-上の敵ソビエト人の共産主義が死んだ以上。帝国は新たな敵を作りあげねばならない。1993年、アメリカの国家安全保障会議でバーナ-ド・ルイス教授の補佐官を務めたサミュエル・ハンティントン教授が答えを見出す。東西の分裂が消滅した現在、新たな分裂が生まれるだろうと彼は言う。それは、彼が宗教ブロックと同一視する文明同士の分裂である。彼はその理論を『文明の衝突と世界秩序の再形成』という本で展開する。彼は長い推論を用いて世界を9の文明に分け、未来の宗教戦争を説明する。この本を読むと、ハ-バ-ド大学の教授の自民族中心主義と無教養に大変驚かされる。それは、私達が、彼の分析の目的が世界を理解することではなく。一つの政策を正当化するためであることを忘れているからだ。
とはいえ、“国際テロリズム”と“文明の衝突”の理論を結びつけるだけで「イスラムテロリズムに対する戦争」ができるわけではない。“テロリズム”を連携させるために故ソ連にかわるイスラム教指導者を発明しなくてはならない。そしてその指導者にイスラム諸国の民族抵抗運動を結びつけねばならない。
1998年2月23日、ロンドンに拠点を持つアラビア語新聞Al-Qods-Al-Arabiは国際イスラム戦線と名乗る団体から受け取った声明をトップ記事に載せた。声明の5人の共同署名者にはウサマ・ビンラディンが含まれていた。アフガニスタンとユ-ゴスラビアにおけるCIAの協力者ビンラディンは陣営を変え、帝国に反旗を翻したということになる(Wie der Dschihad nach Europa kam by Jürgen Elsässer, NP Verlag éd., 2005)。アメリカがイラクを攻撃すれば--アメリカはすでにイラクを部分的に占領している—報復措置を受けるだろうと声明は述べている。6月半ば、アメリカ当局は、この脅迫を考慮し外交官の安全のための措置を取ると発表した。国務省は敵の正確な名前を初めて公表する。「ユダヤ人と十字軍に対するジハ-ドのためのイスラム国際戦線」である(« US increases security following “serious”threats of terrorist attack» AFP, 1998年6月13日)。
この命名は西側諸国での普及を目的としている。「国際イスラム戦線」という名称は「共産主義インタ-ナショナル」を模倣している。しかし、この名称はイスラム教文化においては意味を持たない。イスラム教徒は信者共同体の概念「ウンマ」を用いる。「ユダヤ人と十字軍に対するジハ-ド」はイスラム世界ではなくサミュエル・ハンティントンの米国人読者を対象にしたスロ-ガンだ。このスロ-ガンがイスラムインタ-ナショナルを宗教の分野に転換させる。このスロ-ガンは1998年の現実とは非常にかけはなれている。十字軍遠征は6世紀前に終っており、キリスト教徒はもはやエルサレムを占領しようとはしない。なによりも、シオニスト政権による占領と米英のイラク威嚇は直接な関係を持たない。Al-Quod-Al-Arabiに送られた声明の署名がたった一つで、不完全なものであることもそれを説明している。
この「ユダヤ人と十字軍に対するジハ-ドのためのイスラアム国際戦線」は1998年8月7日のダルエスサレム(チュニジア)とナイロビ(ケニア)のテロ、2000年10月12日のアデン港の米艦コ-ル攻撃の際にこけおどしの役割を演じることになる。あとはこの戦線にパレスチナとレバノンの抵抗運動を結びつけるだけでよい。イスラエルの労働党党首で国防大臣のビンヤミン・ベン=エリエゼルが2001年6月25日ユダヤ局の責任者を招いた際にその任務を遂行した。彼はこう宣言する。「ウサマ・ビンラディンはイスラエルに潜入しようとしており、そのために現地の住民や密使を利用しています(……)イスラエルとアメリカとヨ-ロッパを標的として活動するための、ウサマ・ビンラディンと関係を持つパレスチナ人テロリストとシ-ア派の連合が最近作られました。」(« Defense minister says Bin Laden trying to set up terror network in Israel », AFP, 2001年6月25日 ; « Defense minister warns of threat from bin Laden » by Jason Keyser,
Associated Press, 2001年6月25日ほか )しかし、イスラエル軍と南レバノン軍の仲介将校だったベン=エリエゼルは、ヤセル・アラファトのファタハがはるか以前にビンラディンをアメリカのスパイとみなし彼との関係を絶っていたこと、またヒズボラが常にビンラディンを敵とみなしてきたことを知っていた(Hizbullah : The
Story from Within, 2005の中でヒズボラ副書記Cheik Naim Qassemはウサマ・ビンラディンをシオニストプロパガンダの手先として描写している)。
その3ヶ月後の2001年9月11日にアメリカは巨大なテロ攻撃を受けた。司法調査が行われないまま、ブッシュ政権によりテロはウサマ・ビンラディンの犯行であるとされた。感情的ショックを利用してストロ-ス主義者達はジョン・ヨ-教授とその仲間がはるか以前に準備してあった法案を議会で可決させ、「イスラムテロリズムに対する戦争」を宣言した。この戦争のおかげで、彼らは大中東再編計画を実施することができる。
分裂させて支配する
シオニストのキリスト教徒にとって、イスラエル復興計画で重要なことは世界のユダヤ人を再集結させソロモン神殿を再建することである。そのため、委任統治領パレスチナよりもさらに広い国を想定しなくてはならない。この計画に順応するユダヤ教徒にとって、目的は聖書に描かれた「約束の地」の再現である。はるか以前に決定されたこの目的は、退去させるべき住民に恐怖を与えないために公的には明示されていない。この領土の征服は、策略と武力によって段階的に行われねばならない。
国際連盟によるパレスチナのイギリス委任統治決定の際、「英国国王はその地においてバルフォア宣言で予告されたユダヤ人国家設立を行うべきである」と記された。そのことは、委任統治領パレスチナ全体がイスラエル再建にあてられることを自動的に意味するわけではないが、そのように解釈した者もあった。この領土はメシア再来を期待しつつ世界中のユダヤ人を集結させるには不十分だからだ。
「最終的解決」が発見され、国際社会がシオニストのキリスト教徒の計画に賛同すると、この問題は一層詳細に扱われた。国際連盟の後を継いだ国際連合はその可能性を測るために調査委員会を急いで設置した。二つの選択肢が議論された。委任統治領パレスチナをアラブ人とユダヤ人の二つの民族からなる唯一の国家にするか、それとも領土を二つに分けて国境で隔てられた二つの国家を作るか。議論の最中、シオニスト組織は途方もない要求を行った。過激主義者の立場として理解するべき要求だ。ラビのフィッシュマンはユダヤ局にこう述べる。「約束の地はエジプトの川からユ-フラテス川までの領土であり、シリアとレバノンの一部も含む。」(1947年7月9日フィッシュマンの発言。The Zionist Plan for Middle East, Israel Shahak , Association of Arab-American University Graduates Inc éd., 1982に引用。)このような発言は地域の住民の恐怖を増加させる。シオニスト組織が一方的にイスラエル国家の建設を宣言し、直ちに国連が認めた国境の外へ領土を広げたため、なおさらであった。その後、イスラエルの国旗に関して論争が起きた。国旗の模様はユダヤ人の祈りのショ-ルから着想を得ている。多くの者がダビデの星を囲む水色の縞がナイル川とユ-フラテス川の象徴であり、これをイスラエルの領土要求の表現と解釈する(ヤセル・アラファトは1988年にプレイボ-イ誌へのインタビュ-で不安を表明し、パレスチナ政府外相のマフムド・アル=ザハルはイスラエルにそのような象徴を持つ国旗を放棄するよう求めている。 « Interview With Mahmoud al-Zahar »CNN late edition by Wollf Blitzer, 2006年1月29日)。
シオニスト組織は当時の議論に基づいて戦略的思想を発展させた。ドイツのカ-ル・ハウスホ-ファ-将軍の業績のいくつかの側面も--彼はナチスの拡張理論家だったにも関わらず--取り入れたが、何よりも、アメリカのユダヤ人大学教師ロバ-ト・ストロ-ス=ヒュペの業績の影響が見られる。(Geopolitics : The Struggle for space and Power by Robert Strausz-Hupé, Putnam éd, 1942 ; “Some Observation on Herzl’s Geopolitics” Robert Strausz-Hupé, Orbis,
hiver 1998, Foreign Policy Research Institute éd. )彼の3つの大きな思想が取り入られた。第一に、国は広ければ広いほど中心を攻撃される可能性は低い。「イスラエルが安全を得る権利」のために領土拡張が必要だ。さらに、イスラエルは植民地の小島である。ヨーロッパから移住したユダヤ人の生活様式は現地のアラブ人のそれとは全く異なるだろう。戦争になったら原住民は占拠ではなく破壊を行うだろう。イスラエルの安全のために彼らを強制退去させねばならない。最後に、広大な全体の統治は民族を分裂させることによってのみ可能だという思想である。
イスラエル首相とユダヤ局の局長を務めたモシェ・シャレットの膨大な回想録およびダヴィド・ベン=グリオンとの間の書簡を読むと、1950年代を通じてイスラエル指導階層でこの議論が続けられたことがわかる。いくつかの思想は少しずつ主要な指導者に強制的に与えられたが公式に記録されたことはない。(Israel
‘s Secret Terrorism. A study based on Moshe Sharett’s personal diary and other documents by Livia Rokach, Association of Arab-American University
Graduates Inc éd., 1982. )
モシェ・シャレットにあてたダヴィド・ベン=グリオンの書簡の一つがレバノンに関する見方を明示している。抜粋をここに記す。
「(レバノンのキリスト教徒は)レバノンにおいて歴史的に多数派です。この多数派の人々は(アラブ)連盟の他の民族とは根本的に異なる伝統文化を持ちます。拡張された国境においても(レバノンの国境を拡大したことがフランスの最大の失敗ですが)、イスラム教徒は多数派であってもキリスト教徒を恐れて自由に行動できません(彼らが多数派であるかは知りませんが)。このような条件下では、キリスト教国家の建設は自然なことです。歴史的なル-ツがあり、カトリックであろうとプロテスタントであろうと、キリスト教世界の大きな権力の支持を得ることができます。通常はキリスト教徒の率先的行為・勇気の欠如によりこのようなことはほぼ実現不可能です。しかし混乱・騒乱・革命あるいは内戦の状態においては、物事は変わり、弱い者が英雄を自称することができます。現在が、私達の味方となるキリスト教国家の建設にふさわしい時期である可能性(政治においては確実なものはなにもないので)があります。私達が率先して行動し支援しなければこれは実現しないでしょう。これは現在、私達の対外政策の重要な任務、あるいは重要な任務の一つだと思います。手段、時間、エネルギ-を投資しレバノンに根本的な変化をもたらすためのあらゆる手段を用いて行動するべきです(……)。レバノンの国境が縮小しなければこれは当然ながら実現不可能です。しかし、レバノンにマロン派国家建国のために集結する人々や要素を見出すことができれば広い国境は必要ないでしょう。大勢のイスラム教徒も彼らの障害にはならないでしょう。」
この戦略的思想は少しずつ近東に広がった。1982年、世界シオニスト機構の雑誌Kivunimに載った外務省の高官のものとされる記事がアラブ世界に大きな反響を引き起こし、ヨルダンで抗議運動が起こった。(Kivunimno14 février 1982(5782). 英訳はThe Zionist Plan for Middle East by Israel Shahak, Association of Arab-American University Graduates Inc éd., 1982.に掲載。)この資料には次のように書かれている。「レバノンを5つの州に解体することから始まり、エジプト、シリア、イラク、アラビア半島などアラブ世界全体がこれに続く。シリアとイラクをレバノンと同様民族的に同一な地域に分割することはイスラエルの東の国境における長期の優先的目的であり、これらの国家を政治的に解体することが短期の優先的目的である。シリアは今日のレバノンと同様、民族と宗教の構造に従って崩壊するであろう。海岸沿いにはアラウィ派国家、アレッポ付近にはスンニ派国家、ダマスカスには北部に敵対する別のスンニ派国家ができるだろう。ドゥル-ズ派は私達のゴラン高原に国家を持つかもしれず、ハウランと北ヨルダンに国家を持つことは確かだ。この状態がこの地域の長期に渡る平和と安全を保証するだろう。これが今日、私達が実現可能な目的である。」
4ヵ月後、イスラエルはロンドンの大使館に対するパレスチナ人のテロを口実にレバノンに侵攻し、難民キャンプのパレスチナ抵抗運動を攻撃した。「ガリラヤの平和」作戦である。イギリスの首相マ-ガレット・サッチャ-はロンドンのテロへのPLOの関与を公的に否定したが手遅れだった。イスラエルはレバノン南部にバントゥ-スタンを作り、政権をファシスト指導者バシル・ジェマイエルに与えベイル-トに独裁を強制しようとする。
1988年、イスラエル銀行は新しい10セント硬貨(10アゴロト)を発行し、古代ロ-マ人のエルサレム攻囲の時代の貨幣のモチ-フを再現した。(この硬貨の絵が描かれたのは1985年だが1988年になって初めて発行された。)この硬貨はエジプトのシナイ半島の一部とヨルダン、レバノン、シリアの一部、サウジアラビアとイラクの砂漠の大きな部分を含めたイスラエルの地図を表している。古代の地図作成は全く正確とはいえないが、それでも、この表象の公式な使用は大イスラエル支持者の明確なメッセ-ジである。この挑発が火薬に火をつけた。ヤセル・アラファトはシオニストの拡張主義を非難した(1988年12月13日の記者会見)。彼の配偶者で記者のイザベル・ピサノはヨーロッパの世論に警告した。(La Sospecha, Isabel Pisano, Belacqva, 2003)
1996年、首相となったベンヤミン・ネタニヤフはリチャ-ド・パ-ルが統括するグル-プが執筆した二つの報告書を受け取った。「清潔な断絶 王国(イスラエル)を安全化する新たな戦略」と「崩壊する諸国家への対処 東方諸国のための西洋とイスラエルの勢力均衡戦略」である。(A Clean Break : A New Strategy for Securing the Realm およびCoping with Crumbling States : A Western and Israeli Balance of Power Strategy for the Levant, Study group on a new Israeli strategy toward 2000, Institute for Advanced Strategic and Political Studies éd., 1996.)この研究はパレスチナ問題解決とイスラエルの領土拡大を、アメリカと共有する利害を利用して武力だけで行うことを奨励する。ユダヤ人国家と「西洋」は友好国ヨルダンとトルコの支持を用いて数世紀来のアラブ民族主義とイランのイスラム革命に対して戦わねばならない。オスロプロセスを止め、パレスチナ人へ「アラファトが及ぼすリ-ダ-シップにかわるものを見出すこと」(すなわちパレスチナ政府大統領を排除すること)が適切である。
補佐官達は一つの取引を計画する。イスラエルはスタ-ウォ-ズ計画に参加することで--ミサイルシステム配備のために領土使用を許可することで--米国防省に貢献する。そのかわりにアメリカはサダム・フセインを倒し、イラクを解体し、レバノンからシリアを撤退させ、アラブ統一国家の神話を終らせるのだ。イラクのシ-ア派地帯には、イランのイスラム革命の影響を阻むためヨルダンの王家の一族が統治する独立国家が作られるだろう。
この思想はウォ-ル・ストリ-ト・ジャ-ナル誌でリチャ-ド・パ-ルによって要約され(« Two Imperatives for the New Israel : Balance of Power », Richard Perle, The Wall Street Journal, 1996年7月10日)、同日、ベンヤミン・ネタニヤフによってアメリカの議会で述べられた(Adress by His Excellency Benyamin Netanyahu, Prime Minister of Israël, Congressional Record, Joint Meeting of the House and the Senate 104e Congrès, (H7159 à H7162)1996年7月10日)。これはクリントン政権を説得することはできなかったが(« Ultimate‘peace process’ prize » by Robert J. Loewenberg, The Washington Times,
1996年10月13日)、リチャ-ド・パ-ルが国防省の補佐官になったこともあり、ブッシュJrには容易に受け入れられた。(«US thinktanks give lessons in foreign policy » ; « Playing skittles with Saddam » by Brian Whitaker, The Guardian, 2002年8月19日と9月3日。 «The Clean Break Plan : Implication for U.S. Middle East Policy » by Delinda C. Hanley, Washington Report on Middle East Affair, Vol23-1, janvier –février 2004.)しかし、イラクにヨルダン王国を再建する計画は忘れられた—イラク国連特使の娘とアリ王子の婚約などの様々な有名人の企てがあったにも関わらず。
レバノンとシリアに関する戦略は2000年5月、ダニエル・パイプスとジアド・アブデルヌ-ルの管轄下で、新保守主義者、シオニストのキリスト教徒、軍産複合体の代表者からなる研究グル-プによって詳細に作られた。
それ以来、パイプスはアメリカで近東紛争の最も影響力のある解説者となったが、彼は何よりも、ロバ-ト・ストロ-ス=ヒュペの精神的な息子であり、この点では息子の名に値しないヘンリ-・キッシンジャ-の後継者である。ダニエル・パイプスはすでにアングロサクソンのプロパガンダの複数の概念を作り上げている。「新反ユダヤ主義」(シオニズムへの批判はすべて反ユダヤ主義とみなされる)(« The New Antisemitism » by Daniel Pipes, Jewish Exponent, 1997年10月16日)と「近東陰謀論」(アメリカとイスラエルの隠された帝国主義的意図を非難するアラブ人は自分達の問題を解決できないために贖罪のヤギを探しているだけだとする)である。(The Hidden Hand by Daniel Pipes, St Martin’s Press éd., 1996 ; Conspiracy, Free Press éd., 1997.)レバノンとシリアに関する共同研究者のジアド・アブデルヌ-ルはアメリカとレバノンの二重国籍を持つニュ-ヨ-クの銀行家である。ファシストのファランヘ党党首の従弟で、家族の複数のメンバ-が冷戦中、世界反共連盟に参加した。自由なレバノンのための米国委員会の議長であり、ラフィク・ハリリ暗殺の首謀者がシリアであるとするメディア報道に中心的な役割を演じた。
「レバノンにおけるシリアの占領を終らせる 合衆国の役割」と題された研究グル-プの報告書はイスラエル首相エフ-ド・バラクがレバノンからのイスラエル軍撤退(シェバを除く)を発表している時に書かれた。(Ending Syria’s Occupation of Lebanon : The U.S. Role, Lebanon Study Group, The Middle East Forum éd., 2000. )この報告書の中ではレバノンの問題がシオニストの利害の観点から扱われている。シリア軍が撤退はイスラエル占領軍撤退と並行して行われるべきであり、それによりレバノン経済がグロ-バル化に入ることができる。イスラエルが占領し続けているシェバ農園はユダヤ人国家が自国のために以前から望んでいるこの地の水源を利用できるように国際化されるべきだ。レバノンはハリリのシステムと手を切り経済グロ-バル化のため開国すべきだ。キリスト教徒の共同体の権力が強化されるべきだ。最後に、アメリカはシリアをレバノンから追放するために軍事的優位を躊躇せず利用すべきである。
レバノンの経済搾取の計画に夢中になっていた研究グル-プは、レバノン抵抗運動がイスラエル軍の不完全な撤退後に発展し、シェバ農場の解放を準備することを予想していない。グル-プのメンバ-の中に民主党員エリオット・エンジェルがいた。彼はイラク侵攻直後、シリアの責任とレバノンの主権回復に関する法律を採択させ、レバノンとシリアを帝国の次の標的として指名する。
しかしながら、シオニズムの拡張主義の論理はこの地域におけるアメリカの野心に従わねばならない。
いかにして石油を支配するか
1973年10月のイスラエル-アラブ戦争の際、アメリカは石油輸出国機構(OPEC)さらにアラブ石油輸出国機構(OAPEC)に対抗する。OPECはアメリカのイスラエル支持への制裁として生産を制限し、6ヶ月で価格を4倍に引き上げた。さらに、OAPECはイスラエルが新たに占領した土地からの撤退を強制した。産油国は突如として炭化水素資源の主権を回復し、アングロサクソンの石油会社は支配権を失った。この打撃は大きかった。石油ショックは産業経済を破壊する。
アメリカはエネルギ-に関する自国の主義を見直し、これに対処した。メディアと議会で議論が行われた。(« U.S. Threats of Intervention Against Arab Oil : 1973-1979 »by Marwan R. Buhery, Institute for Palestine Studies Papers no4, 1980.)これに関しては、ヘンリ-・キッシンジャ-国務長官が秘かに操作していたことが後にわかった。(« The Thirty-Year Itch »by Robert Dreyfus, Mother Jones, mars-avril 2003.)ロバ-ト・W・タッカ-教授はアメリカユダヤ委員会の雑誌コメンタリ-に一つの見解を発表した。禁輸措置が再び行われた場合、国連が解決法を課す以前にアメリカ経済は深刻な損害を被るだろう。そのため国防省は緊急に軍事介入をせざるをえないだろう。(« Oil : The Issue of American I Intervention » by Robert W. Tucker, Commentary, 1975年1月)この点について質問されたヘンリー・キッシンジャ-は、価格を低下させるため石油カルテルに対して軍事力を行使することは問題外であるが、産業世界の首を絞めるようなことになれば(新たな禁輸措置が行われた場合は)話は別だと答えた。(1974年12月23日Business Weekのインタビュ-)しかも、謎のMiles Ignotusがさらなる行動に出た。Harper’s誌でその人物は、新たな禁輸措置に備えてアメリカ経済の永続性を保証するため「アラブ人の石油を没収する」よう忠告している。(« Seizing Arab Oil»by Miles Ignotus, Harper’s 1975年3月)Miles Ignotusとはラテン語で無名の兵士という意味だ。この名の後ろに優れた頭脳のエドワ-ド・ルトワックとジャクソン主義者達が存在する。最終的に、代表者リ-・ハミルトン(28年後に9.11テロの調査委員会とイラク研究グル-プの議長を務める人物)が議会のための報告書を命じる。「軍事標的としての油田 実現可能性の研究」である。(Oil Field as Military Objectives, A feasibility Study , prepared for Special Subcomittee on Investigations of the Committee on International Relations, Congressional Research Service, 94éme Congrès, 1ere session, US Government Printing Office, 1975年8月21日)この報告書は、禁輸措置の危険が存在する場合、中東の石油資源を没収するための軍事介入は予防措置として正当化されると結論した。もっとも、この介入はソビエトの非介入が前もって確かである場合に限って開始されることが道理にかなっている、と。
サウジアラビア国王ファイサル二世は石油禁輸措置において指導的役割を演じた。しかし、彼は1975年3月家族のメンバ-によって殺害された。殺人犯の若者はCIAに操作された薬物常習者だった。沈黙の幕が直ちに王国を被い、国王暗殺者は斬首された。サウジアラビアは再び慎重になり反シオニズム政策を中止し、連盟諸国は大損害を被った。すると、ヤセル・アラファトとアブデルアジズ・ブデフリカに支持されたリビア大統領ムアンマル・アル=カダフィは派手な作戦を行った。1975年12月21日、イリッチ・ラミレズ・サンチェス(カルロスの名で知られる)とヨハネス・バインリヒがウイ-ンに集まったOPEC諸国の閣僚を人質にした。組織のメンバ-国に対し、石油の利益を抑圧された民族の解放と第三世界の経済発展のために用いることを約束させるためだった。しかし、メンバ-の一部のワシントン服従で身動きが取れないカルテルは政治的な駆け引きを続けることを諦めた。
しかし、カ-タ-大統領は対外政策に関する顧問スチュア-ト・エイゼンスタットに唆され、OPECを世界経済無秩序の責任者とし、公敵ナンバ-ワンにした。 (« OPEC : The Cartel That Never Was » by Edward Jay Epstein, The Atlantic, 1983年3月)最終的に、1980年1月23日の一般教書演説でジミ-・カータ-は自己の名前を持つ主義を発表する。「私達の立場を完全に明確にするべきです。外国の軍事力によるペルシャ湾地域の制圧の企ては全てアメリカの不可欠な利益への攻撃とみなされ、そのような攻撃は軍事力を含め必要なあらゆる手段で退けられるでしょう。」(State of the Union Address by president Carter, 1980年1月23日)
ヘンリ-・キッシンジャ-は二つの柱を利用したペルシャ湾の安定化を考えた。サウジアラビア(禁輸措置を行ったとはいえ)とイラン(シャ-が打倒されたとはいえ)である。ジミ-・カ-タ-は、自国以上に自国に奉仕できるものは存在しないと考える。それで、彼はアメリカに、ペルシャ湾に即座に介入できる防衛軍を与えた。この論理に基づき、彼の後継者ロナルド・レーガンは米国の国防地帯を見直し湾岸介入のための特別の軍隊を作った。アメリカ中央軍である。
しかしながら、アメリカは介入の舞台を正確に決定することを躊躇する。既知の油田の監視だけにとどめるならば、インド洋岸とアフリカ西岸、アラビア半島とイラン、東はパキスタンまで軍を展開させねばならない。しかし、バーナ-ド・ルイス教授の助言に従えば、西はエジプトとスーダン、東はインドとインドネシアまで、イスラム諸国を大きく包含するべきだ。これが「危機の三日月」の理論である。(« The Crescent of Crisis », Time Magazine 1979年1月15日) 三日月の用語は地図上の弓形を指すが、それと同時にイスラム教の三日月を軽蔑的に喚起する。ルイスはソ連の影響が民族主義運動を通じて行使されると考える。アメリカはその反対に宗教運動に賭けねばならない。彼らはイスラム教を利用して中央アジアのソ連の共和国を不安定化することができる。この理論に基づき。アメリカ政府はシャ-・レザ・パフレヴィを見捨て、イマムのホメイニの帰国を計画した。ホメイニを操作できると考えたからだ。この同じ基盤に立って、CIAはイスラム主義者を傭兵に雇い、アフガニスタンで赤軍に対して戦わせ、イスラム過激派への資金提供システムを作ったのだ。
この議論とは別に、アメリカはトルコを中央軍から除外することにした。トルコはNATOのメンバ-だからだ。またイスラエルを「危機の三日月」から除外した。イスラエルとアメリカによる介入がイスラム諸国の統合を引き起こすのは明確だからだ。(America, the Gulf and Israel : Centcom and Emerging U.S. Regional Security Policies in the Middle East, by Dore Gold, Jaffee Center for Strategic Studies, The Jerusalem Post éd., 1988. )エドワ-ド・ルトワックが述べたように、イスラエルはその存在自体により自ら形成に貢献した諸問題を解決するのに、アメリカの助けにはならない。(1986年7月4-9日エルサレムの戦略会議における発言)
しかしながら、1980年代の終わりになってもこの措置は成果をもたらさなかった。イランは全ての制圧から逃れ、サウジアラビアは別の提携国(英国、フランス、中国)へ接近した。ソ連崩壊が最終的にアメリカのペルシャ湾軍事介入を容易にした。
1990年、ワシントンは経済面でイラクの首を絞めるようクウェ-トに圧力をかけた。小首長国は対イラン戦争の資金の返済をサダム・フセインに求め、同時に両国の間の中立地帯の石油を採掘した。さらに、CIAはサウジアラビアに対し偽の衛星写真による情報操作を行い、イラクの侵攻が近いことを信じさせた。最後に、国務省はサダム・フセインにクウェ-ト併合を勧めた。罠は閉じられた。イラクは主権国家に侵攻することで再び国際法違反の立場になる(革命を起したイランへの侵攻を試みたときは誰も不平を言わなかったのだが)。アングロサクソン諸国はこれを利用し、砂漠の嵐作戦を開始する。(Guerre du Golfe, le
dossier secret, by Pierre Salinger et Eric Laurent , Oliver Orban éd., 1991.)ソ連とフランスはイラクを擁護する力はなかったが、完全占領には反対する。アングロサクソン諸国はサダム・フセインを政権の座に維持することに同意しクルド人地帯の油田(Nothern No Fly Zone)だけを占領し、南部の油田(Southern No Fly Zone )を監視下においた。生産全体が国連の監督下に置かれた(石油食料交換プログラム)。(Iraq and the Intervention Oil System. Why America Went to War in the Gulf, by Stephen Pelletiere, Maisonneuve Press éd., 2004 )
1994年から1995年にかけて、アメリカ、フランス、ドイツはOPECの人質事件の記憶を消すための合同作戦を行った。“カルロス”はウサマ・ビンラディンとハッサン・エル=トゥラビによってス-ダンで見つかった。彼はフィリップ・ロンド将軍の部下に誘拐され、フランスで裁かれ、有罪判決を受けた。(« LE Général Rondot, maître espion, tire sa révérence » Georges Malbrunot, Le Figaro, 2006年1月10日 )ヨハネス・バインリヒはイエメンで見つかった。彼はデトレブ・メヘリス検事によって逮捕されドイツに移送され裁判で有罪判決を受けた。(« Weinrich appears in court charged with terrorist attacks » AFP, 1995年6月5日)
イラクでの勝利は12年後、ジョ-ジ・W・ブッシュによって補完された。彼はイラク領土の残りの部分に侵攻し、1年間、連合軍の暫定政府に採掘を行わせた。この暫定政府は公的権利を持つ組織ではなくかつての東インド会社のモデルにならって行動する民間の会社であり(« Autorité provisoire de la Coalition : l’Irak
privatisé » Thierry Meyssan ; Voltaire actualité international no 1 mars 2005.)、規則が保持されることを条件に、政権をその名にふさわしくない政府に譲った。30年の戦いの結果、ホワイトハウスとアングロサクソン系の石油・化学企業はついに報復に成功した。(« The Thirty-Tear Itch »by Robert Dreyfus, Mother Jones, 2003年3月)
いかにして中東を再建するか
シオニストの戦略思想とアメリカのエネルギ-利害は少しずつ一体化する。シオニストの領土とアメリカの権力を拡大するため、現在の秩序を転覆させねばならない。このシンテ-ゼがロバ-ト・ストロ-ス=ヒュペの理論を中心にして作られた。彼は1957年のマニフェストにこう書いている。「アメリカにとっての争点は、この世代の間に世界を彼らの主導権の下におくことだ。この任務をアメリカが効果的にすばやく行うことで、指導的大国としてのアメリカの存続が決まる。西洋文化の存続、さらには人類の存続もこれにかかっているかもしれない。(……)輪郭が見え始めている世界秩序はアメリカの世界帝国の秩序だろうか?そうでなければならない。アメリカの精神の刻印を持っている限り。(……)来るべき秩序は歴史の移行の最終段階となり、今世紀の革命の時代は終るだろう。アメリカ国民の使命は民族国家を埋葬し、喪に服すこれらの民族をさらに広い統合体へと導き、新世界秩序破壊の意志に対しその権力で威嚇することである。新世界秩序が人類に提供するのは、腐敗したイデオロギ-や暴力的な力だけである。今後50年間、未来はアメリカのものである。アメリカ帝国と人類は対立せず。平和と幸福の印の下の同じ普遍的秩序を求める二つの名前にすぎない。Novus Orbis terranum (新世界秩序)である。」(« The Balance of Tomorrow », by Robert Strausz-Hupé, Orbis, 1957.)
この信仰告白はOrbis誌の第一号で発表された。この雑誌の編集委員会にはヘンリ-・キッシンジャ-、バ-ナ-ド・ルイス、サミュエル・ハンティントンが含まれる。
1985年にバ-ナ-ド・ルイスは当時イスラエルの国連大使だったベンヤミン・ネタニヤフの補佐官になり、「同一民族・宗教の地帯」に分割された近東の未来について想像する。彼の地図はこの地域の再編成の最初の具体的プランを明示する。イスラエルはパレスチナの占領地帯の全体、シリアのゴラン高原、南レバノン、エジプト領シナイ半島を吸収する。ヨルダンは免除される。小さくなったレバノンは三つの国家に分割される。北にマロン派国家、中央にイスラム国家、南にドゥル-ズ派国家が作られる。シリアは切断され、アラウィ派国家、クルド人国家が作られる。クルド人国家はトルコ、イラク、イランの一部を含む。イラクからはその他に二つの国家が作られる。シ-ア派国家とスンニ派国家である。イランは解体され、南にアラビスタン国家、北はアゼルバイジャンとトルクメニスタンに包含される。アフガニスタンとパキスタンからはバルチスタンとパシュトニスタンが生まれる。
アメリカを栄光の地位へもたらすこの秩序の大変化は当然ながら大理想の名のもとに行われる。1995年、晩年のロバ-ト・ストロ-ス=ヒュペ(92歳)は、アメリカ帝国拡張は民主主義の名においてのみ行われることが可能だと述べた。(Democracy and American Policy : Reflections on the Legacy of Alexis de Tocquevilleby Robert Strausz-Hupé, Transaction Publishers éd., 1995.)
2001年9月11日、この思想がアメリカ軍さらにブッシュ政権において不可欠となった。アメリカ陸軍の雑誌Parametersでロバ-ト・ストロ-ス=ヒュペの弟子ラルフ・ピ-タ-ズ大佐は、アメリカが「人類の変化と自由のチャンピオンの地位から、極めて悪い現状を維持するために人類の資源と力と生命を横領する国の地位に落ちた」ことを嘆いている。(« Stability, America’s Enemy » Ralph Peters, Parameters, no31-4 hiver 2001.)彼はウォ-ルストリ-トとワシントンの間の、すなわち、短期の利益を求める民間の利害と長期の連邦国家計画の間の厳密な分離を支持している。
彼は次のように続ける。「アメリカ人にとって激しい無秩序は自然に反した状態であり、解決されるべきであるが、社会や地域への高レベルの暴力は私達が慣れていない異なる種類の均衡の維持に役立つ。暴力の時期は避けて通れないゆっくりとした移行の時期である。私達は暴力が人間の性質に人工的に課されたものであると認めるために暴力を認可する必要はなく、暴力が自然に反していると主張する必要もない。暴力の複雑な起源についての私達の知識はあまりに少なく、この点に関する私達の信仰は迷信にすぎない。個人的な暴力であろうと集団的な暴力であろうと、私は自分の理論でこれを理解するよりもむしろ説明しようとする。中東は非人間的かもしれないが、地上で最も人間的な場所の一つである。結局のところ、中東紛争の平和的解決がアメリカにとって有益だろうか?イスラエルはもはや彼らを最後まで擁護するアメリカに依存せず、不安を与えるほどに独立性を示している。アラブ世界は一層アメリカに頼る可能性があり、これは歴史の大きな慰めの一つである。」
退役後フォックスニュ-スの軍事解説者となったラルフ・ピ-タ-ズ大佐にとって中東の無秩序と暴力は必要な害悪であった。レオ・ストロ-スの言葉を借りれば、混沌は建設的である。そして最終的にその犠牲者をアメリカの保護下に強制的に置くことになる。
この観点から見れば、「テロリズムは最終的に暴力的な問題だが9月11日の事件にも関わらずアメリカ存続の脅威にはならない。(……)歴史上最も恐ろしいテロの2日後2001年9月13日にこれらの方針が書かれた。アメリカは正当な怒りにとらわれた。怒りは国内の災害の最悪の結果を誇張する。しかしこのエッセイが印刷される前にアメリカ人は彼らの生活が見事に通常通りであることに気づくだろう--メディアが喜んでヒステリックになるとしても。何千もの人間の悲劇、ハイジャック、貿易センタ-ビルとペンタゴンへのテロによる混乱にも関わらず、驚くべきことに、テロリストがアメリカの日常生活に及ぼす影響はほんの少しの間であることがわかる。傷跡は存在するだろう。しかし、このグロテスクな悲劇の長期の影響は最終的にアメリカを再強化するだろう。(……)悲劇を過小評価するわけでは全くないが、アメリカがこれによりいっそう強く、いっそう団結するというのが事実である」
さらに、アメリカを破壊し新たな権力のシステムを試す時が来ていると彼は述べる。「多国籍企業が独裁者よりも人間的に統治できるならば、彼らにチャンスを与えたらどうだろうか?もし一つの部族が腐敗し抑圧的な政府より良く統治できるならば、その部族に彼らが望む土地を与えたらどうだろうか?」
これらの思想はナタン・シャランスキ-の本『民主主義の論拠 独裁と恐怖の打倒のための自由の力』(The Case for Democracy : The Power of Freedom to Overcome Tyranny and Terror, by Nathan Sharansky and Ron Dermer, Public Affairs éd ., 2004.)や、シャランスキ-がジョ-ジ・W・ブッシュ大統領のために書いた演説の中に見られる。
ラルフ・ピータ-ズ大佐は最終的に統合参謀本部議長の思索の結果を月刊誌Armed Forces Journalに発表する。再編成された近東の地図である。(« Blood borders ; How a better Middle East would look »by Ralph Peters, Armed Forces Journal, 2006年6月)
再編成前
チエリ-・メッサン著 2007年 アルフェ出版
はじめに
現在、世界の未来は近東にかかっている。産業社会の発展の存続は、開発可能な石油とガスが最も大量に埋蔵しているこの地域を利用できるかどうかに依存する。その理由で、近東は人間的な問題とは独立して列強とその野心が衝突する閉ざされた戦場となった。
この本を味わってもらうために、専門家にとっては自明の国際関係の機能の原則をいくつか念頭においてもらいたい。ここにそれを記す価値があるだろう。
国際政治は巧みな技であり、個々の行為者は多くの利益を失う危険があるだけに、一層慎重にならねばならない。そのため、各国はできるだけ長い間鉄を熱しておき、やむをえない状況になるまで手の内を見せない。三角ゲ-ムが規則となる。偽善からではなく戦略的必要からである。そのため、正しい情報も不完全であれば国家の意図について誤った概念を与える可能性がある。
国家は少なくとも3つの介入手段を持つ。公式の介入、非公式の介入、秘密の介入である。政府と彼らの外交官は公的に責任を取ることができるような言説を用いる。多額の補助金を与えられ緊密に管理されている彼らの企業、彼らのいわゆる「非政府組織」はそれにかわる言説をテストし、政府の立場が変わった場合の影響を推し量る。秘密情報局は、公的に発言されたならば重大な結果をもたらすが対話には役立つ正確なメッセ-ジを伝える。
これらの異なる手段は互いの存在を知らないか、あるいは知らないふりをしている。外から見ればそれらは矛盾しているように捉えられる。実際は、これらは各国にとって手の内を構成する異なるカ-ドにすぎない。
個々の国家は自国の固有の利益に従ってのみ行動する。時には、不幸なことに、国を統治する者達の個人的利益に従って行動する。この行動を道徳的に裁くことは、ビリヤ-ドやポ-カ-を行う賭博者を道徳的に裁くようなものである。皆がゲームの規則を用い、そこには利己主義や利他主義の概念が入る余地はない。それらの概念は意味を持たない。博愛的な者は一人もいない。
私達がせいぜいできることは、目前の利益に従って行動する国家と長期的な利益を考えられる国家を区別することくらいだ。前者は戦争を他の選択肢と同等にみなす。後者は常に戦争を最悪の解決法と捉える。結局のところ、政治的に正しい解決法などは決して存在しない。正しい解決法があれば、政治に頼らなくても自ずからそれが不可欠となるからだ。統治者が選択を迫られるのは悪い選択肢しかない時だ。どの選択肢が最もましな手段であるかを決めなくてはならない。そのため、偉大な人間とは名誉を追い求める人間ではなく、名誉という非常に主観的な感覚を持つ者だ。
近東は新たな爆発の前夜にある。アメリカはこの地域に大軍を集め、軍艦を派遣する。イスラエルは報復を望みシリアとイランを脅かす。いかなる火花も火薬に火をつけることはないだろう。しかし、個々の賭博者は口実を設けていつでも戦争を決定することができる。戦争が決まった地帯に限られるか、それとも世界の他の地域に拡大するか、確信もないままに戦争を始めることができる。どの国の政府も最悪の事態を避けようとするが、どの国の参謀本部も最悪の事態に備えている。
伝統的なゲ-ムの規則がもはや機能しないため、状況は一層触発の恐れがある。五カ国による世界総裁政府(安全保障理事会常任理事国のアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国)を生んだ列強の力の均衡の原則は死んだ。アメリカという唯一の大国が他の全ての国を合わせたよりも優越した軍事力を持つ。アメリカはこの立場を利用し、濫用し、国連を無視して全ての権利を不当に得る。
ジャック・シラクが2003年3月に述べたように、価値のある唯一の統治は法の統治である。また、2007年2月にウラジミ-ル・プーチンが強調したように、「世界の一極支配は正当ではなく、効果的ではなく、道徳的でもない」。米国一極支配を問題視することはアメリカを愛するか否か、親米か反米かという冷戦時代の時代遅れの語彙に従った考え方とは何の関係もない。「誰が戦争と平和を決めるのか?」「アメリカ国民は自分達の運命の主人であるか、それとも帝国主義の道具にすぎないのか?」という点を知ることは政治的な問題である。
フランスとロシアの大統領の言葉を引用したのはアメリカの帝国主義を拒否して他の国の帝国主義を支持するという意味ではない。ワシントンの覇権主義に対抗して軍事同盟を作っても平和を守ることにはならない。その逆である。単独で行動しても平和を守ることはできない。
世界的に見て、平和はアメリカの戦争機械を麻痺させることのできる複数の同盟を結び全ての国のエネルギ-調達を保証することによって構築されるだろう。地域的に見れば、全ての国の平等を実現することによって平和が構築されるだろう。私達の理想—私個人の理想であり私が率いるRéseau Voltaireの理想でもあるもの—は、臆面なき同盟関係ではなく個人の自由と相互尊重である。
これらを述べた後で、この本の構成について簡単に説明させて欲しい。
私はまず、主題の理解を妨げる公に認められたいくつかの概念を否定することから始める。そのため、メディアによる情報操作の3つのケ-スを取り上げ、誠実な記者が偽情報を本気で正しいと認め報道するプロセスを解剖する。これらの例により、読者は今後メディアによる操作に騙されないようになるだろう。この機会に読者は近東に関する全ての偏見を問題視してほしい。
私はレバノンに関する出来事の推移、ブッシュ大統領にシリアとレバノンへの攻撃を許すアメリカの法、安保理決議1559、元首相ラフィク・ハリリの暗殺、シリア軍の撤退、杉の革命などを描写する。
私の調査は、入手できる要素や、私自身が実現した対談、得られた証言に助けられ、これらの出来事についての再解釈を促した。その結果は、一般に認められている解釈とはあまりにも異なるため、読者はこの嘘の争点について疑問を呈するだろう。
そこで、私はイスラエル国家の設立とその正確な性質について分析しよう。近東についての私達の疑問はイスラエル建国を私達がどう捉えるかに関係があり、私達がこの国家とその政治システムとその国民を混同していることに基づくからだ。これは重要な点であり、それにより反ユダヤ主義、反シオニズム、反イスラエルの間の混同を除去することができる。
この根本的な点を理解してもらった上で、次章では近東の「再形成」と控えめに表現される支配計画を調べる。国々の抵抗を防ぐため、国家を分裂させるためにいかにして内戦が引き起こされ、いかにして新たな国境線が引かれるかを見てゆく。
最後に、これらの情報をもとに、2006年のイスラエルによるレバノン攻撃の間、実際には何が起きたのか、この悲劇が地域全体にいかなる影響をあ及ぼしたかを分析する。それにより、近東の状況が全く異なる様相を取って見えてくる。
この本を書いた私の目的は、読者に現在行われている政治・軍事ゲ-ムを理解するのに有用な鍵を与えることだった。ジャーナリストは自著の中で一つの立場を取ることはしない。それでも多くの著者が、テキストを通して遠回しに個人的見解を分泌させている。私は人々の見解の描写においてできるだけ客観的であろうと努めた。しかし、だからといって、受動的な語り手の立場に身を置いたわけではない。分析の間は中立であろうと努めたが、分析が終れば自分が見たことに対して無感動でいることはできなかった。私は、周囲の悲劇の数々を前にして私達は責任を持つと根本的に考えている。そうである以上、私は一つの立場を取ることになり、自分の立場を明確に述べる。
この本は西側社会の支配的利益に反する。大きな中傷を受けることを予想している。読者には、私の意見を共有するように要請しない。各自が批判精神と裁量の自由を持っている。反対意見を知るようにしてほしい。もっとも論拠を持たぬ辛辣な批判に怖気づくようなことがあってはならない。
意見が異なる人々と互いの結論について議論するのは大賛成だ。公の場での議論に招待されれば、時間の許す限り謹んでそれを受けよう。
プロロ-グ
今から7週間前、ベイル-トの大衆地区での出来事である。2006年9月28日のその日、ここは広大な遊歩道だ。トラックとブルド-ザ-は瓦礫を片付けた。巨大な爆弾の下に崩壊したビルのかわりに-急いで地ならしが成され-広漠な土地がそこにある。群集が道を急ぐ。警察によればその数は八十万人。あるいは百万人かもしれない。湾岸諸国からマグレブ地方まで、アラビア語のテレビチャンネルはほとんどが生中継で、数千万人の視聴者のためこの出来事を放送する。
招待客の座席が設置された。一方に政治家達、主要な党の幹部とその外国の客。もう片方に戦死した若い抵抗者達の家族。その前の演台では弁士と芸人が次々に現れ、公衆を辛抱させている。
まもなく、首に賞金が懸かった男がそこに現れるだろう。彼を捕え殺害するために始められた戦争は無駄に終った。イスラエルの爆撃機が死を撒きに来て以来、彼を見た者はいない。彼は、自分が打ち破った者達に挑戦するために来る。一人の狙撃者だけで、あるいは海上のフリゲ-ト艦や航空機からのミサイル一発だけで彼を除去することができるだろう。
突然、数十機の戦闘機が地中海を越えてレバノン領空に展開した。戦闘機は防御態勢を形成し、どこからともなく演説台に上る一人の男を守る。力強い歓声がヒズボラの軍歌を歌う。ワシントンとテルアビブでは、ターバンを巻いたこの男を見て悔しがる。アラブ人の近代最初の勝利を勝ち取り、フランスの二枚舌を利用して「帝国」を馬鹿にしようとするこの男。
抵抗運動の指導者ハッサン・ナスララは遮蔽ガラスの向こう側から群集に挨拶する。そして、自国民と声を合わせて国家を歌い始める。解放された祖国の色の風船が放たれる。一時間後、彼は自分がこの戦争の犠牲によって自国に敬意を表したこと、一つの軍隊ではなく、50年前からこの地域に死を撒き散らす一つのイデオロギ-、すなわちシオニズムに対して戦ったことを宣言する。彼は、兵士たちの勝利をレバノン国民全員に提供すると言う。群集は拍手喝采し、歌う。
演説が終るとボディガ-ド達が彼の前に立ちはだかる。ハッサン・ナスララは秘密の場所へと姿を消す。パリでは空の防衛隊へ撤退命令を出す。フランスの戦闘機は撤退し、ル-マニアを訪問中のジャック・シラクは作戦終了の情報を受け取り、微笑む。
偽情報で世論を操作する
プロパガンダの諸原則
私達が戦争を知るのはマスメディアを介してである。しかし、リポ-タ-の映像や生中継のコメントにも関わらず、私達には戦場が見えない。私達が見るのはその表象だけだ。事実でなく、戦場の表象に従って私達は自己の判断を形成する。そのため、メディアの表象そのものが第二の戦場となり、そこでは同じ首謀者達が世論を征服するために衝突し合う。
レバノンに対する戦争を始めるためには、国を暴力の中に陥れる目的の不安定化だけでは十分ではない。世界の世論に爆撃と死を容認させる、あるいは望ませるために、世論を不安定化する必要がある。
通信社の機能やジャ-ナリストの職業倫理について議論するつもりではない。近代のコミュニケ-ションの技巧の発展を嘆くのでもない。これは軍事的現実なのだ。マスメディアを通じて偽情報による世論操作を行うのは戦争技法の一つの側面だ。今では全ての国の軍隊が心理戦争のための特別部隊を備えている。
敵を憎むべき犯罪の犯人にしたてあげ、それに世論を敵対させることや、敵国民に彼らの指導者の失敗を伝えて士気を失わせることは新しいことではない。しかし、近代の通信手段は特に情報伝達に欠落があり、記者を操作することが前よりも容易になった。嘘を伝えるため本職の記者を買収する必要はもはやない。
この目的でアメリカ、イギリス、イスラエルは彼らの軍隊の内部に特別部隊を設けた。これらの部隊は彼らの活動を互いに調整するよう養成された。この組織は偽のニュ-スを急速に広い地域へ広める能力を持つ。この作業によりニュ-スは確認ではなく解説(コメント)の対象となる。このシステムは「情報の騒音」を作り、人々の注意を非重要な主題へ引き付け、批判精神を無力化する。また反対意見が人々に見えないようにする。反対意見の発言者を妨害したり信用を失わせたり、疎外したり、除去したりすることでそれが行われる。
偽情報普及はニュ-ス専門チャンネルの発展により技術的に容易になった。この種のメディアの出現が、1989年のティミショアラの演出を可能にした。アメリカのテレビ局CNNは手足を切られた死体を見せて、チャウシェスク政権で拷問を受けた犠牲者の死体置き場にあったものとして提示した。実際は死体公示所にあった死体であり、検死がすでになされたものもあった。映像伝達の即時性だけでその解釈を信用させるのに十分なのだ。かつてはこの速さが映像の偽造の不在の保証だと言われた。実際は、その速さが映像の解釈の操作を容易にしていたことがわかる。それ以来、心理戦争局はスク-プの誘惑とメディア間の競り上げを利用し、メディアに作り話を提供し、記者がニュ-スの真偽を確認せず報じるようにすることができるようになった。経済システムのせいで、記者は急いで仕事をしなくてはならない。情報は事件の絶えざる連続となり-新たな情報は前の情報を追放し-理解の容易さを失う。
この情報の喧騒を管理するため、アメリカの心理戦争専門家は「3D―2Sの規則」と呼ばれるものを用いる。
3D
Delay 邪魔な情報を、その重要性が失われるまで差し止める。
Distract 非重要な主題によって注意をそらす。
Discredit 制御不可能な情報源を中傷する。
2S
Spotlight 重要ではない細事に議論を集中させる。
Scapegoat 下役やスケ-プゴ-トに責任を負わせる。
イラク攻撃の際、アメリカ・イギリス・イスラエルは彼らの特別軍事部隊を国連の監視団に潜入させた。特別部隊は根拠のない報告を書き偽の目撃者をメディアと接触させた。これをノ-ベル賞作家ジョゼ・サラマーゴは「嘘の国際同盟」と呼んだ。
アメリカでは、国防省にアブラムス・シュルスキ-が設置した特別計画局(Office of Special Plans)の存在が2002年1月、ワシントンタイムズ紙で語られた。(“U.S. seeks al Qaeda link to Iraq”,Rowan Scarborough, Washington TImes , 2002年1月14日。”Pentagon Sets Up Intelligence Unit ”,Eric Schmitt and Tom Schanker, New York Times,2002年10月24日も参照。 )この機関の詳細はシ-モア・ハ-シュにより、ニュ-ヨ-カ-紙の華々しい記事で暴露された。(« Selective Intelligence »by Seymour M. Hersh, The New Yorker, 2003年5月12日) 退役将校のカレン・クイアトコウスキがその情報を確証し補足した。(« Career Officer Does Eye-Opening Stint Inside Pentagon »by Karen Kwiatkowski, Beacon Journal, 2003年7月31日、”Pentagon Office Home to Neo-Con Network”by Jim Lobe, Inter Press Service, 2003年8月7日)彼女の同僚のジョン・J・コカルが2003年11月14日に奇妙な状況で死亡しているのが発見された。コカルは記者に会う準備をしているところだった。2003年半ば、メディアの好奇心から逃れるため、特別計画局はペルシャ湾北部対策局(Nothern Gulf Affairs Office)と名を変え、その主な活動は戦略軍(核・宇宙問題監査担当)に移された。戦略軍は5つの軍(空軍、海軍、陸軍、海兵隊、特殊作戦軍)の内部にプロパガンダ局を設立した。
イギリスでは国防省のロッキンガム委員会の存在が1998年1月21日に初めて庶民院国防委員会の公聴会で予備軍長官のリチャ-ド・ホ-ムズ上等兵によって語られた。元閣僚のマイケル・ミ-チャ-も、この機関が米国防省の特別計画局に相当するものであり、国連の軍縮監視員を操作し回避的な報告書を作ったと述べた。(« The very secret service »by Michael Meacher, The Guardian, 2003年11月20日)ロッキンガム委員会については、UNSCOM(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)の元査察官スコット・リッタ-がエジンバラのサンデ―ヘラルド紙の記者ニ-ル・マッケーにその存在を認めた。(« Blair’s secret weapon »by Neil MacKay, The Sunday Herald, Edimbourg, 2003年6月6日)ついでハットン卿の調査委員会がその存在を証明した。国防省の専門家デヴィッド・ケリ-博士が2003年7月17日に謎の死を遂げた。彼はBBCにロッキンガム委員会の活動について話す準備をしていた。
イスラエルでは、これに相当する機関について、2003年11月に発表された記事の中で元安全保障補佐官のシュロモ・ブロムが述べている(詳細は明かされなかった)。(« The War in Iraq : An Intelligence Failure ? » by Schlomo Brom, Strategic Assement, 2003年11月)これを知ったイスラエル国会では大きな動揺が起きた。この機関の活動の費用も、後に行われるイラク秩序維持委員会への援助と同様、90億ドルの銀行保証の形でアメリカが支給した。(2003年11月24日のエルサレム・ポスト参照)
この国際軍事装置が、イラク攻撃に同意させるため世論を操作した。その活動は三つの主要な嘘に集中した。
---サダム・フセインはライバルを殺し反対勢力を過酷に弾圧する東洋の単なる独裁者ではなく、サディストであり、人道に対する罪を犯している。
---サダム・フセインは自由な世界を破壊しようという固定観念を持ち、北朝鮮やイランと秘密の軍事協定を結んだらしい。ウサマ・ビンラディンの率いる世界的なイスラム主義者の陰謀を支持したという。
---サダム・フセインは西側世界を45分以内に攻撃できるミサイル発射装置を含め大量破壊兵器を保有するらしい—国連の査察団には隠しているが--。そのためイラクの脅威は一層深刻であろう。
この三つの論拠は今日ではグロテスクに見えるが、国連の安全保障理事会では真剣そのものにコリン・パウエル将軍によって提示された。これらの嘘が軍事介入を正当化し、すでに65万人の人間の生命がそのために奪われた(最も評価の高い統計学者の出した数字)。
この同じ世論操作の装置が、レバノンに対する戦争、またシリアとイランに対する戦争へ大衆を賛同させるために起動された。
三つの主要な嘘
---ヒズボラはイスラエル占領に対する人民抵抗運動ではなく、テロ集団である。シリアはパレスチナ、レバノン、イラクの抵抗運動の後方基地ではなくテロ国家であり、政治的暗殺を実践し、元レバノン首相ラフィク・ハリリもシリアが暗殺した。イランは民主国家ではない。なぜならこの国はショア-を否認しイスラエルを地図から消すこを望む狂信者に統治されているからだ。このメッセ-ジは「アフマディネジャ-ド=ヒットラ-」というスロ-ガンに要約される。
---イランの推進力で西側諸国に敵対する軍事同盟が形成された。この同盟はイラク南部、シリア、レバノンを含む。このメッセ-ジは「シ-ア派三日月地帯」に要約される。
---イランは原子爆弾を保有しようとしており、それを国際原子力機関に隠しているため、シ-ア派の脅威は一層深刻である。このメッセ-ジは「イランの脅威」に要約される。
これらは冗言のように見えるが、今も機能し続けている。
以下で説明するように、この機会に情報操作軍事部隊がレバノンのハリリ—ジュンブラット派、ロンドンで最近作られたシリア国民救済戦線、ワシントンのイラン人亡命者からなるムジャヒディンを演出する。
ところが、情報操作システムがいかに強力で精巧なものであろうと、それが完全に勝利することはできない。各個人は批判精神を持っており、その能力を用いることで常に嘘から身を守ることができる。
2006年11月、Réseau Voltaireは国際会議Axis for Peace(平和の枢軸)を開いた。帝国主義反対を唱える人々が集まった。37カ国から集まった50人の参加者は特にこの問題について議論を行った。責任者の立場にある政治家、外交家、軍人、記者、活動家からなる参加者の中でドイツの元国会議員アンドレアス・フォン・ビュ-ロ-は「嘘の国際同盟」に対する自由精神の対応を以下のように述べた。「アメリカは巨大な兵器庫を持つため、非友好的な国、強情な国、中立国、さらにはアメリカの同盟国に対してさえ、アメリカの政策に従わせるように強制することができます。特に民主国家では戦争の人気は低いため、軍隊がアメリカの兵器庫で最も重要な武器だと考えてはいけません。今日、最も重要な道具はメディア操作です。米国防省は偽情報普及と世論操作のために6億5千5百万ドルの予算を与えられています。操作の対象はアメリカの戦争政策に従うことに乗り気ではない同盟国の世論です。陰謀はCIAの専売特許ではなくなりました。今では米国防省は、メディアを、さらにメディアを介して公衆を操作するためテロを含めた秘密の作戦を行うことを議会から許可されています。テロ防止政策においてアメリカを援助することの重要性を世界中が納得するためです。出版社を買収し、記者や大学教授を抱きこむためのカネが存在します。
私達が直面する環境では真実だけが戦争の犠牲者ではありません。大衆、メディア、国連総会は政府による純粋な嘘や捏造資料を強制的に与えられます。それらの証拠が偽物だと知っているCIA専門家の抗議を引き起こすことさえあります。この日常的なプロパガンダに直面し、情報に均衡を与えるために、私達は写真、ビデオ。電子メ-ル、声や電話の記録、さらには翻訳が人々を支配し覇権国の政策に従わせるために捏造された可能性があることを理解しなければなりません。
ペンタゴン、CIA、モサドと彼らの衛星がメディアに対して行う心理作戦を破壊することが私達の今後の最も重要な任務です。奇妙に見えるかもしれませんが、メディアで毎日のようにアルカイダ、ビンラディンあるいはザルカウイが引き合いに出されるのに対して、“犯罪で得をするのは誰か?”としつこく問うと、しばしば公式の偽情報とは反対の観点から物事が見えてきます。私達はプロパガンダ作戦を見つけ出すために、触れることができ、確認することができる証拠の獲得に固執するべきです。ネット上の告白や、ビデオや録音資料、拷問によって得られた証拠などは、確認可能な要素の裏づけがない限り信頼性はありません。」
私達は早速この方法を実践し、ヒズボラが国際テロリズムに属するという偏見に疑問を呈することにしよう。
ヒズボラを告発する
一つのイメ-ジが今もなおヒズボラを1983年の仏米兵士に対するテロと1985年の記者人質事件(ミシェル・スラとジャン=ポ-ル・コフマンが人質になった)に結びつけている。しかし、それは誤りである。これらの行為はシ-ア派戦士によって実行されたが、彼らはヒズボラのメンバ-として行動したわけではない。当時ヒズボラはまだ正式に形成されていなかった上、抵抗運動は紛争を拡大しないよう細心の注意を払っていた。この不確かな記憶に、一つのアナクロニズムも加わる。世界の大衆は中東の時事問題を注意深く見守ることはないため、内戦の時代と現在の時期を混同する。ヒズボラが政党になった時、公衆は1980年の恐ろしい事件(ヒズボラの活動家達も被害を被った)と21世紀初頭の政治状況を重ねる。この混同は外国のテロをヒズボラのせいにし、レバノンの人民抵抗運動を国際テロ集団として提示するために利用される。
アルゼンチンの最高裁判所は、1992年と1994年に起きたブエノスアイレスのテロの犯人がイスラム教徒であるという仮定を棄却し、イスラエルの犯行であるという説を採った。情勢を変えるため、新保守主義者がこの陰謀を計画したという。ブエノスアイレスの2人の高等司法官が参加した2006年5月ワシントンでの会合の後、政府と司法部に強い圧力がかけられた。それに応じて、オスカ-・アブデュラ・ビニに率いられたアルゼンチン市民グル-プがブエノスアイレスの大審裁判所にアメリカユダヤ人委員会(AJC : American Jewish Committee)と、検事のニスマン・ブルゴスとマルティネス・ブルゴスを起訴した。
オスカ-・アブデュラ・ビニはアルゼンチンの公衆によく知られている。カルロス・メネム大統領は精神科医ビニの患者であった妻に薬を過剰摂取させて中毒させるよう頼んだ。ビニは大統領の悪徳警官から患者を守った。
アメリカユダヤ委員会は1917年のロシア革命の直後に作られ、当初は反共産主義協会だった。雑誌「コメンタリ-」(Commentary)を出版し、これはワシントンの政権のネオコンの論理のプロパガンダ紙となる。(Commentary Magazine : A Journal of Significant Thought and Opinion : 1945-1959, by Nathan Abrams, preface of Edward Lullwak, Vallentine Mitchell & Co Ltd, 2005)この団体はユダヤ人社会の内部で活動する偏向的組織であり、ユダヤ人社会を代表する組織ではない。過度の行動と世論操作は彼らの習慣である。
アメリカユダヤ委員会とオスカ-・アブデュラ・ビニの間の論争の争点を理解するためにブエノスアイレスのテロを振り返ってみよう。
1992年3月17日、激しい爆発によりイスラエル大使館が破壊され、隣のカトリック教会と小学校が大きな損傷を受けた。このテロで29人が死亡し、242人が負傷した。
最初、捜査員はイスラム教徒が犯人であると考えた。テロはパレスチナ人の自爆テロリストの犯行であるとされた。犯人はトラック爆弾を用いた。イスラム主義ジハ-ドに属し、イスラエルによるヒズボラ指導者シェイク・アッバス・アル=ムサウィとその家族の暗殺に対する復讐を望んだという。パキスタン人のグル-プとイラン大使館の文化担当官モシェン・ラバニがこの作戦の計画を立てたという。ラバニはドイツで取り調べを受け、証拠不十分で釈放された。
1994年7月18日、第二の爆発でアルゼンチンイスラエル共済協会(AMIA)の建物が破壊され、85人が死亡し、300人以上の負傷者が出た。
最初は、捜査員はこの事件でもイスラム教徒が犯人であると考えた。テロは29歳のイブラヒム・フセイン・ベロによって実行されたという。ベロが自動車爆弾を運転した。数年後、ヒズボラのメンバ-であるイマド・ムグニエに対する逮捕状が出された。アルゼンチンの元イラン大使ハディ・ソレイマンプ-ルはイギリスで取り調べを受けたが証拠不十分で釈放された。
決定的な結論に見えるこれら全ての要素が、何年も前から全ての百科事典に繰り返し書かれている。しかし、いかなる判決もこれらが正しいとは認めていない。それ以下である。捜査官はイスラエル人とアメリカ人が彼らにささやいた説を徐々に壊してゆき、全く反対の仮定に到った。二つのテロは、アルゼンチンのユダヤ人社会の反シオニズムを破壊するためにイスラエルの諜報員が行ったというものだ。
捜査官のあいまいな態度は、政府設立と蜂起が繰り返すアルゼンチンの波乱に富んだ政治状況から説明できる。現在まで、この二つの事件のどちらにおいても、決定的な判決が行われていない。そのため各自が手続きの矛盾した行為を準拠として都合の良い結論を引き出すことができる。
第一のテロの調査を担当した予審判事アルフレド・ホラシオ・ビソルディは2002年3月5日に国会の調査委員会で証言した。彼は驚くべき事実を明かした。
ビソルディ判事によれば、メニ・バッタグリア警視が大使館に対するテロの捜査の責任者だった。彼は非公式に、近東でこの種のテロに関して長い経験を持つと主張する米大使館のグリ-ンベレ-とイスラエル大使館警備責任者ロニー・ゴルニ-に補佐されていた。この「専門家達」の意見に従い、警視は直ちに自動車爆弾の説を採用しフォード小型トラック100のエンジンの一部を発見したと記載した。
犠牲者の正確なリストを作ることは不可能だった。なぜなら、不思議なことに、信用されたイスラエル外交官のリストは大使館の現実の職員と一致しなかったからだ(そして、それについては説明されなかった)。バッタグリア警視は検死を望むビソルディ判事に反対し、検死をしても新しい要素は得られないと主張した。判事が固執すると、アルゼンチンの大ラビが、ユダヤ人の犠牲者の検死は冒涜行為にあたるという理由を挙げて反対した。最終的に検死は全く行われなかった。
司法官は二つの点について疑問を持った。なぜ大使館が空になるのを待って攻撃したのか?数時間前には盛大に百人ほどのユダヤ人の重要人物を迎えていたにも関わらず。なぜ自爆テロリストを使ったのか?小型トラックを大使館にぶつけるのに、その必要はなかっただろうに。
強制的に与えられた説にますます疑いを表明した司法官は情報局(SIDE)副長官の訪問を受けた。ジェラルド・コンテ・グランドは彼を諭す任務を与えられていた。
この訪問でますます疑いを深めた司法官は重要証人の尋問の際、不意に警察署を訪れた。テロ直前に空港へイスラム教徒の集団を運んだことを認めたタクシ-の運転手である。イスラム教徒達は運転手に、この地区が地獄のようになる前に早く離れるべきだと言ったという。ビソルディ判事自身が尋問を行った。タクシ-運転手は判事を警官と同じくらい愛想が良い相手だと信じた。タクシー運転手は自分の身分を述べることは拒否し、自分が「イスラエルの人間」であると自己紹介した。イスラエル軍の大佐であり、六日戦争で戦ったと主張した。
第二の捜査に関する要素も同じくらい教訓的である。本物とされる偽のイスラエル警官がアルゼンチンの警察署や刑務所を自分の家のように歩き回り、証人に圧力をかけて手続きの枠外で尋問を行っている。アルゼンチンの法廷で説明するよう求めると、この人物は突然姿を消した。イスラエル政府はこの人物の存在を否定した後で、最終的に彼を雇っていることを認めたが、彼の尋問には反対した。
信憑性のない点が多く非合法の行為がたびたび行われたため、アルゼンチンの法廷は立ち入り禁止にして様々な書類を調べた。法廷は、最初に認められた説とは逆に、自爆テロリストが運転していた自動車爆弾などは存在せず、大使館のテロにおいても、アルゼンチンイスラエル共済協会のテロにおいても、爆発物は建物内部に仕掛けられていたことを示す科学的調査を有効と認めた。
自動車の由来や運転手について言われたことは全て無効とされた。
公聴会の翌日、ブエノスアイレスのイスラエル大使館のスポ-クスマンはこの結論を嘆き、「最高裁判所の判事達は反ユダヤ主義者だ」と非難した。この非難は滑稽である。イスラエルの政治が批判されるたび、反ユダヤ主義批判で表面が修復される。
この事件を完全に解明するには、アルゼンチンの司法機関がさらなる独立性と忍耐を持つことが必要だろう。しかし、この問題についても多くのことが言える。
まず第一に、テロが自爆自動車ではなく建物に爆弾を仕掛けて行われたことに気づくまで10年もかかるのはおかしい。
また、ブエノスアイレスのテロでの嫌疑に基づいて「国際テロリズム」に関するあらゆる理論を立てた専門家達がこの嫌疑が嘘だと分かった後も自分達の記述を訂正することは稀である。
「イスラム教徒のテロリズム」へ嫌疑をかけた大きなテロ(ブエノスアイレス、ニュ-ヨ-ク、バリ、カサブランカ、マドリッド、ロンドンのテロ)に関する司法捜査は相変わらず未完成であることを確認せざるを得ない。調査が未完成でもネオコン政府と彼らの「専門家」はそこから一般的結論を引き出すことができるからだ。
アメリカは自分達が犠牲になったテロの犯人を後になって変える習慣がある。それにより、その時代の真の、あるいは偽の敵を告発することができるからだ。9.11テロの場合にもそれが見られた。最初にウサマ・ビンラディン、ついでサダム・フセイン、そしてイランの関わりが主張された。
アメリカは今では、他国の歴史まで書き換えようと計画している。
アメリカユダヤ委員会(AJC)は2006年8月14日、CNNとFox Newsでヒズボラがレバノン抵抗運動の政党ではなく国際テロ組織でありアメリカの脅威であるという2週間の広告キャンペ-ンを開始した。AJCはその中でブエノスアイレスのテロを例に挙げている。
ヒズボラに対して行われた世論操作の手段は、ヒズボラのテレビチャンネルに対して一層強く用いられた。
抵抗の声を黙らせる
プロパガンダの不変原則はこれだ。嘘が真実に見えるように、反対者のいかなる声も嘘に反することを言わないようにし、倦むことなく嘘を繰り返すこと。そのため、イスラエルは正当防衛を理由にパレスチナ占領地域とレバノンへの攻撃を開始する前に、レバノン南部、シリアのゴラン高原、パレスチナの占領に対する抵抗運動のテレビチャンネル、アルマナールがヨーロッパ、アメリカ、オセアニアに達することがないようにした。
この検閲に関わった多くの行為者はその結果が悲劇的なものになると予想していなかった可能性がある。とはいえ、皆が矛盾した議論を妨害しイスラエルの嘘を助けた。ゆえに、全ての人間が、彼らが可能にした罪について責任がある。
また、検閲の歴史は、フランスと世界におけるイスラエル軍の圧力行使の手段について私達に多くのことを教えてくれる。
憶えておくべきことは、アルマナ-ルが1991年にヒズボラによって作られたテレビ局であり、2000年から衛星放送されているということだ。主にイスラエル軍の占領に関するニュ-スやシリ-ズ番組を、時々娯楽番組を交えながら提供する。
イスラエルとアメリカだけでなく、カナダ、オランダもヒズボラを「テロ組織」すなわち国家ではない敵とみなす。フランスとフランスに親しい国々はヒズボラと礼儀正しい関係を保っている。ヒズボラの正確な役割については後で触れる。今は、ヒズボラがレバノン民主制において主要な政党であるということだけを述べておこう。
アルマナ-ルはメディアであるにも関わらず、あるいはむしろ、メディアであるという事実のために、イスラエル政府とアメリカ政府の執拗な攻撃の的になった。
敵対関係は2003年5月3日、シリアを公式訪問した国務長官コリン・パウエルが記者会見にアルマナ-ルが参加することを拒否した時に始まった(« La TV du Hezbollah indésirable au point presse de Powell », Reuters,2003年10月29日)。同じ年の10月、アメリカの国務省はシリアとレバノンに対し、アルマナ-ルのシリ-ズ番組Al Chata(ディアスポラ)放映の予告について抗議を表明した。その理由は、この番組がイスラエル国家建国の誤った説を提示し、反ユダヤ主義を活発化するだろうからというものだった(« Un documentaire de la TV du Hezbollah accusé d’antisémitisme », Karim Marouni, Reuter, 2003年10月29日)。これらの圧力を考慮せず、アルマナ-ルはラマダンの間この番組を放映した。しかし、他のテレビ局はこれを再放送することを諦めた(« Un feuilleton d’Al-Manar TV accusé d’antisémitisme », Le Monde, 2003年12月6日)。最終的に、アルマナールはこの番組の放送を中止した。
すると、中東報道研究機関(MEMRI : Middle East Media Research Institute)はアルマナ-ルを禁止するためキャンペ-ンを始めた。MEMRIはワシントンを拠点とする強力なロビ-である。市民の主導権で作られた機関として提示され、議会や合衆国の通信社のためにアラビア語新聞の記事を無料で翻訳する。しかし彼らが選択する記事は偏向的であり、アラブ人指導者の信用を失わせる目的を持つ。実際は、この機関は1998年にイスラエル軍情報局の将校ヨタム・フェルドナ-とアルマ・ソルニックによって、イ-ガル・カルモン大佐の指揮下で設立された。中東フォ-ラムと自由なレバノンのための米国委員会(US Committee for a Free Lebanon)の責任者の一人はこの機関に雇われている。この人物については後に触れる。(« Selective MEMRI » Brian Whitaker, The Guardian,
2002年8月12日)
このキャンペ-ンを引き継ぐかたちで、フランスユダヤ人団体代表評議会(CRIF)が視聴覚最高評議会(CSA)に提訴を行った(« 2 décembre 2003 : le CRIF écrit au CSA au sujet des programmes d’Al-Manar », Lettre du CSA, No.179、2004年12月)。CSAはフランスの視聴覚分野を規制する任務を持つ、自称「独立行政機関」である。カーライルグル-プの元フランス代表、ドミニク・ボディが責任者を務める。
世界ナンバ-ワンのポ-トフォリオ管理会社であるカ-ライル・グル-プは世界の政治エリ-ト階層の集まりである。元国防長官のフランク・カ-ルッチに指揮されるこの会社の役員にはジョ-ジ・ブッシュ父、ビンラディン家、アメリカ人投機家のジョ-ジ・ソロス、ロシアの寡頭政治家ミハイル・コドルコフスキ-あるいは元イギリス首相のジョン・メ-ジャ-などが名を連ねる。元幹部の一人ブッシュJrが大統領になったことを利用し、グル-プは自社の利害に従いアメリカの対外政策に影響を及ぼす。コネクションを濫用し、投資の年率回収率30%を実現している。インサイダ-や汚職の事件で定期的に起訴される危険を冒している。メキシコの週刊誌Procesoがカーライル・グル-プについて私が行った調査を発表して以来、グル-プはビンラディン家と関係を絶ったと主張している。
ドミニク・ボディはカーライル・グル-プとのコネクションとCSA代表としての立場を混同しているようだ。『恐ろしい欺瞞』が出版された時、この本の一章がカーライル・グル-プについての調査に基づいて書かれていたため、彼の協力者はフランスの主要なラジオとテレビの責任者を執拗に攻撃し、私に発言権を与えないように説得した。ボディは地位を濫用し、フランス・テレビジョン社長に個人的に手紙を書き、検閲を認めた(La lettre du CSA no.151, 2002年4月23日)。
アルマナ-ルの話に戻ろう。通信社への新年挨拶の儀式の際、ボディは共和国検事に提訴し彼の目に「憎しみと暴力を扇動する」罪を犯しているアルマナ-ルの放送を妨害する手段を決定するためEutelsatの取締役会議長との面会を求めた(« Le CSA veut empêcher la diffusion d’Al-Manar », Reuters ; « CSA- M.Baudis dénonce la diffusion par satellite de « propos intolérables » »AFP,2004年1月20日)。
一週間後、イスラエルは「反ユダヤ主義防止国民デ-」を祝う。「反ユダヤ主義防止国民デ-」は政府によってアウシュビッツ殲滅収容所解放記念日の1月27日に決められた。この機会に参謀総長モシェ・ヤ-ロン将軍は宣言する。「アウシュビッツ解放後60年が経った今日もなお、反ユダヤ主義は姿と戦略を変えてユダヤ人の生命を脅かしている」彼はナタン・シャランスキ-と共に、参謀総長が作ったアルマナ-ルのシリ-ズ番組の抜粋の試写を企画した(« Israël dénonce une résurgence de l’antisémitisme » by Marius Schattner, AFP, 2004年1月27日参謀総長のモンタ-ジュビデオは2004年のDVDBeacon
of hatred : inside Hizballah’s Al-Manar television とワシントン近東政策研究所による転写本出版の基礎となった)。シャランスキ-はイスラエルの副首相とアメリカ大統領補佐官の地位を兼任している。彼はアメリカ大統領の演説の原稿を書くこともある。
イスラエルの軍のラジオはイスラエルがアルマナ-ルを欧州各地で禁止させるため様々な活動を開始したと発表し、CRIFの求めに応じたCSAのイニシアチブはこのキャンペ-ンの最初の成果であると述べた。この発言はイスラエル外務省によって確証された(« Israël veut l’interdiction de diffusion de la TV du Hezbollah en Europe »,AFP,2004年1月30日)。
2004年1月31日フランス首相ジャン=ピエ-ル・ラファラン(UMP :国民運動連合)は毎年恒例のCRIF晩餐会の場で、司法省不動産計画担当補佐官でありCRIFの顧問でもあるニコル・ゲ-ジと共に、イスラエル軍が作ったビデオカセットを試写したと述べた。ラファランは、アルマナ-ルの刑法に基づいた有罪判決を待たずにCSAと国務院がその放送を禁止できるように法制を変えるつもりだと述べ、聴衆を喜ばせた(« Le gouvernement va interdire les chaînes par satellite diffusant des programmes antisémites », Associated Press, 2004年1月31日)。首相の性急な行動は、アルマナ-ル非難が根拠を欠いており、刑事司法はこれを罰することはないという確信から来ているとしか説明できない。ラファランは自分を招待した人々を満足させるため、例外法を導入するほうを選んだ。
新たな措置は視聴覚機関に関する法律の中に急いで挿入され、国民議会と上院で承認され、7月10日に官報で発表された。その二日後にCSAは国務院に対し行政行為としての禁止を宣言した。この手続きについて質問を受けた外務省代弁者は「いかなる者も人種差別と反ユダヤ主義の表明を防止しようとするフランスの決意を疑ってはならない」と宣言する。そう言うことで、彼はCSAの独立が何を意味するかを垣間見せた(2004年7月28日の外務省記者会見)。
この告白に唖然としたレバノン視聴覚国民評議会は-レバノンの全ての政治家もこれに続いた-フランスに表現の自由を尊重するように呼びかけた(« Soutien de l’audiovisuel libanais à la TV Du Hezbollah », AFP, 2004年7月30日)。レバノンの評議会はまた、全てのアラビア語メディアに、8月12日にアルマナ-ルへの連帯を表明するよう求めた(« Journée de solidarité le 12 août avec la TV du Hezbollah », AFP, 2004年8月2日)。レバノン外務大臣ジャン・オベイドはこの係争についてメディアにこう述べた。「フランス司法に介入したくはないがこの事件には政治的側面が大きく支配していると思う。(……)イスラエル人やユダヤ人が犯した歴史上の不正行為を批判するたびに、それはユダヤ民族全体やユダヤ教への批判として受け取られる。」レバノン大統領エミ-ル・ラフ-ドその人が厳粛な声明を発表した。「アルマナ-ルに対するいかなる措置もレバノンのメディアへの損害となり、レバノンのメディアの視点をフランスや欧州の世論にもたらすことを妨げることになる。レバノンの衛星放送を通じて欧州の人々はアラブ人の大義の正当性を理解しイスラエルの侵略行為を告発し始めていた。」(2004年8月12日レバノン大統領声明)
論争のこの段階で、イスラエル参謀総長が作った番組の抜粋のビデオは欺瞞的であることが明白である。文脈から切り離された場面の数々は一見、ラファラン首相の言うように「見るに耐えない」。しかし番組の流れにおいては、それらの場面は風刺的であり、アングロサクソン系のシリ-ズ番組の多くの場面に比較できる-貶めている相手が同じ民族ではないという違いを除けば。このシリ-ズ番組がアルマナ-ルの他の番組よりはレベルが低いことが残念だと言うことはできる。しかし、アルマナ-ルが放送を中止した以上、禁止する口実に確固とした基盤を与えない。ラフ-ド大統領による非難が正しかったことは以下に引用するAFPの速報で確かめられた。「シリ-ズ番組以外にも、フランス当局はアルマナ-ルがイスラエル国家への政治的活動という口実でテロを擁護することを非難する。CSAの情報源によればイスラエル人を殺すために自爆する殉教者のイメ-ジを優遇する編集方針を持ちテロ犯人の葬儀を好意的に放映したり好戦的な歌や動画を流す。」(« Al-Manar, chaîne ennemi d’Israël qui verse aussi dans l’antisémitisme », AFP, 2004年8月20日)要するに、真の争点はただ1つ、欧州の公衆はレバノン人の視点を知ることができるかということである。
フランス当局の弁護をすれば、近東の公衆を対象として作られ、近東の人々にとっては明確な解読が可能な映像は、欧州の公衆には間違って解釈される可能性もあるだろう。欧州に近東の紛争を持ち込むことにも貢献するかもしれない。この問題はアルマナ-ルだけに特有ではなく、紛争地帯で作られた映像全てに存在する。この問題は、検閲ではなく、衛星チャンネルの世界化にあわせて視聴者を教育することによってのみ解決しうる。
表現の自由がアラブ人に適用される時、それを擁護する機関は少ない。Réseau Voltaireはレバノンに代表団を送りアルマナ-ル支持を示し、ヒズボラの副書記長シェイク・ナイム・カッセムに面会した。
予期に反して、フランス国務院はアルマナ-ルにフランスの新法に従うよう求めただけだった。アルマナ-ルは協定加入の書類をCSA提出した。CSAは拒否する理由がないので認可せざるを得なかった。CRIFはこれを大変遺憾に思った。そして、「首相の約束」を喚起し、CSAと行政判事の「独立性」についての敬意を表明しながら怒鳴り散らした。無意志的なユ-モアで、CRIFは「外国の圧力」を非難している(« Feu vert à Al-Manar : le CRIF dénonce des « pressions»étrangères »,AFP, 2004年11月22日 )。
国際協定に従い、フランスのCSAの放送許可の決定は欧州連合全体で適用される。
社会党の元首相ロラン・ファビウスが戦いに加わる。彼はラジオJ(「統一ユダヤ社会基金」が作ったラジオ局でCRIFの建物に所在)に出演し、「腹を立てている」と述べ、ラファラン政府の「二枚舌」に憤慨し、彼もまたCSAの「独立性」に対する高い観念を表明した(« France/Al-Manar : Fabius demande des explications au gouvernement)。
怒ったCRIFは新たな声明を発表する。「CSAがヒズボラのテレビ局アルマナ-ルと契約を結ぶ決定をしたことは、反ユダヤ主義プロパガンダをフランスが公式に許可したことと同じだ。各省間反ユダヤ主義防止委員会がまだ意味を持つならば、今こそ緊急会議を行うべきである。CSAが作り出したこの状況について共和国大統領の立場を知りたい。」(« Al-Manar : déclaration du Président du CRIF Roger Cukierman »,CRIF,2004年11月23日)社会党は有利な立場にある。社会党はアルマナ-ルを「テロと反ユダヤ主義のためのプロパガンダの道具」と形容する。党首のフランソワ・オランドはCSAに手紙を書く。「子供達を憎しみと殉教へ扇動する動画を何時間も繰り返し放送するヒズボラのチャンネルが、欧州連合の基盤となる諸価値と相容れない美辞麗句を伝えるために作られた彼らのプログラムを徹底的に完全に見直すだろうということがどうして想像できるでしょうか?」(« Al-Manar : M.Hollande demande des
éclaircissements au CSA », AFP, 2004年11月26日)またサイモン・ウイ-ゼンタ-ル・センタ-はその名高い測量感覚で、次のように主張した。「CSAと他の公職者はヒズボラに新たな殺人許可を与えた(……)彼らはそこから生じうる全ての暴力的な結果の共同責任者である。」(Protestation de plusieurs associations au feu vert donné à Al-Manar »,AFP,2004年11月23日)
社会党スポ-クスマンのジュリアン・ドレは、CSAの決定はイラクのフランス人捕虜の解放に関する交渉の枠組みで成されたかもしれないと当てこすりを言った。このアマルガムはすぐに全ての通信社に引用された(« Bienvenue sur Al-Manar, chaîne judéophobe », Libération, 2004年11月26日)。
この喧騒は効果がなかったわけではない。11月30日、CSAは新法に関して国務院に提訴を行った・今回はアルマナ-ルが公の秩序を乱す発言を放映し不誠実な情報処理を行ったという理由で取り調べを行った。アルマナ-ルは確かに次のような記事を引用していた。「ここ数年間の間に、アラブ諸国にエイズなどの病気を伝染させようとするシオニストの企てが見られた。この敵はアラブ民間人やイスラム教徒の健康を害することに全く躊躇しない。」(« Al-Manar : le Conseil met la chaîne en demeure et saisit le Coneil d’Etat »,communiqué 568 du CSA, 2004年11月30日)
コミュニケ-ション大臣に国会で質問したフランスイスラエル友好グル-プ代表の議員ルディ・サルは公の秩序攪乱の議論を用いる。「このチャンネルはアラビア語だけでなくフランス語でも放送します。ユダヤ人に対する憎しみや暴力のメッセ-ジが私達の町や郊外に引き起こす影響を想像して下さい。」これに対し大臣は国会が新法を採決した以上、この法は厳しく適用されると答えた(2004年11月23日)。
しかし国会のUMP党員達はプレス掲載記事を作ったという理由でテレビ局を禁止することを国務院は納得できないのではないかと恐れた。それで新法をさらに厳しいものにする提案をした(« Affaire Al-Manar : les députés UMP souhaitent renforcer la législation »,Associated Press, 2004年11月30日)。別の政府質疑応答の際、NATOの国会議員会議議長も務めるUMP議員ピエ-ル・ルル-シュはコミュニケーション大臣に対し次のような言葉を用いた。「アルマナ-ルはヒズボラというテロ集団に属します。ヒズボラは1985年と1986年にレンヌ通りとギャラリ-・ラファイエットで起きたテロの首謀者でジャン=ポ-ル・コフマンとマルセル・フォンテ-ヌなど多くのフランス市民を誘拐しました。このチャンネルは毎日イスラエルのユダヤ人の殺害、時にはキリスト教徒の殺害も呼びかけています。一年前にフランスでアル・シャタトすなわちディアスポラという題のシリ-ズ番組を放送しました。シオン議定書のナチスプロパガンダを用いて世界的ユダヤ陰謀を示し、キリスト教徒の子供を殺害しその血を使って復活祭の種無しパンを作ったことで例証しています。この番組のため、CSA代表のボディ氏は1月に共和国検事に提訴しました。それ以来、この訴えについての消息がありません。(……)なぜこのテレビ局と契約を結ぶという事態になったのですか?」(2004年11月30日)センセ-ショナルな発言だったが情報の誠実さは遵守されていない。司法調査は1985年と1986年のテロとヒズボラを関係づけたことがない。ジャン=ポ-ル・コフマンとマルセル・フォンテ-ヌはイスラム主義ジハ-ドに拘置された。アルマナ-ルはユダヤ人とキリスト教徒の殺害ではなく、軍事占領と協力に対する闘いを呼びかけている。シリ-ズ番組「ディアスポラ」のこのエピソ-ドだけがシオン議定書から着想を得ている。CSAの訴えに関しては、共和国検事への指摘にすぎず、検事がエマヌエル・デュコス判事に審理を委任した。デュコスは訴追に十分な理由を見出さなかった。社会党議員からもUMP議員からも非難され、文化コミュニケ-ション大臣ルノ-・ドヌデュ-・ドヴァブルは叫ぶ。「さらなる司法手段が必要ならば首相と政府がそれを提案するでしょう。」ルモンド紙はルル-シュの提案とアルマナ-ル検閲を支持するため左派を動員した。
(注)
ルモンド=プロパガンダ新聞
ルモンド紙はフランスエリ-トのが準拠にする日刊紙であると自称している。明確にNATO・シオニスト支持の編集方針を取り、そのために大統領選ではジャック・シラクに対抗してエドワ-ル・バラデュ-ルとリオネル・ジョスパンを支持した。レバノン問題に関しては、徹底的に米国務省とイスラエル外務省のレトリックを用い、プロパガンダのために事実を捏造することさえ行う。2004年12月4日「ルモンド」は署名なしの、すなわち編集部全体の意見を示す論説文を載せ、アルマナ-ルを禁止できないフランスの法律を批判し「CSAにさらばる活動と弾圧の手段を与える」国会案への支持を表明している。
フランス3でのテレビ討論で、Réseau Voltaireの副会長イッサ・エル=アユビがピエ-ル・ルル-シュに対し、制裁は根拠がある場合は番組に対して行われるべきであり、全体的な制裁が自由裁量でテレビ局に適用されるべきではないと弁護した。しかし、もはや討論の時ではなかった。司会者のマルク=オリヴィエ・フォジエルは議論を終らせた。この司会者はその後、タレントのデュ-ドネに対して人種差別的な発言をスクリ-ンに写し出し有罪判決を受けた。しかし彼は辞任せず、誰もこの公共テレビ局の禁止を求めなかった。
この段階に到っては、目的がアルマナ-ルを禁止しこのテレビ局のニュ-スの放送を妨害することであり、そのためにはどんな法律でも採決し、どんな口実でも見出すだろうということを隠す者はいない。CSA代表のドミニク・ボディは彼の独立性というフィクションを守ろうともせず。解決法を協議するため首相のもとにかけつけた(« Le président du CSA à Matignon ce mercredi à la suite de l’affaire Al-Manar », AFP, 2004年12月1日)。この会談の後、ジャン=ピエ-ル・ラファランは欧州連合を介して立法プロセスを再開する意志を述べ、CSAに契約を解消するよう「助言」し、イスラエル外相の称賛を受けた(« Al
Manar/Raffarin– La convention avec le CSA sera résiliée », Reuters, 2004年12月2日、上院議員ラディスラス・ポニアトウスキの口頭質問に対するラファランの返答も参照、 « Israël félicite Partis pour la résiliation de la convention avec Al-Manar », AFP, 2004年12月2日)。
この問題に関して、首相はアメリカユダヤ委員会(AJC)代表団の訪問を受けた。AJCはシャランンスキ-も属するアメリカの強力な新保守主義機関でCRIFと緊密に協力しながら活動を行っている。彼らは一緒に欧州の戦略を調整した。AJCは声明の中でラファラン首相を称賛し、「反ユダヤ主義的、反アメリカ的、反西洋的なメッセ-ジを流すアルマナ-ルや他のテレビ局は寛容と多元主義と平和を奨励する欧州に存在してはならない」と述べた(« Le Comité juif américain félicite le Premier ministre français d’avoir suspendu la chaîne TV du Hezbollah », PR Newswire, 2004年12月3日)。
とどめの一撃として、新法に関する国務院への三度目の提訴が今度はCRIFによって行われた(« CRIF– Al-Manar : le Conseil d’Etat à nouveau
saisi », News Press, 2004年12月6日)。
アラブ世界は強い衝撃を受けた。レバノンとエジプトでデモや会議が開かれた。あらゆる立場の政治家が、アラブ連盟議長のアムル・ムッサに到るまでこの主題について発言を行った(« Manifestation de solidarité tous azimuts avec Al-Manar », AFP, 2004年12月6日)。レバノンの視聴覚国民評議会は報復措置を発表した。アルマナ-ルがフランスで禁止された場合、レバノンでフランスのメディアに与えられた特権を排除するというものだ(« Al-Manar : Beyrouth menace les médias français de mesures réciproques », AFP, 2004年12月10日)。
最終的に、2004年12月13日、国務院の判決が下された。アルマナ-ルは禁止になった。しかしその理由は想像上の反ユダヤ主義ではない。「1986年9月30日の法律の15条の規定(青少年の保護)に公然と反する放送を繰り返すことで公の秩序の維持に有害な影響を与える可能性を排除できない。」言葉を変えれば、このチャンネルが検閲の対象になる理由は、その放送によって若者が反逆し、公共の秩序を乱すことにつながる可能性があるからだ(国務院判決no. 274757)。イスラエル外相はこれに同意して「私達はユダヤ人、キリスト教徒、西洋人に対する残忍な憎しみの言説を放映するこのテレビ局に対して盗られた措置を喜ばしく思う」と述べた(« Israël se félicite de l’interdiction de la diffusion d’Al-Manar », AFP,2004年12月13日)。
国境なき記者団(RSF)はいつもの曖昧さでアルマナ-ルに対する措置を批判し「許し難い反ユダヤ的発言」を放送するこのテレビ局をより適切に非難するべきだと述べた(« Pour RSF, la méthode employée pour interdire Al-Manar n’est pas la bonne »,AFP, 2004年12月14日)。
技術的には、Eutelsatが欧州でのアルマナ-ル放送を禁止するためには、同時にSharjah TV、 Quatar TV、 Saudi Arabian TV、 Kuwait Space Channel、Jamahirya Satellite Channel、 Sudan TV、 Oman TV、 Egyptian Satellite Channelを切らねばならない。他のテレビ局にも検閲の責任を負わせることを恐れ、アルマナ-ルは諦めて契約を解消した(« En pettant fin à ses émissions, Al-Manar Calme le jeu », AFP, 2004年12月14日)。アルマナ-ルはそれでもArabSat 2B at30.5East、Badr at 9-26East、NileSat at 102-7Westを介してインタ-ネットで利用できる。
この決定を公衆に納得させるため、フランスのコミュニケ-ション大臣は「共に生きる」と名づけられたキャンペ-ンを企画した。文化機関、公共視聴覚機関は「憎しみと不寛容に市民権はない」と説明するためのメッセ-ジを配布した。しかし、まさにその憎しみと不寛容がアルマナ-ル禁止措置に結びついたのだ。Arteチャンネルは「ホロコースト」というシリ-ズ番組を再放送し、最終解決と近東の紛争を混同させるという無駄なことを行った(« Audiovisuel et culture mobilisés pour promouvoir la tolérance »,AFP, 2004年12月15日)。
この間、UMP党首ニコラ・サルコジはイスラエルに凱旋ツア-を行い、アリエル・シャロンや多くの政治責任者に会った。そして、自分の党と共に、ヒズボラの声の検閲に中心的役割を演じたことを自慢げに吹聴した(« Reçu en Israël en homme d’Etat, M. Sarkozy s’est posé en héraut de la lutte contre l’antisémitisme », Le Monde, 2004年12月16日)。
フランスの政治指導者達がアルマナ-ル検閲を可能にする司法的枠組みを作り上げようと闘っている間、オーストラリアでも同じプロセスが進行中だった。労働党のロバ-ト・レイが率先してこれに取り組んだ。彼は衛星TARBSでのアルマナ-ル放送禁止に成功した。
イスラエル首相アリエル・シャロンの求めで、検閲を世界中に広めるためにワシントンに調整委員会が作られた。反テロメディア連合(CATM : Coallition Against Terrorist Media)である。この委員会は強力なシオニストロビ-、民主主義防衛財団(Foundation for the Defense of Democracies)の敷地内に設置された。財団の資料を調べれば、このキャンペ-ンの目的は疑いの余地がない。将来のレバノン軍事介入のため、ヒズボラの声を断つことだ。財団の責任者には、米国防省補佐官リチャ-ド・パ-ルなどのレバノン攻撃計画者やワリド・ファレスなどの不吉なレバノン義勇兵が含まれる。フォックス・ニュ-ス解説者のファレスは1980年代の占領下において、レバノンのパレスチナ難民に対して残虐行為を行った「杉の衛兵」の長を務めた。
この時点までは、フランスとオ-ストラリアの関係者全員が、自分達がいかなる犯罪を準備しているか知っていたわけではないが、今後は皆がそれを理解する。
イスラエル軍参謀総長の執行者に変身したフランス政府はアメリカユダヤ委員会と共に取り決めた戦略を実施し、この種のテレビ局の検閲の問題を欧州閣僚会議の議題に組み込ませる (« Paris souhaite que la question soit abordée au niveau européen », AFP, 2004年12月14日)。
情報メディア社会担当委員ヴィヴィアン・レディングがこの問題に取り組む。彼女はヴァ-ツラフ・ハヴェル元チェコ大統領が民主主義防衛財団のために開いたブリュッセルの事務所と協力して仕事をした。この機構は9.11テロの恐怖を利用してパレスチナ人に世論を敵対させ、次に国連を批判しイラク・サウジアラビア・シリア・レバノンへの攻撃を呼びかけた。
アメリカでは、国務省がアルマナ-ルを「テロ組織」のリストに載せた(« USA –Al-Manar dans le collimateur du département d’Etat » ; « USA-EL Manar rangée parmi les « organisations terroristes » », Reuters, 2004年12月17日)。かつてこのように形容されたメディアはない。アルマナールのスク-プが爆弾スク-プであるという以外に、これが何を意味するのか理解し難い。いずれにせよ、IntelsatとGlobecast(フランステレコムの系列)は北アメリカでのアルマナ-ルの放送を停止した(« Globecast retire Al-Manar de son offre satellitaire aux Etats-Unis », AFP, 2004年12月18日)。
レバノン元首相サリム・エル=ホスによれば、アメリカはこの事件を利用して欧州とアメリカにおける一つの視点の表現を禁止した。「アメリカ政府はイスラエル占領に抵抗する権利を“テロリズム”と形容し、イスラエルのテロリズムとイスラエルによる他民族の土地の侵奪を“正当防衛”と呼ぶ」と彼は述べている(« Le Liban fustige les mesures de Washington et Paris contre Al-Manar », AFP, 2004年12月18日 )。この検閲への報復としてレバノンのケ-ブルテレビ会社のほとんどはフランス語のテレビ局TV5の放送を停止した。
2005年7月、今度はスペインの産業大臣がラテンアメリカに向けた公共衛星Hispasatからアルマナ-ルの電波を除去した。さらに、サイモン・ウィ-ゼンタ-ル・センタ-がフランス政府に介入し、Globast(フランステレコムの系列)がアジアへの送信を切るようにした。2006年1月、オランダの司法大臣がアメリカへの送信を続けていたNew Skies Satellitesによるアルマナ-ルの受信を切るよう命じた。2006年3月、アメリカ財務省がアメリカの銀行に保管されていたアルマナ-ル関連会社の資産を凍結した。
そしてレバノンに対するイスラエルの攻撃が始まった。2006年7月13日、イスラエル空軍は最初からベイル-トにあるアルマナールのスタジオを爆撃した。ヒズボラの声を決定的に消すためだ(« La télévision du Hezbollah touchée par un raid israélien(Hezbollah) »,AFP, 2006年7月16日)。この空爆で3人の重傷者が出た。
ところが、レバノン抵抗運動は秘密の場所から録画による断続的な放送を続けた(« Al-Manar, la télévision du Hezbollah qui ne veut pas se taire », AFP, 2006年7月31日)。ヒズボラ書記長のハッサン・ナスララは同国民に語りかけ、前線の様子を知らせることができた。イスラエル軍は決着をつけるために、7月22日にレバノンの全ての反対勢力のテレビ局を爆撃した。どのテレビ局もアルマナ-ルの電波を中継できなくするためだ(« Israël impose la loi du silence au Libanais », AFP, 2006年7月22日)。しかし、Arabsatは発信を続けた。
アルマナ-ルはインタ-ネットのサイトで見ることができた。ヒズボラは万一に備え、インドのサ-バ-センタ-を利用した。しかしインド政府は核に関するアメリカとの契約への影響を恐れ、政府特権を利用して「友好国とのよい関係を守るため」サイトを削除した。しかし、サイトは再び現れた。それにも関わらず、戦争中、欧州の大衆はレバノンとパレスチナ占領地域の状況を知るためにイスラエル軍の検閲を受ける大手メディアの情報で満足するしかなかった(« Les agences de presse occidentales victimes consentantes de la censure militaire israélienne », Réseau Voltaire,2006年7月18日 )。
アルマナ-ルを殺すためにイスラエル国家が3年前から行った努力はイスラエルがいずれ隠さねばならない犯罪に比例していた。
次に、イランの例を挙げて、反ユダヤ主義の非難がどこまで使用され得るかを見てみよう。
イランを悪者にする
同じ論拠を用いた2つの情報操作作戦を続けて調べてみることにしよう。そうすることで、その漸進的な浸食作用が明確になるだろう。
2005年10月26日、ロイタ-通信の報道。「公式通信社IRNAの報告によれば、イラン大統領マフム-ド・アフマディネジャド大統領は水曜日に、イスラエルは地図から消されるべきだと宣言し、イランがユダヤ国家への敵意を緩和しているという希望を失わせた。パレスチナ大義への支持はイスラム共和国の中心となる柱であり、この国はイスラエルの存在権利を認めることを公式に拒否している。アフマディネジャドは“シオニズムのない世界”という会議で“イスラエルは地図から消されるべきだ”と宣言した。この会議には保守派の学生3000人が集まり、“イスラエルに死を”“アメリカに死を”と叫んだ。」(« Iran president wants Israel « wiped off the map » » by Parisa Hafezi, Reuters, 2005年10月26日)
AP通信とフランス通信社が引き続きこの嫌疑を報じた。これらの通信社の特派員達はロイタ-の速報をそのまま写し、もともとの情報源IRNAの準拠を記さず、彼らは会場にいなかったにも関わらず、あたかもそれを目撃したかのように報じた。さらにひどいことには、情報すなわちIRNAの速報の真偽を確かめることさえしなかった。確かめていれば、そこに引用の痕跡を一つも見出さなかったはずだ。
作戦の意味と規模を全く予想していなかったイラン大統領は、質問した記者に対しその発言を否定しただけで、声明も、演説の英語訳も出すことはなかった。
作戦はフランス外相フィリップ・ドゥスト=ブラジーのスポ-クスマンの宣言から始まった。「この発言が実際になされたならば、我々はこれを断固として非難する。」(La France condamne la déclaration d’Ahmadinejad sur Israël », AFP, 2005年10月26日)ドイツ外相もこれを真似して言う。「この発言が実際になされたならば、許されないことであり、断固として非難するべきである。」(L’Allemagne condamne avec « fermeté » les propos du président iranien » ,AFP, 2005年10月26日)
真偽が確認されていない発言についてコメントすることは、当然ながら外交の慣習に反している。弁論上の配慮「この発言が実際になされたならば」は不真面目である。フランスとドイツの大使館がテヘランにあり、その職員は大統領の全ての発言を探る任務を帯びている。彼らは外務省に重要な発言を全て報告し即座に分析を行い文脈の中に置いて可能な影響を演繹する。
ゆえに、これらの外務省の発言は、無能力の表明か、あるいは情報操作に公印を押す恣意的な行為とみなすべきだ。
今度はイスラエル政府がアクセルを踏む。イスラエルは事件の解釈の鍵を提供する。「この種の政府は非常に過激でこの政権が原子爆弾を保有した場合国際社会にとってまさに悪夢である」とイスラエル外相シルヴァン・シャロムは宣言する、これに続いて、ホワイトハウスのスポ-クスマンが「(イラン大統領の宣言は)イランについて私達が言ってきたことが正しかったことを示すだけだ。イランの核の野心に関する私達の懸念を強める。」と述べる(Washington : Ahmadinejad reconfirme nos inquiétudes sur le nucléaire », AFP, 2005年10月26日)。
ここにおいて、各自が一段階進んだ行為に出る。フランスはパリのイラン大使に説明を求める。カナダ外相ピエ-ル・ペティグリュ-は激昂する。「今は21世紀だ。カナダはこのような憎しみ、不寛容、反ユダヤ主義を決して許さない。(……)このコメントはイランが核の野心を持ち国際原子力機関に完全に協力することを拒否するため、一層不安を与える。イランの拒否は、国際社会が協力してイラン核武装を防止することの重要性を強調する。」(Le Canada condamne les propos du président iranien sur Israël », AFP, 2005年10月26日)そして、イスラエル副首相シモン・ペレスは国連にイラン追放を求めた(« Simon Peres appelle à l’expulsion de l’Iran de l’ONU », AFP, 2005年10月26日)。
NATO加盟国の政府は次々にイラン大使を召還し説明を求めた。
パリの大使が最初に公の場でこれに答えた。翌日出された声明の中で、彼はアフマディネジャドはイスラエル国家ではなく、シオニスト政権の終わりを望むと述べた。彼は自国の立場を説明する。アパルトヘイト政策を行う軍事占領の終結とエルサレムを首都とする単一国家設立への希望。「私達はシオニスト政権のイデオロギ-に反対している。いかなる正当性も持たないからだ。(……)私達は何世紀も前からユダヤ教徒と共に平和的に共存しており、彼らにいかなる敵意も持っていない。」しかし、誰も大使の言葉に耳を傾けなかった。記者達はシルヴァン・シャロムの記者会見の取材に忙しい。イスラエルの大臣はパリを公式訪問中だ。彼はイランが6ヶ月以内に原爆を保有するだろうと断言して、状況に負の要素を加えた。イランは「射程距離3000キロの新たなミサイルを開発中です、パリ、ベルリン、ロンドン、ローマ、マドリッド、ロシアの南部さえも射程内です」と彼は続けた(« L’Iran peut-être à « six mois »d’avoir les connaissances pour la bombe : Shalom », AFP, 2005年10月27日 )。
それ以降、以下のことが人々の心の中で確かな事実になった。アフマディネジャド大統領は一つの国を国民もろとも地図から消す意志を冷酷に告げる予見者である。彼は最終解決すなわち望ましくない民族の殲滅を決めたアドルフ・ヒットラ-の予期せぬ後継者である。ルモンド紙はアフマディネジャドとシ-ア派の高官達をヒットラ-になぞらえた絵を一面に載せた。腕章のハーケンクロイツは核のロゴに変えられ、強制収容所が彼らの足元に小さく描かれている。
翻訳の誤りを批判し、イラン当局は演説のオリジナルビデオを発表した。これも無駄だった。CNNはこれを犯罪の証拠として放映した。アフマディネジャ-ドがファルシ語で話し英語のボイスオ-バ-が「イスラエルを地図から消す」と訳している。
ところが、マフム-ド・アフマディネジャ-ドは全く別のことを言っているのだ。
――彼はイスラエル国家ではなく、現在政権についている政治体制を指している。
――彼は地図や場所ではなく、時間と近い未来について話している。
――彼は「消す」ではなく「除去する」という言葉を用いている。
最終的に、問題の一文の正しい翻訳は「エルサレムを支配しているこの体制は歴史から除去されるべきである。」この立場は、南アフリカを支配するアパルトヘイト政権を歴史から除去するために闘ったネルソン・マンデラのデズボンド・ツツのそれと比較できる。演説の文脈に置きなおせば、混同の余地はない。なぜなら、マフム-ド・アフマディネジャドは未来のシオニスト政権除去を、ホメイニ師が実現したシャ-政権の除去と比較しているからだ。そこには殲滅も、民族の強制移送も含まれない。また、ジョナサン・スティ-ルがGuardian紙で指摘しているように、イスラム教徒の指導者がイスラエル人の殲滅を呼びかけることは想像し難い。イスラエル人の一部はイスラム教徒だからである(« Just How Far Did They Go, Those Words Against Israel ? », by Ethan Bronner and Nazila Fathi, The New York Times, 2006年6月11日 ; « Lost in translation », Jonathan Steele, The Guardian, 2006年6月14日)。
この偽情報工作が完全に見破られているにも関わらず、多くのアングロサクソン系指導者はこれを確実な事実として引用し続ける。
「アフマディネジャド=ヒットラ-」の方程式をさらに押し進めるため、心理戦争部隊は第二の作戦を考案した。そのメカニズムは最初のそれと同じだが、タイミングがはずれて失敗した。この情報操作の時間と場所に従い、最初にこの情報を引用した新聞が同じではなかった。また、他の新聞より慎重な新聞が存在する。
2006年5月19日、トロント(カナダ)のナショナル・ポスト紙がイラン人亡命者アミル・タヘリの記事を載せた。「イランの不信心者の色番号」という題の記事だ(« A color code for Iran’s infidels »,by Amir Taheri, National Post, 2006年5月19日 )。彼はイスラム教徒女性の服装の節度を規定する1982年の法律の改革の際、マジリス(イラン国会)で行われる討論を描写している。イラン大統領の影響下で制服が段階ごとに強制され、「隠れたイマムの再来」の時に一見皆が同じように見えるようにするという。450万人の公職者が2009年までにこれを採決し、80億ドルが「貧乏な者と貧窮者」に服を着せるために支出される。その後、別の法律が男性の顔の外見を規定することになる(髪、顎髭、口髭)。
要するに、イランは全体主義国家だというのである。アミル・タヘリは非イスラム教徒にはそれを示す明確な印(ファルシ語でゾンナル)が付けられると述べる。ユダヤ人は彼らの服に黄色い徽章を縫い付けねばならない。キリスト教徒は赤、ゾロアスタ-教徒(ペルシアの昔の宗教)は青の徽章を付ける。
新聞は、署名のない記事の中でタヘリ氏の情報が正しいことがカナダに住むイラン人によって認められていると述べている。この法はすでに採決され、最高指導者ハメネイ師の認可が待たれているという。ナショナル・ポスト紙はサイモン・ウィ-ゼンタ-ル・センタ-の主席ラビ、マ-ヴィン・ハイア-の反応を取材する時間を取っている。ハイヤ-はこう述べた。「ホロコ-ストの甦りです。イランはますますナチスのイデオロギ-に近づいています。」
新聞のインタ-ネットサイトで編集部は読者にアンケ-トに答えるよう提案する。ラビのハイア-の発言に賛成か反対かを答えさせる。「危険な類似。イランは新たなナチスドイツになりつつあるのだろうか?」
同じ日に、アメリカ国務省のスポ-クスマン、ショ-ン・マコ-マックが記者会見でこう述べている。「私は記事を読みました。私はどの新聞も記事を引用しあっていると思います。現在国会で審議されている法律があり、その性質は明確ではありません。ですから全ての要素を持たない主題について追及したり決定的な、あるいは詳細なコメントをすることは避けます。しかし、もしそのようなことが起きたら、それがイランであろうと別の国であろうと、醜悪なことです。」(2006年5月19日)
それと同時に、オタワでの共同記者会見でカナダ首相とオ-ストラリア首相は米国務省への質問と似たような記者の質問を受けた。ジョン・ハワ-ド首相は次のように宣言した。「そのような話は聞いたことがありませんが、喜んでお答えします。もしそれが本当なら、不快なことです。世界史の民族虐殺の最も恐ろしい時期、ナチスがユダヤ人の服に印を付けたことを思い出させます。文明国では全く不快に感じられることです。その場合は、この政権の性質を示す事実がまた一つ増えたことになります。それが本当なら、キリスト教徒だけでなく特にユダヤ人に対して計算された侮辱行為です。彼の憎しみと名誉毀損の演説の対象となるイスラエル国家と関係があるでしょう。それが本当なら--私は記事を読んでいません、最近の記事であり私の理解できない言葉で書かれていたのでしょう—それが本当なら、これが私の意見です。皆さんはこの種の事に関する他の政府の反応を想像することができるでしょう。そうなれば恐ろしいことです。」
そして、カナダ首相スティ-ヴン・ハーパ-がこう付け加える。「今言われたことに何を付け加えればいいかわかりません。ハワ-ド首相と同様私も“それが本当なら”と言うことから始めます。残念ながら、イラン政権について私達は多くのことを見てきたのでそのようなことが可能な政権だと想像できます。ナチスドイツを思い出させるようなことをしようとする政権が地上にあると思うと呆然とします。イラン政権について多くのことを以前から見てきたとはいえ。そのようなことが計画されるという事実は、憎むべきことだと思います。私達の連盟国は核兵器保有へのイランの明らかな意図に関する困難な問題に対して受動的なので、今回のことで(連盟国が)このような行為や思想を想像できるあの政権の性質について慎重に考えるようになることを期待します。」
5月20日の土曜日、アミル・タヘリの記事がそのままニュ-ヨ-クポストに載った。一方、多くのシオニスト組織・福音派キリスト教組織が復讐の声明を発表した。
ところが、ナショナルポストが後に認めたように、タヘリ氏の嫌疑は根拠のないものだった。マジリスで審議中の法律は、儀式の際の衣装-国歌や国旗と同じ資格を持つ-に関するもので、制服を規定するものでは全くない。差別的な要素は全く含まず、差別措置が国会討論で話題になったことはない。
この新たな偽情報工作のために、心理戦争部隊は新鮮な中継者を用いるように計らった。それは誰だったか?
アミル・タヘリはシャ-・レザ-・パフレヴィ-独裁体制の元協力者で、公式新聞「ケイハン」の編集長だった。現在はネオコン機関Benador Associatesのメンバ-である。この機関は対イラク戦争へ扇動するための偽情報の普及で中心的な役割を演じた。
タヘリの記事はまず最初に、2001年Can West Globalに買収されたナショナル・ポストで発表された。Can West Globalはリバタリアンでシオニストのアスパ-兄弟(レオナルド・アスパ-とデヴィド・アスパ-)に率いられている。アスパ-兄弟はカナダで公共テレビを反イスラエル的だと批判して有名になった。
さらに、タヘリの記事はニュ-ヨ-クポストにも載った。この人気のある日刊紙はネオコンの大物ルパ-ト・マ-ドックに属する。
サイモン・ウイ-ゼンタ-ル・センタ-もナチス犯罪者狩りを成功させた単なるユダヤ系人権擁護団体ではない。この組織はイスラエル政策支持のプロパガンダ機関になっている。
1980年半ば、センタ-はテロに関する会議を企画したが、実際はパレスチナ抵抗運動批判だけが行われた。1990年代初頭、センタ-はサダム・フセインにイラク国民を殺害するための毒ガスを提供するフランスとドイツの会社についての報告を捏造した。センタ-は元ユ-ゴスラビアへのNATO介入を可能にするため、ボスニア指導者アリア・イゼトベゴビッチの派閥を支持するための請願書を提出した。しかし、イゼゴビッチは元ナチス活動家だった。彼はイスラエルの支持を受けていた。最近ではセンタ-はベネズエラ大統領ウゴ・チャベスの発言を歪曲し反ユダヤ主義者であると嘘の非難を行った(« Faut-il brûler Hugo Chavez ? » by Thierry Meyssan et Cyril Capdevielle, Réseau Voltaire, 2006年1月10日)。
今日、センタ-はイランに敵対する活動に取り組んでいる。そのウェブサイトの一面では「現在と未来のイスラエル指導者」に会いイスラエル軍の基地を見学するイスラエル旅行を提案する。センタ-はまた、ニコラ・サルコジとの2回の手紙のやりとりの後、アフマディネジャド大統領にサッカ-ワ-ルドガップ観戦のためにドイツを訪問することを禁じるキャンペ-ンを企画した。
情報操作の方法は「イスラエルを地図から消す」の事件と同様である。国家権威を与えられた人物を用いる。ショ-ン・マコ-マック、ジョン・ハワ-ド、スティ-ヴン・ハーパ-である。前の事件と同様、各自が弁論上の配慮をしてコメントに「もしそれが本当なら」という一言を挿入する。この言い回しのおかげで、彼らは状況が悪化した場合すぐに撤回する可能性を維持しつつ情報操作を展開できる。さらに、この配慮により、彼らは条件法でなく現在法で話すことができ、視聴覚メディアが放映する抜粋では断定的に聞こえる。
様々な下役が選ぶ比較はつねに同じ、ナチス政権と黄色い星の徽章の着用である。しかし、その比較は必ずしも自明ではない。アミル・タヘリの記事は差別的な別の政権を想起することもできたはずだ。しかし、この比較こそが唯一イラン攻撃を正当化する。ハ-パ-首相は最終的にそのことを示唆した。
注目すべきことは、通信社がいつもどおり偽情報を中継し、その次に新聞がこれを話題にしたということだ。この情報操作を告発したのはテヘランの特派員ではない。大使館の声明と国会の宣言がこれを終らせた。これを記事にしなかった新聞は必ずしも他の新聞より良いというわけではない。それらの新聞は週末は出ない。情報は月曜になって初めて処理され、その時には嘘が証明されていた。結局、反ユダヤ主義の非難が今回もまたその効果を見せた。これはあまりにも感情的な力を持つため、メディアは確認する義務を感じず、そのまま報道する。
イラン非難はまた、アフマディネジャド大統領が挑発好きであることから容易になる。イラン外務省の国際政治研究所は2006年12月11日から12日までテヘランで「ホロコ-スト研究 : 世界的なビジョン」という会議を開いた。開会演説でマヌチェフル・モッタキ外相は「この会議の目的はホロコ-ストの現実を否定したり確認したりすることではありません。(……)主要な目的はヨ-ロッパで自由に発言できない思想家に発言の機会を与えることです。」こう言った後、彼は雑然と、「シオニストとイスラエル国家にホロコ-ストがハイジャックされたことを明らかにするために来た」ラビのイスロエル・デヴィド・ワイスや、「最終解決」の存在を否定する知識人達-この犯罪はニュルンベルク裁判で矛盾した調査や討論の結果証明されているにも関わらず-に発言させた。閉会の演説でアフマディネジャド大統領は述べる。「今日、ホロコ-ストは諸大国に偶像崇拝されています。(……)重要なのは、ホロコ-ストが起きたか起きなかったか、その規模が大きかったか限られていたかという問題ではありません。問題は、これがこの地域の国々を侵略し威嚇するための基地を作る口実であるということです。」(« Israël« va bientôt disparaître »tout comme l’URSS(Ahmadinejad) », AFP, 2006年12月12日)彼にとってこの会議はイスラエル国家の正当化を否定し、痛い所を付くため、すなわち問題が欧州にあったことを指摘するための茶番である。確かに、もし、人々がよくそう考えるように、イスラエル国家建設が欧州の反ユダヤ主義の問題解決のためだったならば、代価を払うべきなのは欧州であって近東諸国ではない。いずれにせよ、ナチズムを懐かしむ人々に発言権を与えたり、欧州の反ユダヤ主義を逆に指摘したりすることによっては、平和を進めることはできない。その逆である。ナチスの野蛮性の犠牲となった生存者にとってこの会議は憎むべき、また根拠なき侮辱であった。イランが否定論者を利用することは、イスラエルが反ユダヤ主義の犠牲者を利用するのと同様、不名誉なことだ。
ヒズボラ、アルマナ-ル、イランに関して私達が見てきた偽情報工作の例以外にも、公衆の判断はパブリックリレ-ションズの強力な働きによって騙されている場合がある。レバノンの政治状況の変化に関する報道、そして2006年夏のイスラエルによるレバノン攻撃の報道についてもそれが言える。
体制を不安定化する
レバノンとシリアにせまる危険
イスラエルのレバノン攻撃はアメリカによってはるか以前に計画された。しかし、もっとも綿密な計画も予期せぬ出来事で失敗に終ることもある。米国防省の戦略家の予想は完全に外れた。戦略家達はユダヤ国家の敗北など予想していなかった。世界で最も優れた技術を持つイスラエル軍がいかにしてこの冒険に乗り出し、アラブ人の抵抗の前に撤退したかを知るには、2003年4月まで遡る必要がある。
アングロサクソン連合軍によるイラク攻撃の二週間後、バグダ-ド空爆が続いていた時、アメリカの指導者達は次の標的についての議論を始めた。ブロンクス州民主党代表で「自由なレバノンのための米国委員会」(USCFL : US Committee for a Free Lebanon)のメンバ-であるエリオット・エンジェルは下院に「シリアの責任とレバノンの主権回復に関する法律」(SyriaAccountability and Lebanese Sovereignty Restauration Act)の法案を提出する。第一条がその目的を提示する。
「シリアのテロ支援を止めること、シリアのレバノン占領を終らせること、シリアの大量破壊兵器開発を止めさせること、シリアによるイラクの石油の不法輸入、武器やイラクの他の軍事物資の輸送を止めさせること、それによりシリアが近東で世界の安全を脅かす深刻な問題を引き起こしている責任があるとすること、またそれ以外の目的も含む。」
数回にわたる討論の後、2003年10月15日に米国議会は法案を可決する。この法案はシリアとレバノンに制裁を加えるための全権をジョ-ジ・W・ブッシュに与え、新たな軍事行動の道を開いた。この白紙委任状は、前方への逃避を続ける軍産複合体と、帝国主義ネオコン理論家と、この世の終わりが早く来ることを望む福音派の有権者達と、シリアのゴラン高原をイスラエルに併合しレバノン南部を自治地区に変えるつもりであるシオニズム運動の間の連盟の成果である。
アメりカの行政部は直ちに戦争の拡大を命じる。アフガニスタンとイラクの後はレバノンとシリアだ。米国防省は2004年夏にむけてこれを計画する。チェイニ-副大統領は準備を監督する。イギリスの軍事雑誌Jane’s Intelligence Digestが明らかにしたように、アメリカはレバノンのヒズボラ施設を破壊するため特別攻撃隊を送り、シリアを挑発して全体的な戦争に導く予定である(Jane’s Intelligence Digest 2004年1月23日)。
バシャ-ル・アル=アサド大統領の失墜に先んじて全米民主主義基金(NED/CIA National Endowment for Democracy )が次のシリア指導者の選択を担当する。この機関はワシントンでシリア民主主義連合-武器商人ファリド・N・ガドリ-が率いる傀儡グル-プでシリア改革党を中心とする-を後援する。1月18日と19日に会議がブリュッセルで開かれたが、候補者が鬩ぎ合い、参加者はGIがシリアを「解放」した場合にシリアのトップに据える人物を選び出すことができなかった(« Un gorupe d’opposition en exil à Damas appelle l’UE à changer de politique »,AFP, 2004年1月19日)。
NEDはCIAが組合や協会や政党に資金を与え統括することで秘密活動を続けるためにロナルド・レ-ガンによって作られた。現在では、ポーランドの組合Solidarnoscやチェコスロバキアの憲章77を統括し操作したこと、グルジアとウクライナで色の革命を計画したことを誇りとする。米国務省が共和党・民主党、商工会議所、労働組合センタ-AFL-CIOと協力してNEDを管理している(« La NED, agence de subversion de la démocratie » by Thierry Meyssan, Voltaire, actualité internationale, no.1, 2005年3月)。
安全保障理事会でアングロサクソンに対する反逆を指揮したばかりのジャック・シラクは大惨事を防ぐために介入する。中世以来この地域に影響力を持つフランスは、容易にふるまうことができる。国連の先祖である国際連盟は両大戦間レバノンの委任統治をフランスに任せた。フランスは近東で模範的に行動するよう努め、今日も緊密な関係を保持している。
フランスは安全保障理事会でイラク戦争の際にロシア連邦と中国と共に形成した三角同盟の支持を持つ。フランスは状況的な利害に関してもこの地域に期待できる。イラク戦争の際アングロサクソンが自国の領土を利用することに断固として反対したトルコは、シリア領クルディスタンへの戦争の拡大が自国のクルド人に及ぼす 影響を心配している。
イラクで予想以上の困難に出会ったアメリカは時間稼ぎをすることにした。アメリカはフランスと交渉し安保理決議1559を2004年9月2日に採決させた。この短い文書は両国の譲歩を想定したいくつかの原則を提示する。
この文書はレバノンから全ての外国の軍隊を撤退させることを求めている。アメリカの観点では、シリア軍―内戦終結以来国の安定化のために駐在していたシリア軍―が撤退すべきであるという意味だ。フランス側は、この撤退と共にイスラエル撤退も行われるべきだと考える。イスラエルは地下にこの地域で貴重な水が豊かに存在するシェバアの農園地帯を占領している。
この文書はレバノン義勇軍と外国の義勇軍が解体され非武装化されることを求める。ヒズボラとパレスチナ人過激派が対象に含まれることになる。アメリカ政府はこれをイスラエルに対する抵抗軍と決着をつけることと考え、フランスはイスラエル占領の終了後、非武装化することと考えた。
この文書はなによりも、レバノンの主権回復を主張している。これは長い間国際機関で擁護されてきた弱国レバノンという理論に反する。問題はそこにある。レバノンは主権を回復した場合、それをいかに利用するだろうか?
決議1559がレバノン国会による大統領任命の直前になされたことも矛盾している。現状維持派は、憲法を改正してエミ-ル・ラフ-ドの第三期目志願を可能にするよう提案する。国連の決議はこれに反対を表明する。ロシア連邦と中国はレバノン内政干渉を告発するが、拒否権は用いない。
この出来事は、フランスの外交官に苦い味を残した。ジャック・シラクが指摘したように、決議1559は「アメリカとフランスの共通の活動の結果である。この地域の安定にとって決定的な要素である。この観点から、我々は共通のアプロ-チを行った。おそらく底意は正確には同じではなかっただろう。」(ルモンド紙の対談2006年7月27日)確かに、シリア政府を含めて皆が、1989年にタエフの合意で秩序維持のため望まれたシリア軍駐在が時代錯誤的であると考えていたとはいえ、早急な撤退は問題を解決するよりも、むしろ問題を引き起こすことになった。シリア軍は萌芽状態のレバノン国家の公務員の不足を補い、ヒズボラと共にイスラエルに対する国防に参加していたのだ。
ゆえに、シリア軍撤退の意味は皆にとって同じだったわけではない。フランス政府はこれが内戦を忘れさせレバノン国家再建を助けると考え、アメリカとイスラエルの政府はこれによりレバノンの国防を弱め、敵を容易に餌食にできると考えた。
伝統的に、レバノンでのフランスの影響力はマロン派キリスト教徒を介して行われる。レバノン国民協定により、共和国大統領職はマロン派の人物に与えられる。ところで、ラフ-ド将軍はレバノン独立の保証者である。合憲的な地位からだけではなく、2000年にイスラエル占領軍を追放するため、レバノン軍とヒズボラの軍の派閥を統合し緊密な協力関係を築いた。彼を退陣に追い込むことで、フランスは協力者を失うことになる。フランスは15年前からパリに亡命しているミシェル・アウン将軍の支持には期待しない。悪い時にアメリカと親しくしているからだ。フランスはだからといってシ-ア派のヒズボラにも期待しない-ヒズボラとは良好な関係を維持しているとはいえ。フランスはスンニ派社会とその中の一人の人間、ラフィク・ハリリに全てを賭ける。
ラフィク・ハリリとジャック・シラクの個人的な長い関係はよく知られている。両者は両国の絆を強めることに貢献したが、少しずつ政治の舞台を別の目的に利用し始めた。レバノンの億万長者は1988年、1995年、2002年のジャック・シラクの選挙資金提供者だったという(Ash-harqの特別記事1999年11月)。フランスの政治家は欧州の商業と銀行の扉をラフィク・ハリリへ開いた。二人が一緒に財産を管理していると噂された。
そもそも、決議1559の草稿が作られたのはサルデ-ニャにあるラフィク・ハリリの豪邸においてだった(Le Grand retournement, Bagdad-Beyrouth, by Richard Labévière, Le Seuil éd, 2006)。イラク問題の後、米仏関係を改善しようと努めるワシントンのフランス大使の影響下で、レバノン問題は「その地域的環境から抽出された。」
レバノン国内では、決議1559は予想とは逆の効果を与えた。国連の命令に侮辱された国会は賛成96、反対29で憲法改正を可決し、エミ-ル・ラフ-ドを再び大統領職へ導いた。ラフィク・ハリリ自身が自分の派閥の議員と共に修正案を採決した(« Lebanese MPs give Lahoud 3 more years ; Amendment
passes despite objections »by Nayla Assaf, The Daily Star,2004年9月4日)。結局のところ、この任期延長は例外ではない。ラフ-ド大統領の前任者エリアス・ハラウイの場合も同様だった。
矛盾した態度を取った首相は辞任し、議会選挙のため自己の陣営の拡大に専念する。
アメリカとイスラエルは一時的に戦争を諦めた。計画再開には、フランスの障害を取り除くため、ラフィク・ハリリを除外する必要があった。ハリリがもはや首相ではなく、選挙のため彼がヒズボラに接近する以上、これは一層容易で論理的だった。
ジャック・シラクはレバノンを救おうとして、無意志的に親友を暗殺者に指名していた。
ラフィク・ハリリ暗殺
2005年1月、アメリカはイラクで選挙を企画し、軍の一部を解体しつつアメリカによる国の統括維持を可能にする暫定政府を設置した。シリアとレバノンの問題が再び議題となった。ブッシュ大統領は自由なレバノンのための米国委員会のメンバ-、エリオット・アブラムスを国家安全補佐官に任命し、作戦計画を任せた。この人物の履歴については後で触れる。
2005年2月2日の一般教書演説で、ブッシュ大統領は意図を明らかにする。彼は議員に告げる。「大中東への平和を促進するため、私達はテロリストを匿い大量破壊兵器を保有しようとし続けている政権へ戦いを挑みます。シリアは相変わらず、その領土の一部とレバノンの一部がこの地域の和平の機会を壊そうとするテロリストによって利用されるように計らっています。私達はシリアの責任に関する法律を採決しました。私達はこれを実践します。シリア政府が全てのテロリズム支援を停止し自由への扉を開くことを求めます。」
2005年2月7日、ワシントンのシリア大使が国務省に召喚された。彼は近東地域問題責任者デヴィド・サタ-フィ-ルドから、バシャ-ル・アル=アサド大統領にレバノンからの軍の撤退を求める最後通牒を伝えるよう要請される(« U.S. dismisses Syrian stance toward Lebanon as flash ; Washington says it wants action not words », by Nayla Assaf ; « MP dubs Ain al-Tineh a rally of « national unity » » by Rita Boustani ;« Lahoud accuse U.S. of using Lebanese to « stab Syria » ;Larsen meets Maronite patriarch » by Mayssam Zaaroura, Daily Star, 2005年2月3、10、12日 ; « Lebanese president criticises US official, defends Syria », AFP, 2005年2月11日)。
2005年2月14日、12時55分05秒にベイル-トの海岸沿いで、三菱の小型トラックに仕掛けられた1200キロのTNTを含む爆薬の爆発が鳴り響いた。爆発はラフィク・ハリリの乗った装甲車を含む自動車の列が通った時に起きた。爆発物の数、爆発の強さは、ハリリの車が直接爆発の被害を受けなかった場合も標的に生き残るチャンスを残さぬよう計算されていた。
ワシントンは夜だった。しかし、数分後には自由なレバノンのための米国委員会(USCFL)は「シリアの責任とレバノン主権回復に関する法律」の作者を起し、幹部を集めて「シリアのバアス政権を打倒しエミ-ル・ラフ-ド大統領とレバノンの傀儡を跪かせよう」という声明を執筆した。
以下がその文書である。「ラフィク・ハリリ首相が暗殺された、シリアのバアス党は抑制を失っている。次は誰が狙われるか?シリア人はアメリカ人、イラク人、レバノン人を殺す。しかし我々は相変わらず外交手段で彼らと対話を続けている。どうか、我々に合流してほしい、そしてメディアに書簡を送るか、あるいはメディアで発言することにより、シリアの政権転換の予定を早めるよう呼びかける我々の声を聞かせよう。これがバアス党の過激な政策からアメリカを救い、レバノンを解放し、シリア人をナチスバアス党から救う唯一の手段である。当然ながら、反対派に合流しドル-ズの指導者ワリド・ジュンブラットとチ-ムを作ったハリリ首相のもとでこの連合はベイル-トで過半数の議席を得てキリスト教徒に勝利させるはずだった。あれは、シリア人にとってこのプロセスを止める唯一の方法だった。レバノンにおけるシリアの命もあとわずかだ。」
世界の通信社がこの事件とその文脈に関する速報を出す前に、この声明はメ-ルやファクスで一瞬のうちに世界中の数百の新聞に送られた。記者達はこの声明によってニュ-スを知った。緊急のため彼らはこの視点からニュ-スを処理した。
ラフィク・ハリリは労働者の息子で、レバノンのスンニ派の家に生まれた。若い頃はパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の設立者ジョージ・ハバシュと共にアラブ民族主義の陣営で活動を行った。しかし、すぐに若者の理想主義を捨て、サウジアラビアの王の宮廷で金儲けをした。成功のためには手段を選ばない彼は、自分の妻に注目した後継者のファハド王子に妻を提供した。若い女性は誘拐され何ヶ月もの間宮廷に監禁され、ラフィク・ハリリは快楽の宰相を演じた(目撃者との対談で得られた情報、2006年12月12日、15日)。王が6ヶ月以内にタエフに湾岸協力会議のための宮殿を建設する必要があった時、ラフィク・ハリリはこの計画実現のためにフランスの企業を斡旋した。彼は契約を改竄し、王室医師の助けを借りて、王の健康状態を利用して5億ドルの手数料を騙し取った(ポール・バリル大尉との対談、2006年11月23日)。その金で彼はフランスの企業を買い取り、様々な会社を設立し、会社は公共事業を勝ち取った。恩寵を失うことを恐れ、彼はアブデルアジズ王子を事業に参加させ、金融銀行帝国を築いた。レバノン内戦の間は義勇軍と宮廷の間の仲介者を演じながら、殺し合いを行う同胞達の双方に補助金を与えた。紛争が終るとサウジアラビアの国籍を得た彼は強力な庇護者からレバノン首相に任命され、自己の事業と国の事業を同時に行いながら国の再建に取り組んだ。こうして彼はレバノンの地を自分のものとし、領土の五分の一をほぼ合法的に獲得した。彼はまた「顧客」も作った。すなわち、友人やコネを「恩恵を受けた者」にした(Le Pays d’où je viens by HENRI Eld2, Buchet-Chastel éd, 1997 ; Les Mains noires, by Najah Wakim, All prints publishers and distributors, 19698 ; Rafik Hariri, un homme d’affaires premier ministre, by René Naba, L’Harmattan éd, 1999 )。彼の基金は貧しい学生のために多くの奨学金を提供した。歓待の名において、彼のオフィスに招かれた者は待合室で現金の入った封筒を受け取り、いかなる奉仕も依頼されなかった。多くの者は、再び招かれたいので彼に追従した。彼は1992年から1998までと2000年から2004年まで5期首相を務め、莫大な財産を蓄えた。死後その資産は1千670億ドルと推定され、世界のトップ15に数えられた。彼の「顧客」からは優秀なパトロンとして褒められ、下層民からは背任者として憎まれた。
2005年2月14日、ラフィク・ハリリとその護衛達の引き裂かれた死体がまだ温かい時、そして司法官は一人も現場に到着していないかった時、USCFLの通報を受けたCNNとその一味はすでに犯人を決めていた。シリアである。通信社の速報はUSCFLの声明の影響を受け、爆弾テロ直後、ハリリがレバノンにおけるシリア軍駐在への反対を表明していたと記し、これが暗殺の動機であることを示唆した(フランス通信社、 AP通信、 ロイタ-)。しかし、当時の文脈では、この情報は決定的とはいえない。全ての政治家がシリアの撤退を望んでいた。撤退の様式について意見を異にしていただけだ。しかし、撤退はすでに始められていた。ハリリはアメリカの友人と手を切り、ヒズボラと交渉に入っており、議会選挙が2ヵ月後に控えていたことも興味深い。
ラフィク・ハリリを突然祖国の殉死者の地位にあげたUSCFLが、これまではスンニ派の顧客のために彼が設置した経済システムを批判し、彼の暗殺をさえ呼びかけていたことを誰も記さない。
非難の対象になり始めたバシャ-ル・アル=アサド大統領は、この非難に直ちに反応して、外国の重要人物として初めて発言を行った。「シリア政府とシリア国民はこの危険な状況において同胞レバノンを支持することを表明し、ハリリ氏の家族と他の犠牲者の家族に心からお悔やみを申し上げます」と彼はサナ通信社に述べた(« Mort de Hariri : le président syrien dénonce un « terrible acte criminel », AFP, 2005年2月14日パリ時間14時47分)。しかし噂は膨らむ。ホワイトハウスのスポ-クスマン、スコット・マクレランはシリアがレバノンから撤退する時が訪れたと述べ、それが彼らの新たな犯罪への罰であると結論した。この嫌疑はワリド・ジュンブラットの社会進歩党のナンバ-2のマルワン・ハマデの辛辣な発言で確証されたようになった。「これは嫌悪すべき犯罪で、その責任者は知られています。ダマスカスで始まり、バーブダ(レバノン大統領官邸)とレバノン政府そしてレバノン情報局を介しました。」(« Mort de Hariri : le député et ex-ministre Marwane Hamadé accuse la Syrie », AFP, 2005年2月14日、パリ時間17時44分)彼は嫌疑を裏付ける要素は全く持っていなかったが、この悲劇を利用して政治的な敵を苦境に陥れようとすることに躊躇しなかった。レバノンがドル-ズ派とみなし、イスラエルがユダヤ人とみなすこの国会議員がイスラエルによるレバノン攻撃の間、偽情報による記者の操作に中心的な役割を演じることになる。彼はこの攻撃を正当化し、抵抗運動を中傷し、ハリリ家とジュンブラット家の利益を守ろうと努めた。
翌日、メディアの説が強化された。アメリカはダマスカスの大使を帰国させ、ライス氏はシリアがレバノンを不安定化していると非難する。国連事務総長コフィ・アナンとその特別代表者テリエ・ロ-ド・ラ-センはワリド・ジュンブラットに電話し、自己の身の安全を守るようにと述べた(« Attentat Hariri : l’ONU a conseillé à Joumblatt de prendre des précautions »AFP, 2006年2月15日)。
事件は了解された。ジュネ-ブの日刊紙ルタンは翌日の記事に「兄のシリアにとって元首相は殺すべき人物だった」という題をつけた。パリでは、フィガロ紙が「容疑者シリア」と歌い、リベラシオン紙は「シリアが越えてはならない最後の一線」という題を選んだ。ルモンド紙は「ハリリ暗殺でシリアへの嫌疑」と書いた。ロンドンのタイムズ紙は「この残虐さはシリアの不吉な手の印」と書いている。
世界のメディアは調査をする必要はない。メディアは判決宣告を行った。
2005年2月16日のフィガロの論説記事の中で、アレクサンドル・アドラ-は暗殺者が誰か自問することさえしない。シリア人が犯人であり、疑いの余地はないと考える(« Pourquoi a-t-on tué Rafik Hariri ? » by Alexandre Adler, Le Figaro 2006年2月16日)。彼はこの犯罪がイラクのアルカイダと関係を維持し過激イスラム主義者とのさらなる接近を望む政府内のタカ派の犯行であるとする。シリア政府が政教分離主義であること、ハリリ氏がサウジアラビア国籍を持ちスンニ派であることなどは重要ではない。重要なことは、シリア政府に対する軍事行動を正当化することだ。そのために「シリアとイランの間の戦略的断絶」を捏造してもかまわないというわけだ。
ニュ-ヨ-クポストとGulf Newsでは、イスラエル擁護派の解説員アミル・タヘリ(反イラン偽情報作戦ですでに登場した)が容疑者の可能性を4つあげる。ヒズボラ、マフィア、イラン、シリアである。彼はシリアである可能性が非常に高いと述べる(同じ記事が « A Murder of Little Mystery »の題で2005年2月16日のニュ-ヨ-クポスト、 « Suspects are many, but who is the real culprit ? »の題で2月17日のGulf Newsに載った )。タヘリは、アメリカ、イスラエル、あるいはフランスの犯行であるという説は馬鹿げていると言い-しかしその理由は述べない-シリアはレバノンに自国の情報局が存在する以上計画を知っていたに違いないと述べた。このような論拠はシリアに対してのみ価値があるようだ。同じ論拠を2004年3月11日のマドリッドテロに関してスペインに対しては使えない、また2001年9月11日のテロに関してアメリカに対しては用いることができないというわけだ。シリアが世界で最も有能な情報局を持つという評判があると信じなければならない。
数日後、今度は政治責任者が発言する。
ワリド・ファレス(イスラエル占領時代の協力者、現在はアメリカに亡命し、完全にユダヤ人だけの国家イスラエルの隣国として キリスト教徒だけのレバノン国家を作るために活動している“世界レバノン機構”World Lebanese Organizationを統括している )がワシントンタイムズ紙にシリアの犯行を告発する(« Wrong turn
in Lebanon » by Walid Phares, The Washington Times, 2005年2月22日)。彼は激しい調子でアサド政権をナチス帝国と比較しシリア軍のレバノン駐在をオ-ストリア併合と比較する。このメディアのキャンペ-ンを理解するには、タヘリとファレスが2人とも同じコミュニケ-ションオフィス、Benador Associatesで働いていることを知るべきだ。イスラエル政府と親しいネオコン陰謀計画事務所である。
この時点で、アメリカの指導者達はシリアの犯行についてよりもむしろシリアの道徳的責任について語るほうを望んだ。しかしすぐに、威嚇的な態度に出るため、エドワ-ド・S・ウォ-カ-とマギ-・ミッチェル・サレムがベイル-トのデイリ-スタ-紙とボストングロ-ブ紙でジョージ・W・ブッシュはラフィク・ハリリ暗殺を個人的攻撃と受け取ったと述べた(同じ記事が2005年2月18日に « Bush took Hariri’s death personally »の題で Daiky Star, « Syria after Hariri »の題で Boston Globeに掲載された)。シリアをレバノンから追放しようとするアメリカの決意は固まっている。
もちろん、これはナンセンスな話である。ハリリはシラクと金銭上のつながりがあった一方で、ブッシュとはいかなる特別な関係も持っていなかったのだから。重要なことは、フランスを是が非でもこの作戦に巻き込むことだ。ブッシュとシラクの会談をアメリカ支持のメディアがいかに扱ったかを見ればわかる。メディアは2人の国家主席がシリアにレバノンを去るよう勧告したと述べた。ところが、両者が出した共同声明はまったく別のことを宣言している。すなわち、「シリアにはレバノンの議会選挙に干渉せず、政権を正当な責任者に渡すよう要請する。」
この段階では、フランスはラフィク・ハリリの暗殺の首謀者が誰かを知る要素を掴んでいなかった。ジャック・シラクは全ての可能性を保持することを選んだ。新保守主義者達が彼に手段を強制しようとしていると意識し、彼はシリア犯行の仮定を展開するメディアに反論することはしない。しかし、それを正しいと認めることもしなかった。彼の態度は曖昧になった。疑いを持ち、彼はバシャ-ル・アル=アサド大統領と話すことはしないが、共通の友人にはアサド大統領に会うよう促した。彼は補佐官モーリス・グルド-・モンタ-ニュにホワイトハウスとエリゼ宮の間を往復させるが、直接ブッシュ政権と接触することは制限した。彼は疑いに悩まされた。ハリリ家の人々も同様である。二つの説のどちらを支持するかで、家族はまもなく分裂することになる。
このメディアキャンペ-ンにおいて、シリアを非難する人々は皆アメリカとイスラエルの新保守主義者と関係を持つ。彼らは世界の世論に自分達の見解を強制することに成功した。直ちに様々な地位を持つ重要人物を動員することができたからだ。私達が見てきたように、このパブリックリレ-ションズの技術は偽情報を用いて世論を操作するためによく用いられる。いずれにせよ、国連の調査委員会責任者デトレブ・メヘリスが調査がバシャ-ル・アル=アサドの周囲に限られたと発表してメディアの注意を引いて以来、世論操作は容易になった。
しかし、注意深く見ると、メヘリスの方法は非常に奇妙である。
メヘリス検事の不明瞭な役割
ラフィク・ハリリを殺すことで、暗殺者は金融事業の流れを変えようとしたのかもしれない。アルマディナ銀行の倒産など。その場合、彼らは争点につりあわない危険を冒したことになる。これより可能性が高いのは、暗殺者の目的がレバノンを不安定化することだったことだ。元首相はキ-スト-ンであり、相対する力を中立化していた。この場合、彼が殺されたのは、特定の計画の障害だったからではなく、彼の死により国内に不均衡が生じ、レバノンが内戦に陥る可能性があるからだ。
ラフィク・ハリリの死は、レバノンを保護し彼が作ったタエフの合意以来レバノンの安定を維持していた3つの大国にとって悪い影響をもたらした。まず第一に彼の庇護者サウジアラビア、ついでフランス、そしてシリアである。シリアは影響行使に不可欠な対話者を失った。
テロの犯人は罰せられなければならない。暗殺の起きた日、ジャック・シラクは早くも問題を国際化することにした。彼の求めで、国連事務総長コフィ・アナンはベイル-トに予備視察団を送った。アイルランド警察のピ-タ-・フィッツジェラルドが視察団を指揮した。彼は報告の中で、レバノン治安軍の規律と調整力の欠如を指摘し、レバノン国家の弱体化存続の原因はシリアの保護であると述べた。東洋の政治の曲折を明らかに無視して、彼は政敵に責任を負わせる目的で新聞に発言する人物の言葉を信頼に値する証言とみなす。彼は調査のためレバノン司法部を援助する必要があると結論する。
コフィ・アナンはその調査をドイツの元検事デトレブ・メヘリスに委任する。論争の的になるこの人物の選択は元ユ-ゴスラビア国際法廷検事カルラ・デルポンテの助言によるという。カルラ・デルポンテ自身、元国務長官マデレ-ン・オルブライトの推薦で任命されていた。デルポンテはNATO軍事介入を後になって正当化するためにスロボダン・ミロセビッチへ人道に対する罪と民族虐殺罪で有罪判決を与える任務を与えられていた。4年にわたる訴訟の間、彼女は戦争犯罪で彼を有罪にするための多量の証拠を得たが、人道に対する罪や民族虐殺に関しては得られなかった。最終的に被告は梗塞-自然な、あるいは人工的な-で死亡し、訴訟は中止され、カルラ・デルポンテは物笑いの種になった。まもなく、彼女が贔屓にするデトレブ・メヘリスも同じ運命に遭うことになる。
これほど複雑な事件の予審を行うために不可欠な控えめな態度を取るどころではなく、メヘリスはイスラエルで養成された衝撃的なコミュニケ-ション・チ-ムに取り囲まれる。チ-ムは7ヶ月の調査をアメリカ風のショーに変えてしまう。チ-ムの重武装した車列が生中継でバシャ-ル・アル=アサドを追跡するかのようにこの地方を縦横に走った。少しずつ、レバノン司法部を援助する国連調査員デトレブ・メヘリスは手続きを無視して独りで行動しレバノンやシリアの警察や司法官に命令するスーパ-国際検事に変身する。彼は容疑者を指名し、国の判事に調査結果を伝えることなく予防的拘置を求める。一言で言うと、国連の名のもとに、彼は「司法の植民地主義」を発明する。
デトレブ・メヘリスは、イスラエルに抵抗するためにシリアの支持を受けた全ての者に恐怖を与える。彼は自己の外見上の全能に酔い、その後突然東洋の砂漠の中に姿を消した。センセ-ショナルな登場から7ヶ月後、一連の劇的展開があって彼の信用は完全に、また決定的に失われた。ベルリンではJunge Welt紙が、メヘリスの元同僚のドイツの判事達がスキャンダルに巻き添えになるのを恐れ、罷免を求める請願書に署名していることを明らかにした。最終的にメヘリスは辞任し、メディアを逃れようとベイル-トを急いで去った。この奇想天外な“シリ-ズ番組”の最初の数回は世界中に放映されたが、物語が一転すると西側メディアは目をそらせた。アラブ系テレビはこのショ-を大いに楽しんだ。
2005年9月1日、デトレブ・メヘリスは思い切った措置を行った。彼はレバノン共和国検事総長に4人の容疑者の逮捕と拘置を要求した。彼が指名した容疑者は、ムエウタファ・ハムダネ(大統領警備隊司令官)、ジャミル・アル=サイエド(治安部隊の元司令官)、アリ・アル=ハジ(国内治安軍の元責任者)、レイマン・アザ-ル(軍情報局司令官)である(« Hariri : quatre responsables sécuritaires déférés devant le juge d’instruction », AFP, 2005年9月1日)。これらの4人の人物は容疑を知らず、それを知るには1ヶ月後のメヘリス氏の報告を待たなければならない。国際世論への国連調査委員会のメッセ-ジは明確である。犯罪はレバノン情報局の4人の人物によって計画され、エミ-ル・ラフ-ド大統領とシリアのバシャ-ル・アル=アサド大統領の命令を受けて行動したというのだ(« Hariri : le président Lahoud dans la ligne de mire de ses détracteurs » ;« L’enquête sur l’assassinat de Hariri prend un tournant décisif »,AFP, 2005年9月2日、3日)。メヘリス氏は声明の代わりにメディアに提出した報告でこう書いている。「委員会の結論および物質的証拠と資料に基づきレバノン当局がこれまで進めた調査によれば、一連の証拠によりレバノン人とシリア人がこのテロに加担したことが示される。シリアの情報局がレバノンに偏在していたことはよく知られている。少なくとも、決議1559の後になされたシリア軍撤退までは存在した。レバノン安全保障責任者を任命していたのは彼らだった。レバノン社会の制度にシリアとレバノンの情報局が潜入していたので、これほど複雑な暗殺の陰謀の計画が彼らに知られていなかったことは考え難い。」(Rapport de la Commission d’enquête internationale indépendante créée par la résolution 1595(2005)du Conseil de sécurité by Detlev Mehlis ; 2005年10月20日国連)アメリカとイスラエルの政府はバシャ-ル・アル=アサドをテロの首謀者として糾弾し、エミ-ル・ラフ-ド大統領を共犯とみなした。安全保障理事会では制裁を決定するための新たな決議が作られる。レバノンとシリアの政府はこの工作に反発し、抗議のデモが企画される。冷戦時代にアメリカを中心に作られた北大西洋条約機構(NATO)擁護派新聞の記者はシリアの政権交代とバアス党政権終結について述べた。
バアス党は汎アラブ主義、政教分離主義、社会主義の政党である。1947年に作られたこの政党は、イスラム教を尊重しつつもそれに頼ることなくアラブ諸国を一つの大きな国家に統合することを目指している。イラクで権力を行使し、シリアでも行使し続けている。過去、バアス党は暴力的な軍政独裁体制を敷いたことがある。2000年に大統領に選出されたバシャ-ル・アル=アサドの推進力により党は正常化した。現在は、制服や儀礼に軍隊の起源の名残りが見られるとはいえ、近代的な政党の一つである。
デトレブ・メヘリスの結論に戻ろう。メヘリスは、レバノン治安部隊が急いで交通止めを解除し証拠の採取が終らないうちに犯罪の現場を乱したことが、彼らの上層部が犯罪に加担していることの証拠だと言う。
ところが、原住民の警察や司法官のミスや怠慢が彼らの隠蔽さらには暗殺者との共犯を証明するという論拠は、帝国主義の古典的な方法である。列強が弱国を人権侵害などで訴え、干渉権を不当に手に入れようとする時、常にこの手段が用いられる。例えば、ハイチでジャン=ベルトラン・アリスティド大統領に対して用いられた。彼の警察がいくつかの暗殺事件を解明できなかったために、それらの殺人の首謀者だという非難を受けた。現実はもっと単純である。多くの弱国と同様、内戦後再建されたばかりのレバノンには有能な人材が乏しく、このような調査を独自に行うための科学警察の手段も持たないのだ。
これらの非難以外に、報告書は匿名の人々の証言と一人の「悔悛者」ザヒル・サディクの証言を論拠としてあげている。この証人はメヘリスから自白とひきかえに身の安全を保証されていた。彼はテロの準備における自らの役割を明かした。自宅での秘密会議、共犯者の名前、作戦の詳細、シリア軍からの物資提供、偽の犯行声明の準備。ところが、名差しで嫌疑を受けたこれらの人々はそのような発言や行為を行ったことを否定した。
国連事務総長コフィ・アナンは、多少なりとも誠実に、推定無罪に反して彼らの名前を記者達の餌にしたことを謝罪している。記者に手渡した紙では名前は伏せられていた-国連のインタ-ネットサイトで発表されたバ-ジョンには誤って名前が載ったのだと。
しかし、国連調査団の最大のミスは、悔悛者ザヒル・サディクの名前を公開したことだった(« Hariri investigation : Key figures », BBC Online, 2005年10月21日)。パリでは、情報局がこの人物を知っていた。フランス側は罠に気づくが、慎重にふるまった(« Attentat auf Hariri-Mordkomplott zu Syriens Gunsten » by Yassin Musharbash, Der Spiegel, 2006年10月21日 ; « Syria claims witness in Hariri inquiry was under duress » by Rory McCarthy, The
Guardian, 2005年11月30日 ; « Syria attacks Evidence as U.N. Case Turns More Bizarre » by Michael Sackman, The New York Times, 2005年12月7日)。ベイル-トでは、ハッサン・ナスララが宣言する。「私達はアメリカとシオニストから非難を受けレバノンとその抵抗運動を支持したことで政治的な制裁を受けるシリア政府とシリア国民の味方であることを明確に表明する。」彼はアラブ連盟にも訴えを行う。
ザヒル・サディクはレバノンを去ったが、フランスに到着すると詐欺容疑で逮捕され拘禁された。この男はデトレブ・メヘリスに自分の身分と履歴について偽の証言を行った。サディク自身の主張とは逆に、シリアの情報局の重要なメンバ-であったことは一度もなく、彼が主張するような役割を演じることはできなかった。アメリカとハリリ派の陣営に移ったリファアト・アル=アサド(シリア大統領の叔父)と親しいサディクは彼と共にマルベラの邸宅で計画を立てた。彼は自発的な証人としてデトレブ・メヘリスに接触し、メヘリスの要請でフランス対外治安総局(DGSE)によってフランスに移送された。フランスで彼は尋問を受けた。国連に彼の証言が記録されると、彼は自分の兄(弟)に自分が偽の証言によって百万長者になったと電話で述べた。そのため、彼を監視していたフランスの防諜局DSTが秘密を発見した。メヘリスは情報を知らされたが、何も知ることを望まない。最終的に、報告書の提出直前に国際逮捕状を出してサディクを黙らせる。サディクはフランスで拘置される(« Le clan Hariri aurait manipulé un témoin clé de l’enquête », Le Figaro, 2005年11月30日)。
1ヶ月後、第二の重要証人、ハッサム・タヘル・ハッサムがシリアテレビで生中継の記者会見を開き、アラブ系ニュ-スチャンネルのほとんどがこれを放映する。彼は強制されて偽の供述を行ったこと、その報酬として130万ドルを受け取ったことを明かした。彼はラフィク・ハリリの息子サ-ド・ハリリとハリリ派の記者ファレス・ハシェン(Farès Khachane)を直接非難した(« Hariri : un Syrien affirme avoir fait un faux témoignage sous la contrainte » ; « Hariri : un témoin syrien se rétracte et jette le trouble à Beyrouth », AFP, 2005年11月28日、29日)。
さらに、記者タラト・ラミ(Talaat Ramih)がアルジャジラの番組「反対意見」においてメヘリス氏の驚くべき経歴を明らかにした。元検事は被告となり、裁かれるべきだという。1980年代、当時のアメリカの副大統領、ジョ-ジ・ブッシュ父はリビア不安定化計画を実施した。共和党の選挙運動に資金援助を行ったハント家を犠牲にして石油を国有化したことへの対抗措置である。CIAはカダフィが自分の家族を保護することもできないとわかった場合ベドウイン族への権威を失うように計らう。
1986年4月5日、GIの黒人が出入りしていたベルリンのディスコ「ラ・ベル」で爆弾テロが起きる。3人が死亡し、230人が負傷した。ドイツの捜査員は慎重に対処するが、アメリカは直ちにカダフィが首謀者であると非難した。発見された証拠によりムシャブ・エテルという人物が嫌疑を受け、マルタ島で尋問される。しかしアメリカ側は、ベイル-トのリビア大使館の職員が犯人であることを示す秘密の情報を握っていると断言した。この人物も尋問を受け送還された。しかし証拠不十分で釈放されそうになる。
4月14日、ジョ-ジ・H・ブッシュとロナルド・レ-ガンはリビアに対し報復作戦を開始する。大統領官邸が爆撃され、大統領の養子の娘を含めた民間人40-100人が死亡した。彼の妻と7人の子供達は重傷を負った。
レ-ガン大統領は数時間後にテレビで発言した。執務室から同国民に語りかけ、軍事活動開始について知らせた。彼によれば、リビアは世界各地でのテロの首謀者である。「ラ・ベル」のテロも同様だ。このテロへのリビア政府の関与はドイツの情報局が傍受した外交官の通信から証明されている。アメリカ政府は国連憲章が認める正当防衛の権利に従い、対抗措置として、テロリストの公共施設に対して行動を起した、と。
15分後に、ドイツの検事デトレブ・メヘリスがマルタ島からムシャブ・エテルの証言を得たと発表する。エテルはCIAの情報すなわちリビア外交官がテロを計画したことが正しいと認めたという。これで米国防省は正当防衛として行動したことになる。
2年後、ドイツのテレビが情報提供者ムシャブ・エテルが実際はCIAのスパイであり、この人物への追跡が中止されたことを明らかにした。リビアの外交官モハメド・アマイリの共犯である人物―真のテロリストである可能性がある人物-はノルウェ-に逃げ、判決を受けることはない。こちらはモサドのスパイだった(Frontal, ZDF, 1998年8月28日)。
デトレブ・メヘリスは20年前からアメリカの利益のためアラブ世界に敵対する活動を行っていることがわかる。
さらに、デトレブ・メヘリスはアメリカのイスラエル擁護ロビ-を自認するアメリカイスラエル公共問題委員会(AIPAC : American Israel Public Affairs Committee)と関係のあるワシントンのグル-プ、ワシントン近東政策研究所(WINEP)で教鞭を執る。アメリカ軍産複合体の研究所、ランドコーポレ-ションにも勤めている。2003年に彼がこの二つの機関から受けた報酬は8万ドルにのぼる。
不幸は続く。Réseau Voltaireの協力者の一人、ドイツの元犯罪捜査員ユルゲン・ケイン・クルベルが破壊的な再調査「ハリリ暗殺問題」を発表した(Mordakte Hariri, Unterdrückte Spuren in Libanon by Jügen Cain Külbel, Zeitgeschichte Band 34 éd., 2006 )。彼はメヘリスが重要な手がかりを無視したことを示した。それを技術的に研究することで、彼はモサドに辿り着いた。
本性が暴かれたことを知り、国連調査委員会委員長はカメラを避けて急いで舞台を去る。コフィ・アナンは2006年1月初め、彼の代わりにベルギ-人のセルジュ・ブラメルツを任命する。
この後任者は前任者とは一線を画することを示すためメヘリスと仲たがいする。しかし言葉よりも行為で示すべきだろう。実際は、ブラメルツは国際法廷でカルラ・デルポンテの補佐官を務めた人間だ。前任者の推薦で任命されたため、ブラメルツは前任者の協力者全員を保持した。
調査は最初からやり直しとなる。
疑わしい証言を除けば、もはや進歩社会党代弁者マルワン・ハマデの尋問しか残らない。彼がラフィク・ハリリから受けたという告白と、アサド大統領とラフ-ドが犯人だという彼の確信についての長いおしゃべりである。証拠物件とは、モサドとNSAが傍受し親切にも提供した通話の筆記記録である。それでも、デトレブ・メヘリスが容疑者として挙げた4人の将軍の拘置は派手な生活をしている一人のレバノンの判事によって継続された。彼らに嫌疑をかける証言はもはや効果を持たず、ブラメルツ自身、彼らが拘置されている理由が理解できないと言っているにも関わらず。
彼らに対して用いられた唯一の証拠は、調査委員会が行った通話分析である。特定された関係者の2235の電話回線に属する70195の通話のデ-タが特別なソフトによって分析された。暗殺者達はテロの当日通話のために6枚のテレフォンカ-ドを購入していた。第七のカ-ドはテロの後、メディアに連絡するために用いられた。同じカ-ドが異なる容疑者達に電話するためにも用いられた。この手がかりについてGIGN創始者で司法警察捜査員、現在カタ-ルとアブダビの首長安全補佐官のポ-ル・バリル大尉に質問すると、大尉は、この作戦の暗殺者達はプロであると述べた。「電話のデ-タが分析され、将軍達に容疑がかかることを知らなかったはずはない。これは将軍達の有罪を示すものではない。暗殺者達が意図的に彼らを犯人にしようとしたことが示される」と彼は結論した(2006年11月と12月、ポール・バリルとの対談)。
国連の調査委員会の混乱にいらだち、アメリカとイスラエルの政府は次の段階に集中する。両国はレバノン軍事介入を準備する。
レバノン攻撃計画
国連調査委員会が起訴問題で手こずり、CIAがバシャ-ル・アル=アサドの後継者を探している間に、アメリカとイスラエルの参謀本部は彼らの攻撃計画を作った。アメリカ軍はイラク戦争で忙しく、休暇のリズムも遵守することができない。ドナルド・ラムズフェルド国務長官は新規の軍がレバノンやシリアに送られることを望まない。作戦はイスラエル軍の下請けに任されることになった。装備品、弾薬、情報局はアメリカのものを使う。
私達独自の情報筋によれば、ラムズフェルドは問題を信頼のおける人間、元特殊参謀本部議長バンツ・J・クラドック将軍に任せた。彼は南方軍(ラテンアメリカのアメリカ軍)でグアンタナモの尋問センタ-を設置し終わったところだ。クラドックは2006年9月の終わりにNATOの最高指揮官かつアメリカ欧州軍(欧州に駐在するアメリカ軍)の最高司令官に任命されることが決まった。この機会に指揮の地帯が改変された。アメリカ欧州軍はすでにイスラエルとトルコに拡大されていたが、レバノンにまで拡大される。全ての作戦はそこから指揮されることになる。戦争後は、クラドックは安定化のためのNATO軍を指揮し続けるはずだった。
イスラエルは複数のシナリオを想定する。San Francisco Chronicleによればイスラエル軍の士官がアメリカの様々な決定グル-プに最終的な計画を提示した(« Israel set war plan more than a year ago. Strategy was put in motion as Hezbollah began gaining military strength in Lebanon » by
Matthew Kalman, San Francisco Chronicle, 2006年7月21日)。この計画は3週間の戦争を予定する。「最初の1週間はヒズボラの長距離ミサイル発射台の破壊、指揮センタ-の爆撃、交通の遮断に集中する。二週間目に、標的はロケット弾発射施設と武器庫に移る。三週間目に陸軍が侵入するが、これは偵察任務の際に特定された標的を捕えるためである。」
私達が得た情報によれば、物資や弾薬は51、53、55、56と名づけられているイスラエルの米軍基地に運ばれた。再補給はイタリアのアヴィアノ基地に存在する第16空軍からもたらされる。戦争がシリアまで広がった場合は、フランスのイストルを含めた欧州やトルコの各地の軍事飛行場を必要に応じて使うことになった。
イスラエルはアメリカ軍心理戦争部隊がユ-ゴスラビアで作りイラクで実施した「犬の戦い」モデルを実験することになった。アイデアは単純だ。国をわずかな人間で統治することが可能だ。愛国心を壊し、国民を相対するグル-プに分裂させ、互いに敵対させ内戦を引き起こしさえすればよい。まず初めに国境を閉ざし、交通を遮断して国を孤立させ、特定のグル-プによる殺害計画についての噂を流し、テロを計画してそれを信用させる。すぐにかつての友人は互いに恐怖を抱き、いがみ合うことになる。
このモデルをレバノンに適用するのは一層容易である。レバノンはすでに恐ろしい内戦を体験しており(1975-1989)、社会の仕組みがこの種の操作に適しているからだ。「レバノン国民の計画は市民平和と共存だったにも関わらず、レバノンにおけるアメリカの真の計画は内戦を扇動することだった。(……)レバノンが内戦に戻ることはない。政治勢力とメディアが宗教間の緊張を減少させる努力をし、再びレバノンを破壊することは許されないと皆に理解させるべきだ」とハッサン・ナスララは2006年4月、内戦31周年記念日に宣言している(« Le Hezbollah accuse les USA d’avoir un projet de guerre civile au Liban », AFP, 2006年4月15日)。
客観的に言えば、内戦を再び引き起こすことはそれほど困難ではない。レバノン人は共存することを学んだとはいえ、相変わらず国民的感情を感じていないからだ。
レバノン内部の均衡
憲法と内戦を終らせたタエフの合意が宗派主義を少しずつ排除することを目的に掲げているとはいえ、歴史はレバノン国民を17の認定宗派に分け、各宗派が独自の市民法と法廷を持った。国家の最高職務は宗派の間で分割されている。大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンニ派、下院の議長はシ-ア派、等。全ての行政部は割当てのシステムに規制されている。人口の現実は大きく変わったが、割当ては1932年の人口調査に従って計算されている。4800万人のレバノンのうち、今日マロン派は35%、シ-ア派は29%、スンニ派は29%、ドゥル-ズ派は5%と考えられている(Youssef al Douweïhiの研究、An-Naharが発表2006年11月13日)。もっとも、この調査ではシ-ア派とスンニ派が同数であるが、それは誤りで、シ-ア派が明確に多数派になっている。内戦の流血の戦いの後、皆が理解したのは、悪い妥協も良い戦争よりはましだということだ。こうして敵の同胞達は礼儀正しく国民統合政府の議席を占める。
さらに、レバノンとシリアは1916年、地域を分割したフランス帝国とイギリス帝国によって作られた。その日以来、レバノンとシリアの政治責任者の大部分は両国の統合さらにはアラブ民族全体の統合を望んできた。しかし、レバノンの政治家の中には両国が1世紀近く前から別々に発展してきたため-経済格差が大きすぎて-統合は不可能だと強調する者もある。特に、統合により共同体間の人口比率が変わる。そのため、キリスト教徒は常に統合に反対し、イスラム教徒は逆に賛成してきた。最終的に、2006年2月以来統合を諦めるが両国の緊密な隣国関係を定めるコンセンサスが作られている。ベルリンの壁崩壊後のドイツ統一や朝鮮に関する討論を思わせる。この問題は関係者にしか解決することができない。ところが、NATOプロパガンダにおいてはアメリカやフランスの政府に忠実なレバノンの政治家は「西側擁護派」と呼ばれ歓迎される一方で、民族独立を擁護する人々は軽蔑的に「シリア擁護派」と呼ばれる。しかし、ドイツとの比較を続ければ、統一を準備したヘルム-ト・コ-ルは「ドイツ民主共和国擁護派」と呼ばれることがあっただろうか?
この文脈で、アメリカの大衆操作専門家はラフィク・ハリリ暗殺を利用して、グルジアのバラ革命、ウクライナのオレンジ革命、キルギスタンのチュ-リップ革命に倣った杉の革命を引き起こそうとした。その原則はよく知られている。大衆の欲求不満を贖罪のヤギに集中させ、市民の不服従により政府崩壊を引き起こし、群集が意識を取り戻す前に新たなチ-ムを課すことだ。内戦とイスラエル占領を忘れたいレバノン人は、この暗い時期の最後の名残りであるシリア軍を攻撃する。群集はバシャ-ル・アル=アサドを罵倒し故ラフィク・ハリリを英雄視する。国は再び分裂し、シリアの保護の賛成派、反対派の大きなデモが続く。しかし、色の革命のレシピは失敗した。シリアが憤慨するどころか自発的に軍隊を撤退させたからである。贖罪のヤギがいなくなり、有権者達は理性を取り戻した。集団的な感情と不公平な選挙区割りを利用して2005年5-6月の選挙では故人の息子サ-ド・ハリリの連合が過半数を獲得したとはいえ、計画されたような群集の波は生まれなかった。ネオコンの「ドミノ効果」―ダマスカスからテヘランまで民衆蜂起が伝染する-の夢はかなわなかった。
国会で過半数を占めるこの連合は、失敗に終った杉の革命の間に計画されたシリア軍駐在反対デモを喚起する3月14日連合という名を持つ。10つの党が含まれる。ハリリ家の未来潮流(スンニ派)、ジュンブラット家の社会進歩党(ドゥル-ズ派--シ-ア派の反対派とみなされるイスラム信心会)、ミシェル・アウン将軍の自由愛国党(キリスト教)、サミル・ジャージャのレバノン軍団(キリスト教)が含まれる。これら全ての党はアメリカ擁護派であるが、イデオロギ-的には雑多である。未来潮流はアメリカの共和党と親しく、社会進歩党は社会主義インタ-ナショナルのメンバ-であり、自由愛国党はキリスト教民主主義に属し、レバノン軍団(元ファランヘ)は明確にファシスト団体である。
3月14日連合は資産家階級と同一視できる。この連合はハリリ家とジュンブラット家が基盤となっている。ハリリ家は再建のための国際援助の半分を横領して世界で15番目の財産を獲得した。ジュンブラット家の財産はそれよりは少ないが、それでも彼らは百万長者であり、内戦の間に戦利品を蓄えて財産を作った。ワリド・ジュンブラットは戦争犯罪人である。彼は1984年にアブラ村などのギリシア正教の村を破壊した(« Nettoyages », André Fontaine, Le Monde, 1985年5月29日)。
複数の選挙区で投票結果の誠実さに関して深刻な疑いが存在するが、内戦でひどい目にあたレバノン人達は異論を唱えるのを諦めた。いずれにせよ、3月14日連合はもはや有権者の4分の1だけに支持されているようだ。
反対派は、今日ヒズボラに支配されている。その生成過程と変遷を無視して「シ-ア派党」と誤って提示される団体だ(Hizbullah, The Story from Within, by Naim Qassem, Saqi.éd.,2005. ; Le Hezbollah, un mouvement islamo-nationaliste, by Walid Charara and Frédéric Dumont, Fayard éd., 2004. ; Hezbollah, by Hals Jaber, Columbia University Press éd., 1997.)。
1982年から2000年のイスラエルのレバノン占領は国の南部において特に残酷だった。恣意的な逮捕、不法拘置、拷問が大規模に行われた。抵抗者のグル-プがあちこちにできた。最も貧しい社会階級の人々が多かった。失うべき財産はなく、勝ち取るべき名誉だけを持つ人々だ。このような状況では常にそうだが、抵抗ネットワ-クはメンバ-同士の固い信頼関係に基づいて作られる。共同体別に分かれた社会では、共同体への帰属に基づく。抵抗組織はイマムのシ-ア派の間に大量に生まれた。多くはイマムのム-サ・サドルの記憶やイラン革命から着想を受けた。「地に呪われた人々」はシオニストの占領と社会不正に対して蜂起した。このばらばらのネットワ-クは少しずつ連結し合い、ヒズボラのもとを作った。この名前は標語から来ている。「勝利するのは神の陣営である。」コ-ランの抜粋である(スーラ5、56節)。
2000年のイスラエルに対する最初の勝利とエフ-ド・バラクの命令による部分的撤退の後、ヒズボラは民族抵抗運動の政党としての態度を明確にした。慎重に行動し、占領の終わりにも協力者への復讐や野蛮な浄化が起こらないよう注意した。ヒズボラは民主的政治活動を行い、すべての共同体に門戸を開いた。相変わらず外国の占領下にあるシェバア農場の解放を誓い軍の支部を維持した。
ヒズボラを宗教原理主義と同一視するのは間違いである。これは、イスラム教に由来する政治組織がすべて反啓蒙的であるかのような見方だ。実際は進歩的な運動であり、カトリックのラテンアメリカの解放の神学者達の運動と比較できる。そもそも二つの潮流は接点を持つ。多数のレバノンのイスラム教徒ディアスポラがラテンアメリカに住み、パレスチナ人のカトリック教徒が解放の神学の近東バ-ジョンを発達させたのだ。
国会では、ヒズボラは他の二つの政党と共にグル-プを形成する。
まず最初にアマル。ヒズボラよりも古い政党で、ヒズボラの指導者達はその中で政治活動を始めた。指導者は現在の下院議長ナビハ・ベリである。
そして、アリ・カンソの汎シリア社会民族党、最も古いレバノンの政治団体である。1932年にフランスとイギリスの帝国主義に対抗するために生まれた。政教分離主義で反ファシスト政党であり、選挙における重みよりもはるかにまさった知的影響力を行使する。多くの重要人物がこの党に加わった。ハッサン・ナスララの父も一時期党員だった。
他の党は彼らに従った。
首長タラル・アルサンのレバノン民主党はジュンブラット派の不安定な同盟に反対するドゥル-ズ派の一部を集める。
最後に、皆が驚いたことには、ミシェル・アウンの自由愛国党がアメリカの保護者と手を切り3月14日連合を離れて反対派に加わった。自由愛国党はマロン派キリスト教のブルジョワジ-からなる大きな党である。元レバノン軍参謀長官で、また批判を受けた元首相でもあるミシェル・アウンは長い間シリアの保護とパレスチナ義勇軍への反対を体現してきた。湾岸戦争の際にフランスに見捨てられ、1990年亡命を余儀なくされ、2005年、シリア撤退後に初めて帰国することができた。亡命中は恨みを抱くなどと描写されたが、そのイメ-ジとはほど遠く、アウン将軍は内戦にきりをつけ、宗教的分裂を排除した真に民主的な未来のレバノンの基礎作りに取り組んだ。シリア撤退後はシリア政府との争いを終結させたと考え、バシャ-ル・アル=アサドの政府と礼儀正しい関係を結び、シリア軍がヒズボラの軍の派閥を支持してシェバア農場を解放しようとすることには何の問題も認めない。国の独立に身を捧げ、「シリアの干渉」(タエフの合意が市民平和維持をシリア軍に任せた際)に対する戦いから今日のイスラエルのシェバア農場占領とアメリカによる内政干渉に対する戦いへの連続性を明確に示す。
ヒズボラと自由愛国党は交渉し「合意文書」を実現した。これは様々な理由で注目すべき資料である。過去を乗り越えてこれを書くには、ハッサン・ナスララとミシェル・アウンの大きな知恵が必要だったろう。また、この文書は決議1559が提示する全ての問題を含めた様々な問題に解決をもたらす。
他方で、国連の捜査員とレバノン情報局は調査を続けていた。調査は予期せぬ展開を見せることになる。
テロの首謀者は誰か?
2006年6月14日、国連調査委員会の新たな責任者、セルジュ・ブラメルツは安全保障理事会に報告書を提出した。会議の報告を見る限り、彼が現実に行った慎重な介入は前任者の派手なスク-プとは対照的である。
「委員会は予備的ないくつかの結論に達したとブラメルツ氏は述べた。2005年2月14日12時55分5秒に起きた爆発は表面の爆発であり、地下爆発ではなかった。にわか仕立ての大きな爆弾が三菱の自動車に仕掛けられており、ラフィク・ハリリの車が傍を通った時に爆発した。爆弾には1200キロのTNTに相当するものが含まれており、三菱トラックの中か前にいた人物によって起爆されたと考えるのがもっともらしい。委員会は、ロイタ-通信社とアルジャジラに送られたビデオの録画で犯行を認めた者が攻撃の犯人であるとは考えない。爆発の場所で採取された人間の残骸に由来するDNAは、テロ犯行を主張するアーメド・アブ・アダスがラフィク・ハリリと他の22人の生命を奪った爆発を起爆した人間ではなかったことを示すとブラメルツ氏は述べた。使用された爆発物の量と爆発の規模の大きさから、ラフィク・ハリリに対する犯罪は標的殺人であるとブラメルツ氏は指摘した。レバノン元首相の車が爆発を直接受けなかった場合も彼を殺すことを目的としていたことがわかる。
委員会はテロの組織について二つの仮定に基づいて調査を進めた。まず、攻撃が個別的に組織・実行されたという仮定。計画、現場の認知、爆発物の製造、トラックの購入、爆発物を起爆する人間の選択、テロ犯行声明のビデオ製作に複数の人間が関わり、各段階の準備は互いに接触を持たない人々によって行われたとする。第二の仮定は、ラフィク・ハリリ殺人は唯一のグル-プに任せられたとする。テロ首謀者に関して委員会はいくつかの仮定とシナリオを発展させたとブラメルツ氏は述べた。(……)これに関し、委員会は暗殺の際レバノンと地域で支配的な公式、非公式な構造を明確にするのを助ける人々と共に尋問を続けている。委員会は異なる組織のレバノン・シリア士官を尋問している。
調査委員会への協力国に関し、ブラメルツ氏は報告書が扱う期間シリアが提供した援助は満足のゆく内容だったと述べた。シリアは直ちに全ての求めに応じ、いくつかの点において詳細な返事を与えた。(……)他のメンバ-国へもますます多くの援助が求められた。2006年3月15日以来、委員会は32から33カ国のメンバ-国に援助を要請し、調査が国際的であることを示す。レバノン政府とのやりとりは全てのレベルで非の打ち所がないもので、レバノン検事総長と調査判事の取り組みと支持のおかげで委員会の調査に進歩が見られたとブラメルツ氏は述べた。レバノン政府、軍、国内治安軍は委員会の任務遂行に必要な安全を保証したとブラメルツ氏は述べた。調査委員会の長はまた、委員会が2004年10月1日以来起きた14回の攻撃に関しレバノン当局に援助を提供したことを述べた。委員会は各テロの調査を進め、調査を統合するよう努力し潜在的な相互関係を示すようにした。(……)分析的に見ると事件は様々な形で、特に実行形態と意図に関して関連している可能性がある。」(安全保障理事会報告2006年6月14日、5458回会議、朝。ONU : CS/8747)
ブラメルツが過去の犯罪について調査を行っている間、事件は続く。ラフィク・ハリリはヒズボラと対話中に暗殺されたとすれば、ハッサン・ナスララも1年後に暗殺されるはずだった。しかしレバノン情報局がその陰謀を失敗に終らせた(« Liban –Complot déjoué contre le chef du Hezbollah », Reuters, 2006年4月10日、 « Lebanese intelligence said to thwart plan to kill Hezbollah chief », « Lebanese military court charges 14 suspects in plot to kill Hezbollah leader », BBC, 2006年4月10日、 »Lebanese Army Says Foiled Plot To Kill Hezbollah Leader », Dawn Jones Newswire, 2006年4月10日など)。
2006年4月の最初の週末、軍は「一つのネットワ-クに属するよく訓練されたメンバ-」9人を逮捕する。テロを準備していた8人のレバノン人と1人のパレスチナ人だ。この「組織されプロで訓練を受けていた人々のグル-プ」はエジプトとサウジアラビアがこれ見よがしに調整役を果たし、ロシアが控えめに、しかし効果的に参加したレバノン派閥の指導者間の国民対話の会議の際にテロを実行するはずだった。
軍のスポ-クスマン、サレ・スレイマンによれば、事件は「準備段階」にあり、まだ「実行の段階」には達していなかった。この集団は3月以来ナスララの移動をスパイしており、対戦車ロケット弾で武装しており、テロの当日にはこれでヒズボラ書記長の装甲車を爆破する予定だった。当局はロケット弾発射機、手榴弾、ポンプ銃、機関銃、無音ピストル、コンピュ-タ-のバッテリ-とCD-ROMを押収した。
レバノン日刊紙アッサフィルによればアメリカ製のロケット弾がベイル-トで4月28日ナスララとその装甲車を爆破する予定だった(La longue route d’Israël vers la guerre de juillet, Jürgen Cain Külbel)。軍判事ラシド・ミツヘルの調査によれば、この犯罪に90人以上が関与していた。そのうち何人かはナスララの自動車を40日間監視していた。他の者はガレ-ジを武器庫に変え、アメリカ製のロケット弾、ロシア製の機関銃、中国製の手榴弾を隠した。計画者達はC4や他の爆発物も入手しようとした。他の人物の暗殺やモスクへの爆弾テロも計画していたからだ。
ベイル-ト南部のヒズボラ司令部の近くで逮捕された共謀者は軍の情報局の尋問を受けその後軍問題担当判事に引き渡された。当局は他の共犯者の捜索を続け、首謀者すなわち「ネットワ-クに資金を与え訓練し武器を与えた国か派閥」を明らかにしようとした。
これらの情報にコメントしたハッサン・ナスララは国民に警戒を呼びかけた。この陰謀はラフィク・ハリリ暗殺や他の人物の暗殺と同様、国民対話破壊と内戦再開の目的を持つと彼は述べた(« Le Hezbollah accuse les USA d’Avoir un projet de guerre civile au Liban »,AFP, 2006年4月15日)。
未来潮流(ハリリ派政党)のメンバ-である元議員が共謀者達に様々な武器の所持を許可していた。この人物、ハリリJrの選挙運動責任者でハリリ父の親しい友人のサリム・ディアブは彼の政党の「政治・軍の支部の攻撃隊長」とみなされている。2005年7月から早くも彼は武器を支持者に配っていた。
ワリド・ジュンブラットの社会進歩党のメンバ-1人も警察に逮捕された。
テロリストのネットワ-クがなくなり、レバノンは国内の政治騒乱から守られる。レバノン情報局から漏洩する情報によれば、テロ集団はナスララの暗殺によりイラクと同様宗教間の-スンニ派、シ-ア派、アラウィ派、ドゥル-ズ派、マロン派、コプト派の間の-緊張を引きこすことを望んでいた。レバノン大統領エミ-ル・ラフ-ドは深い調査を求め、レバノンの国の統一を破壊しようとする敵に対する警戒を呼びかけた。彼はナスララがレバノン南部の解放に重要な貢献をし、常に国の平和のために取り組んできたと述べた。首相のフアド・シニオラは「この種の計画は全て市民平和への脅威である」と宣言した。国会議長ナビハ・ベリは、イスラエルが国民対話を破壊するためのこの陰謀の背後に存在すると考える。統一した平和なレバノンはイスラエルにとって「危険」を意味するからだ。ベリはこれら全ての作戦はシリアも標的にしている、ヒズボラへの支持を罰するためだと付け加えた(« Im Terrorsumpf », Jürgen Cain Külbel, Junge Welt, 2006年4月19日 )。
ハッサン・ナスララ暗殺の企てに関わった人々の逮捕後2ヶ月以内に別の人物がテロの犠牲になった。今回は、調査が殺人者のネットワ-クの解体を可能にした。彼らは何年も前から一つの敵国のためにレバノンで活動していた。
2006年5月26日、パレスチナのイスラム主義ジハ-ドの司令官の一人マフム-ド・アル=マジズブが南部のシドン市で自動車爆弾テロで殺された(« Palestinian Islamic Jihad confirms official killed in Lebanon attack » ;« Lebanese MP blames Israel for attack on Palestinian Islamic Jihad official », BBC monitoring, 2006年5月26日)。イスラム主義ジハ-ドのレバノンの指導者アブ・イマド・リファイはモサドが犯人だと述べた(« Islamic Jihad Accuses Israeli Intelligence Over Car Bomb », AP, 2006年5月26日 ; « Islamic leader killed in Lebanon blast », AFP, 2006年5月26日)。
ベイル-トでは、政府はテロを非難し「イスラエル占領の印」が見られると述べた。首相のフアド・シニオラも公然と「イスラエルは主要な容疑者だ」と述べた(« Islamic Jihad member, brother die in Sidon car bomb » by Leila Hatoum ;« Cabinet points finger at Israel in Sidon bombing » by Nafez Qawas, Daily Star, 2006年5月27日)。
シドンで使用された遠隔操作爆弾は特に意味深い。凝縮された500gの爆弾が通常の5kgの爆弾と同じ効果をもたらした。レバノン情報局によれば、この種の爆弾が前年にレバノン共産党の元党首ジョルジュ・ハウィと記者のサミル・カシルを暗殺するのに用いられた。「爆発の現場で大量にみつかった鋼鉄の小玉の破片が、爆弾が標的暗殺のために特別に作られた地雷であることを示す。ハウィとカシルの暗殺の現場でみつかったものと同一である。」国連はラフィク・ハリリ暗殺の調査の枠組みでハウィとカシルの暗殺を調査する(« Israelischer Bombenterror », Jüngen Cain Külbel, Jungen Welt, 2006年5月31日)。捜査員達はこの3つのテロの方法が同じであることを認めた。
2006年6月半ば、このテロを調査中に、レバノン情報局はイスラエル情報局がレバノンに設置したテロリストのネットワ-クを発見した。シドンのテロの犯人はこの組織に属していた(« Beirut steps up search for head of terror gorup tied to Mossad », by Karine Read ; « Judiciary starts work on case of
Mossad-linked terror group », Daily Star, 2006年6月20日、27日)。
取調べを受けた7人のメンバ-の中に、ドゥル-ズ派のハスバヤ村出身の59歳のレバノン人マフム-ド・ラフェハが存在する。レバノンの退役憲兵で国内治安軍(FSI)の元メンバ-である。彼はイスラエルによって1982年-2000年に作られ武器を与えられた義勇軍、レバノン南部軍のメンバ-でもあった。彼は警察に、1994年にモサドに採用されイスラエルで養成を受け「ハイテク」装備品と偽のパスポ-ト二つ、資料と許可証を与えられたと述べた。ハスバヤの家でモサドと直接接触しており、暗号を用いて通信していた。家宅捜査の際、捜査員は指名された「標的」の住所をイスラエル航空機に送るための電子器具を発見した。
レバノン国防大臣エリアス・ムルは2006年6月15日木曜日にイスラエルの航空機がシドンで自動車爆弾を遠隔操作で起爆したと述べた。「これまでに得られた情報により、爆弾が仕掛けられた自動車の爆発は尾行トラックに設置された監視カメラで車の動きを追っていたイスラエルの航空機によって引き起こされた可能性が高い。」国防大臣はまたこうも述べる。「30年にわたるイスラエルのレバノン軍事介入において、これほど高度な技術を用いた作戦は初めてだ。テロ技術、爆弾に関するこれほどの覇権に対しては、誰一人、いかなる場所でも安全ではない。」(« Israeli Plane Detonated Bomb That Killed Two Islamic
Djihad Officials, Defense Minister Says », An Nahar, 2006年6月16日)
レバノン軍はテレビでシドンのテロの証拠物件を提示する。イスラエル製の特別カメラ、偽の免許証と身分証明書、爆発物輸送のための改変エアコンシステム、爆弾仕掛け拡声器。軍は、テロリストが最終的に、爆弾の詰まった自動車のドア-レバノンに密輸された-の使用を選んだと述べた。
レバノン軍は声明で述べている。「軍の治安部の調査により、高度な技術を持つテロリスト組織は数年前からイスラエルのモサドと接触していており、イスラエルや国外でモサドに養成されていたことが分かった。このネットワ-クは(……)イスラエル情報局によって通信、監視、標的の特定のための器具を与えられていた。偽の資料や二重の底を持つ袋などが同様に与えられた。」モサドが彼らに弾薬を与えていたという。
2人の死者を出したシドンのテロ以外に、テロ組織の指導者マフム-ド・ラフェハはヒズボラ幹部アリ・ハッサン・ディエブ(アルバ、1999年8月6日)とアリ・サレ(2003年8月2日)の殺害、パレスチナ解放人民戦線の司令官アフマド・ジブリルの息子ジハ-ド・アフマド・ジブリルの自動車爆弾による暗殺についても自供した。彼はテロ未遂事件を繰り返し、警察が未然に防いでいた。2005年1月18日にはアルザフラニ近くでテロを計画し、1999年8月22日にはジスル・アルナメハの近くでパレスチナ運動の幹部を狙った。
レバノンの情報筋によれば、ラフェハは他の作戦においても物流面での支援を行った。2005年春以来、爆弾の入った袋をベイル-ト東部、レバノン山脈、レバノン南部に輸送した。レバノン内務大臣はメディアにこう述べている。「イスラエル特別軍が海のル-トで爆発物の入った袋をラフェハに届けていた。ラフェハはベイル-ト北部でそれらを受け取っていた。」
イスラエルはレバノンの協力者に彼らの真の標的を教えないよう注意を払った。彼らの役割は特定の場所に要素を置き、イスラエルの仲間が回収できるようにすることだ。マジズブの場合、テロの3日前、モサドのスパイが2人、ベイル-ト空港に偽のパスポ-トを持ってで入った。シドンでこれらのスパイは自動車爆弾を準備し作戦の成功の直後に国を去った。レバノンの協力者はクファキラとシェバアの間の陸路で、あるいは不法な海のル-トでイスラエルから装備品を受け取った。
マフム-ド・ラフェハはフセイン・カタブという名のパレスチナ人と協力して働いたことを明らかにした。このパレスチナ人は1982年にイスラエルの刑務所にいたときモサドに採用されたという。囚人の交換を利用して釈放された後、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)に潜入した。彼はPFLPの司令官の息子の暗殺に関わったという。組織から裏切りの疑いをかけられ、シリアで逮捕され、レバノン当局に引き渡された。レバノンは彼を証拠不十分で釈放した。ラフェハ逮捕直後、フセイン・カタブはレバノンから逃亡しイスラエルに亡命した。
ロンドンのタイムズ紙によれば、「最近レバノンでのイスラエル諜報ネットワ-クについて明らかになった事実により、セルジュ・ブラメルツが調査していたハリリ暗殺とそれに続く14の爆弾による暗殺・暗殺未遂事件に関する驚くべき関与が示された。」(« Death squad spy ring is captured », by Nicholas Blanford, The Times, 2006年6月16日)
レバノン大統領エミ-ル・ラフ-ドにとって、これらの事実は「イスラエルがレバノンで破壊工作を続けていたこと」の証拠である。彼は捜査が継続され、その結果が元首相と14のテロの調査を行う国連特使セルジュ・ブラメルツにもたらされると宣言した。
一連の要素がレバノンの公的討論に表面化し、イスラエルがレバノン著名人の暗殺の背後にいることを示唆し、シリアの犯行であるという説を問題視させた。テルアビブとワシントンでは、政治と軍の責任者が地域での彼らの計画に影響が及ぶことを心配し始めた。次にもたらされた情報が火薬に火をつけることになる。
戦争を早める
2006年6月21日、イスラエル情報サービスのデブカファイルが、メイル・ダガンその人がマフム-ド・ラフェハを採用していたと発表した。投獄されていたスパイは1989年に「ヘブライ人国家によって標的とされた人々に対するイスラエルの作戦を現地で準備するための物流情報センタ-」設置のためダガンに採用されたことを認めた(« An exploding car door detonated by an Israeli plane over Lebanon is suspected of killing the brothers Mahmoud and Nidal Mahjub in Sidon May 26 »,Debka.com, 2006年6月21日)。当時ダガンはレバノン南部のイスラエル占領軍の司令官だった。彼は非常に残虐だったという記憶を残した。2002年に友人アリエル・シャロンが彼をモサド長官に任命した時、ダガンはレバノンで一連の暗殺を実行するためラフェハのネットワ-クを起動した(« Mossad’s new chief revives Isreal’s death squads » by Ed. Blanche, Daily News (Beyrouth), 2006年5月24日)。
レバノン人は自国内のテロが直接イスラエル上位責任者の命令で行われていたことを示す大量の情報にいらだった。2006年6月24日、戦争開始の3週間前、レバノン外相ファウジ・サルクは「レバノンは、国連の安全保障理事会に訴えこの機関がレバノンで最近再開されたイスラエルのモサドの諜報の問題を扱うようにする権利を持つ」と宣言した。外相はまた、イスラエル諜報組織とこれに関与する人物に関する情報を国連事務総長コフィ・アナンに伝える意図があると述べた。国連がこの事件を安保理の月一回の報告の中に含めなかったので大臣は憤慨していた。「この事件は非常に危険である。イスラエルがレバノンの領空を侵害するために特に危険である」と彼は付け加えた(«Lebanon Condemns U.N. for Ignoring “Israeli Spy Network”» Israel National News, 2006年6月25日)。
レバノンが最終的に国連安全保障理事会に「破壊工作と領土侵害」についてイスラエルに対する訴えを起した時、国連代表ゲイル・ペダ-ソン、ベイル-トのイギリス大使ジェ-ムズ・ワット、アメリカ大使ジェフリ-・フェルトマンはイスラエルを事件から切り抜けさせようとした。
フェルトマンにはアイデアがあった。彼の見方によれば、諜報網を「狩り出した」のは「レバノン情報局ではなくヒズボラである」。これはヒズボラの「政府内での権限の逸脱の企て」である。
コンドリ-ザ・ライス国務長官のイラク問題担当補佐官ダヴィド・サターフィ-ルドはシリア政府に「イラクの過激派によりシリアの安定が脅かされる」と警告することさえする(« US accuses Hizbullah of attacks in Iraq », Daily Star, 2006年6月22日 ;« Lebanese Hezbollah denies involvement in Iraqi insurgency », Xinhua, 2006年6月22日)。彼によれば、ヒズボラは敵イスラエルに対するレバノン南部での活動に満足せず「イランと共に活発に暴力的な活動に参加しており、(イラクで)イラク、アメリカ、イギリスや連合軍の他国の兵士を殺している。イランの関与は様々な形を取るが、最も有害なのは精巧な爆発物の散布である。これを終らせなければならない。」サタ-フィ-ルドは詳細を提示することを拒否し、モサド長官メイル・ダガンが既に述べた同じ断言を振りかざすだけで満足する-イランとその「私生児」ヒズボラがイラクでの爆弾テロの直接の責任者であると。
この防火措置にも関わらずパニックがテルアビブとワシントンを襲い始めた。問題解決が余儀なくされた。モサドの暗殺行為に関する調査を中止させレバノン人が真実を知ることを妨げる唯一の手段は、秋に計画されていた戦争を早めることだ。この問題はAmerican Enterprise Institute(アメリカ公共政策研究所)が毎年コロラドのビ-ヴァ-クリ-クで開く国際フォ-ラムの場で2006年6月17日と18日に討議された。イスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフ、元大統領ジェラルド・フォ-ド、国防長官ドナルド・ラムズフェルドがリチャ-ド・パ-ルとナタン・シャランスキ-と共に長い議論を行った。
6月22日、米国防長官ドナルド・ラムズフェルドとの共同記者会見で、イラク米軍司令官ジョージ・ケ-シ-将軍は同じ言葉を繰り返す。「我々はイランの訓練活動にヒズボラが使われていることを示す要素を持っている。」
アメリカ側のこの扇動・愚論の目的はラフィク・ハリリの暗殺がシリアではなくイスラエルの犯行であるという疑いの出現にブレ-キをかけることだった。
7月7日、デイリ-スタ-紙は「イスラエル軍は2週間前から(レバノン国境付近で)最大の警戒態勢にあり、レバノン領空侵害を開始した」と伝える(« Beirut expects Security Council to grant full airing of complaint over Mossad hits » by Read El Rafei ; « Jewish state maintains ‘high alert’ on Lebanese
border » by Nada Bakri, The Daily Star, 2006年6月21日、7月7日 ; « Lebanese Complain of Israeli Assassinations », by Benny Avni, New
York Sun, 2006年6月20日 )。
4日後の2006年7月11日、アルマナ-ルのニュ-スはレバノン政府が国連安全保障理事会に対し、年の初めからイスラエルがレバノンの地で行っているテロ活動を国際法に基づいて非難する決議あるいは宣言を要請したと報じた。アルマナ-ルは、この要求が「アメリカとフランスを狼狽させる」と述べている。ニュ-スではまた、レバノンの匿名の外交官の情報によれば「西側諸国は外国でのモサドの活動について安保理に会議を要請しないようベイル-トに圧力をかけている」と報じた(« Western countries urge Beirut not to call for a UN Security Council meeting over the captured Israeli network », Al-Manar,
2006年7月11日)。
レバノン外相はその日に、安保理への要請を諦めるよう政府に圧力をかけている者の中にアメリカ大使ジェフリ-・フェルトマンが含まれることを認めている。大臣は「西側諸国が不平等な政策を行うことが残念であるが、ベイル-トはこの問題について安全保障理事会の会議を引き続き要求するつもりである」と述べた(« USA und Frankreich schützen Mossad » by Jürgen Cain Külbel, Junge Welt, 2006年7月14日)。
その数時間後に、ヒズボラは2人のイスラエル兵を捕える。この事件を口実として、イスラエル戦争機械は以前から計画していた攻撃を開始する。しかし、空爆にも関わらず、レバノン安全保障局は仕事を続けた。
ベイル-トのアラブ語新聞リワアは2006年7月27日に当局が戦争開始以来「敵と契約して情報を伝え戦闘機・戦艦の攻撃地点の特定を行った」53人の人々を逮捕したと報じた。ベイル-トの日刊紙アドディヤルも前日に、敵のために諜報行為を行った70人以上のスパイが逮捕されたこと、ベイル-トの南部だけで20人が逮捕されたことを報じた。
その前の日曜日に、レバノン日刊紙アッサフィルは「この諜報組織の責任者」が尋問の際「2人の兵士の捕獲の4日前、イスラエルは全ての諜報員を最大の警戒態勢に置き、潜伏していたスパイに、レバノン全体主にベイル-ト南部の郊外における中心的建物とヒズボラの事務所を監視させるための指示と技術を与えたことを告白した」と報じた。
この日刊紙によれば、「イスラエル情報局の高官」が「レバノン領土とくにベイル-トと南部に存在し何年も前から活動していたイスラエル諜報員のネットワ-クについての情報」を与えた。
彼らは、日程を早めて、はるか以前から計画していた征服戦争を始めたように見える。これによりイスラエルは、結果が外交的な動乱を引き起こす可能性がある捜査を中止させるつもりだった。この攻撃で自分達が勝利すると確信していたイスラエルは、ベイル-トの安全保障事務局を破壊しようとしなかった。しかし、敗北の直後、彼らは防諜担当補佐官でありモサド諜報網についての調査の責任者だったサミル・シェハド大佐に対するテロを企てた。9月5日に彼の車列が攻撃を受けた。大佐と他の4人が重傷を負い、警護員の一人が死亡した。
この物語の最初から、アメリカとイスラエルの堅固な同盟関係が見られた。何十年も前から変わらないこの国際政策は多くの議論を呼んだ。分析家達は両国の共通の利害は何か、どちらがどちらに権威を行使しているのかと自問した。この問いへの彼らの答えが一致しないのは、イスラエル国家の起源を考慮に入れずに問題を扱っているからだ。ここで歴史的な説明をしておくことが不可欠である。
狂信化する
イスラエルとアングロサクソン人
シオニスト政権の性質と、イスラエルとアングロサクソン人の関係は、公式の聖典に満足していては理解することができない。公式の説は、ユダヤ人国家の計画が、フランスで1895年にドレフュス事件を見て、ユダヤ人がヨ-ロッパで平和に暮らすことが不可能だと確信したテオドル・ヘルツルによって考案されたとする。彼は1917年のバルフォア宣言に勇気づけられた。このバルフォア宣言でイギリス国王は当時イギリス委任統治下にあったパレスチナにおける「ユダヤ人国家」の建国を許可した。しかし1948年になってはじめて、ナチスの犯罪に恐怖を抱き、国際社会がユダヤ人のための国家の建国を決めたという。
この提示の仕方は一貫性がない。シオニズム運動が欧州の反ユダヤ主義への反動として作られたならば、この運動は反ユダヤ主義と共にはるか以前に消えてなくなっていたはずだ。国際社会がユダヤ人国家の建国をナチス犯罪の償いとして決定したならば、ドイツ国にそれを課し、ドイツの元の領土に植民を行ったはずだ。
実際は、アングロサクソン人とシオニズムの関係はさらに古く、この論拠が見せるのとは全く違う性質を持つ。世論はキリスト教シオニズムについてあまり情報を持たず、最近の副次的な現象だと思っている。実際は、キリスト教シオニズムは17世紀から存在し、アングロサクソンの多くの国家主席や政府の政策を決定づけてきた。私達がこれから見直す宗教の歴史は、政治思想の歴史の一部である。この歴史を知れば、イスラエルとアメリカの現在の浸透関係が理解できる。さらに、政治学者ジョン・ミアシャイマ-とスチ-ヴン・ウォルト、そして社会学者ジェームズ・ペトラスが最近示したように、イスラエルロビ-がアメリカになぜこれほどの影響力を行使するのかを理解することができる。(« The Israel Lobby and U.S. Foreign Policy », by John J. Mearsheimer, Stephen Walt, Working Paper RWP06-011, John F. Kennedy School of Government, Harvard University, 2006年3月13日 ; The Power of Israel in the United States, by James Petras, Clarity Press, 2006)
これからお話しすることは一人以上の読者を驚かせるだろう。しかしこの話には、専門家が知らないことは一つも含まれない。私は主に世界シオニスト機構の内部で読まれる資料に裏付けられた研究を読み、真偽を確認するだけにとどめた。私がここで手短に触れるこの主題を深く知ることを望む読者が準拠を参照できるよう、随時注をつけることにする。この主題は近東の理解には不可欠だが、この本の中心テ-マではないからだ。
欧州の読者の多くは政治活動における特殊な信仰の重要性に途方に暮れるだろう。私達は神学者にこの議論を任せよう。政教分離主義の観察者として、私達はそれらの信仰について意見を述べることはしない。その影響から考慮した判断を下すだけにとどめる。
16世紀の終わりに、イギリスに、ジャン・カルヴァンのプロテスタンティズムに着想を受けた新たな宗教集団が現れる。彼らは宗教の権威-カトリックや教皇の教会だろうと、イギリス国教会、イギリス国王の教会だろうと-と典礼の重要性を問題視する。彼らは神の言葉の読書と集団祈祷による神との直接の接触を重視する。その信奉者は聖書を未来に起こることを啓示する年鑑のようなものとみなす。彼らは非常に不寛容で、キリストを迎えキリストと共に祝う千年間の平和-ミレニアム-の前の7年間の苦悩を切り抜けることを可能にする絶対的な道徳の純粋さを追求する。しかし、彼らは、予言が実現するためにはユダヤ人がまず「地の果て」まで散り散りになり、その後ソロモン王の神殿が再建されるべきパレスチナに再集合しなくてはならないと考える。
国王によって重要な役職から追放された清教徒達は共同体を作り、新たな経済モデルを作った。そこには伝道の熱心さに育まれた商業的攻撃性が見られる。彼らはまもなく自由貿易と市場開放を理論化することになる。
清教徒の中には、イギリス国教会との紛争が取り返しのつかないものだと考え、北アイルランドやオランダに亡命した者もある。1620年、100人程の狂信者がメイフラワ-号に乗って欧州を去り、アメリカに渡って現在のマサチュ-セッツのプリマスに植民地を作った。彼らは「巡礼の父」と呼ばれる。彼らは「新たな選民」と自己を定義し、アメリカは彼らの目に「新たなイスラエル」として映る。彼らは、彼らの神に感謝の行為(thanks giving)を行う。それを毎年記念する祭りは北アメリカの主要な祝日の一つとなっている。
それ以外の清教徒達はイギリスに残った。宗教的・政治的階級組織に反対し、彼らは武力で社会を「均等化」しようとする。彼らはイギリスの「第一次市民戦争」で中心的な役割を演じる。最終的に彼らのチャンピオン、クロムウェルが王権を倒し、国王を斬首し、1653年から1658年まで共和主義独裁体制コモンウェルスを敷いた。彼らは聖なる使命を与えられていると確信していた。選民(ユダヤ人)を守りイスラエル再建を助けることで彼らは「新たな選民」になり、イギリスは「新たなイスラエル」になると考えた。その理由で、クロムウェルは予言達成のため地の果てまで分散され4世紀前から追放されていたユダヤ人をイギリスに戻らせた。同時に、彼は未来のキリスト到来を待つためパレスチナにユダヤ人を集める準備をした最初の国家主席となる。しかし、政治神秘主義的な業績を成し遂げる前に死亡する(毒殺されたと考えられる)。
イギリスの騒乱はその後も長い間続く。王政復古で落ち着きが戻ったとはいえ、復讐が行われた。オリヴァ-・クロムウェルの死体は掘り出され公の広場で斬首された。
「新世界」の清教徒植民地の発展とイギリス国王のフランスに対する軍事的勝利により、大西洋を横断し北アメリカの東岸全体を含む広い帝国の建設が可能になった。しかし、18世紀末、清教徒と王政主義者の間の対立は再びアングロサクソン世界を分裂させる。
ヨーロッパで「アメリカ革命」と呼ばれるものは、フランス革命のイメ-ジとは全く異なる。その紛争は啓蒙学者の人間主義的理想から影響を受けてはいなかった―叛徒が当時の時代の思想、ロック、ルソ-の社会契約論、モンテスキュ-の権力分立を取り入れたのは確かだが。
イギリスから見れば、これは「第二次市民戦争」であり、アメリカの視点では「独立戦争」だった。アメリカの清教徒はイギリス国王と国教会への臣従義務を問題視した。彼らはジョ-ジ王に税金を払うことを拒否した。共和主義的理想からではなく、「われらの王はイエスである」と叫んで拒否したのである。トランスアトランティック帝国破壊を喜ぶフランスに支持された叛徒はアメリカ合衆国の独立を宣言する。
新たな国家の創始者の一人ベンジャミン・フランクリンは「巡礼の父達」がジョ-ジ王の軍隊から逃げ、王の軍勢が聖書のファラオの軍勢と同様海に飲み込まれるように大西洋を割るモ-セを表すアメリカ国章を提案した。ジョージ・ワシントンはモ-セの死後「選民」を導くヨシュアに自らを喩える。トマス・ジェファソンは大統領就任演説で「巡礼の父達」をアメリカという「約束の地」に導いた神に感謝を捧げる。
イギリスで君主制が勝利し、アメリカでセクト主義が勝利したとはいえ、この相対する要素はどちらの社会にも存在した。弁証法的な対立はどちらにおいても続けられた。
19世紀イギリスで、新たなイスラエルの教義が記者で作家のベンジャミン・ディズレーリと共に現れた。彼は『タンクレッド-新十字軍-』で成功を収めた。この本は小説だが、政治計画でもある。若い領主がイギリスの上流階級に欠けている信仰を求めて聖地に出発することを夢見ている。彼は裕福なユダヤ人銀行家の助けでそれを実現する。この協力とル-ツへの帰還がこの貴族を若返らせ、彼を通して古いヨ-ロッパを再生させる。
ユダヤ人の家庭に生まれたベンジャミン・ディズレ-リは若い頃、便宜上イギリス国教会に改宗した。彼は自分を「ユダヤ民族のイギリス国教徒」と定義している。1868年に保守党を作り、ヴィクトリア女王の首相となる。1874年から1880年にも再び首相を務めた。
ディズレ-リは国際関係を再組織し、1878年に有名なベルリン外交会議を開く。彼はオスマン帝国、特にパレスチナにおけるユダヤ人の市民・宗教権を保証させる。ディズレ-リはベルリン会議の議題の中に「イスラエル復興」を記させたが、ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクはそこに利点を見出さなかったために除外した。
過去3世紀の間、キリスト教徒の「復興主義者」(聖書のイスラエルの復興を望む人々)はユダヤ人に社会に反響を得られなかった。その逆に、ラビ達はイスラエル人の宗教の政治的な利用に原則的な反対を表明した。しかし、1891年にロシアでポグロムが起こり、ユダヤ人の中には欧州を去りパレスチに移住することを望む者が出てきた。オスマン帝国のパレスチナへの移住の資金はエドモンド・ド・ロスチャイルドの人道事業が提供した。
反ユダヤ的暴動はアメリカ人の感情をもかきたてた。413人の高位高官が主要な国家主席にあててウィリアム・ブラックスト-ン牧師が書いた請願書に署名した。彼は「イスラエル人の状況と彼らの昔の祖国としてのパレスチナ要求を考慮し、適切な手段で彼らの苦しい生活状況を改善するするための国際会議」を開くよう懇願する(Zion’s Call, Christian Contributions to the Origins and Development of Israel, by Laurence J. Epstein, University Press of America éd ., 1984の中で引用)。署名者の中には、ジョン・ピアポント・モルガンやジョン・D・ロックフェラ-などの大銀行家や下院議長、最高裁判所議長などの高位政治家が見られる。
その年、アメリカ大統領ベンジャミン・ハリソンは一般教書演説でこう宣言する。「この政府はツァ-リの政府に友愛の精神をこめて、しかし厳粛に、ロシアのヘブライ人に対する厳しい措置に関する懸念を表明する機会を得ました。」
この請願書の創始者ブラックストーン牧師は一部のイスラエル人にとってシオニズムの真の父と見なされている。彼はまたキリスト教会で急速に広まった新たな教義ディスペンセ-ション主義運動の人気説教師の一人だった(Jesus is Coming by
William E. Blackstone, 1878)。この教義は人類史を7つの時代に分ける。私達は6番目の時代、恩寵の時代に生きており、7番目の時代、ミレニアムに備えなければならない。時代の移行は7年の苦難の時期を経る。非キリスト教徒だけが苦難を被る。真のキリスト教徒は神の手で天国の神のもとに移され、ミレニアムになって初めて地に戻ってくる。携挙(Rapture)と呼ばれる神学説である(Fundamentalism and American Culture : The Shaping of Twentieth Century Evangelicalism, 1870-1925, by George M. Marsden, Oxford University Press éd., 1980)。
1895年になって初めて近代シオニズムの公式の父テオドル・ヘルツルが彼の運動の基盤を作り、1897年にバ-ゼルで最初の世界シオニスト会議を開く。彼の最初の目的はキリスト教徒の復興主義者の目的からはかけ離れている。彼はパレスチナには関心がなく、世界のどこでも構わないので迫害されたユダヤ人の避難所としてユダヤ人の植民地を作ることを望む。彼は様々な国の国家主席や政府と接触して自分の大義を進めようとする。イギリス首相ネヴィル・チェンバレンは国王がアフリカ東部に未開の土地を所有すると指摘する(現在のウガンダ)。1903年、ヘルツルはこの提案に同意し弁護士デヴィド・ロイド・ジョ-ジにユダヤ植民基金(Jüdische Colonialbank)への委譲計画を執筆させる。しかしシオニスト会議ではこの提案のために組織が分裂しかける。代表団は民族的な植民地の要求と聖書の文化を関連付けており、提案を拒絶した。中央ヨ-ロッパのアシュケナ-ジのユダヤ人は血統ではなく改宗によって古代パレスチナのミズラヒムの子孫となっているにも関わらず、パレスチナにおける民族国家の建国を選択し、この土地における歴史的権利を持たないかわりに聖書に基づく権利を持つと主張する(Theodor Herzl, Founder of Political Zionism, by Israel Cohen, Thomas Yoseloff éd., 1959 )。
チェンバレンとロイド・ジョ-ジは2人とも英国国教会に属しておらず、「復興主義者」である。イスラエルのための彼らの活動を導くのは彼らの個人的な信仰であり、彼らは公衆がこの主題についての自分達の率先的行動を議論しないよう注意した。
ユダヤ人はアングロサクソン系キリスト教運動が3世紀前から彼らのために選んだ役割を演じることに同意した。第一次世界大戦中、2人のシオニスト指導者、無政府共産主義者ヨセフ・トルンペルド-ルとファシスト哲学者ゼエヴ・ジャボチンスキ-が、パレスチナをオスマン帝国から解放しそこに植民地を作るためにイギリス国王の側で戦うユダヤ人志願者を募った。イギリスは躊躇しながらもこの「ユダヤ人部隊」を軍に編入したが、別の戦場に配置した。最初は主にロシアから来た数百人の戦士だけで、「シオン騾馬部隊」を構成し、その後5000人ほどの小銃兵連隊となった(War and Hope, A History of the Jewish Legion by Elias Gilner, Herzl Press éd., 1969.)。この行動はイギリスで議論を引き起こした。その主な理由は、これによりユダヤ人が宗教ではなく血統と認められることになるからだった。
オスマン帝国への共通の勝利を先取りし、1916年にフランスとイギリスは近東の分割を取り決めた。サイクス・ピコ協定(交渉にあたった2人の外相の名前からこう呼ばれる)はレバノンがシリアから切り離されフランス影響下に置かれることを予定する。シリアの後背地はイギリス支配下に置かれる。パレスチナは象徴的な争点であるため、後に話し合われることになった(The Boundaries of Modern Palestine, 1840-1947, by Gideon Biger, Routledge éd., 2004)。
しかし、この協議を待たずにデヴィド・ロイド・ジョ-ジ率いるイギリスの軍事委員会の9人のメンバ-はフランスに政策を強制する手段を考え、戦争に参加していなかったアメリカに支持を求めた。イギリスの新外相アーサ-・バルフォアはニュ-ヨ-クでアメリカの最高裁判所判事ルイス・ブランダイスと会う。ブランダイスは戦争によるヨ-ロッパのシオニスト連盟の事務所の閉鎖を考慮し、シオニスト指導者としての責任を事実上引き受ける。バルフォアとブランダイスはブラックスト-ン牧師に接触し、復興主義キリスト教徒を動員し、復興主義者のアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンに圧力をかけるよう求める(The Politics of Christian Zionism 1891-1948, by Paul C. Merkley, Fank Cass éd. 1998)。イギリス側では、この戦略は秘密にされる。成功するために、当然ながら庶民院で議論されることはなく、ダウニング街十番地の限られた人々による委員会で話し合われた。これらの会合の報告書は存在せず、交換された論拠の詳細が知られることはない。歴史家ジル・ハミルトンは、それでもこのグル-プの複数のメンバ-が復興主義者だったことを示している(God, Gunbs and Israel. Britain, the First World War and the Jews in the Holy Land, by Jill Hamilton, Sutton publishing éd., 2004.)。
最終的に、1917年11月2日、ア-サ-・バルフォアがシオニスト会議代表者ウォルタ-・ロスチャイルド男爵に公式書簡を出す。これにより、国王は留保付きで、すなわちイギリスの影響を確立させる条件で、シオニスト計画を支持することを約束する。
これは短い文書である。
ロスチャイルド男爵殿、
陛下の政府の名においてシオニストの希求に答えるこの好意の宣言をお届けすることができ嬉しく存じます。この宣言は委員会で審議され承認されました。
陛下の政府はパレスチナにユダヤ民族のための国家を建設することに好意的であり、この目的達成のためにあらゆる努力を行うつもりです。その際、パレスチナに存在する非ユダヤ人共同体の市民権、宗教権を侵害するような行為、また他国でユダヤ人が享受する政治的権利・地位を侵害する行為が行われてはなりません。
この宣言の内容をシオニスト連盟に知らせて頂きたく存じます。
敬具
ア-サ-・ジェ-ムズ・バルフォア
言葉を選んで書かれたこの宣言は、原住民の市民権と宗教権を認めるが、その政治的・民族的権利は否認するため、植民地化の勅書と見なされる。
協定通り、ウィルソン大統領はバルフォア宣言を認定するが、当時アメリカは第一次世界大戦への参戦について議論中だった。アメリカはドイツとオ-ストラリア・ハンガリ-に対して宣戦布告しただけで、オスマン帝国とは戦争を始めていなかった。しかし、彼らは紛争後オスマン帝国領のパレスチナがイギリス保護領ユダヤ国家となることをすでに認めていた。
1918年1月8日、ウッドロウ・ウィルソンはアメリカの戦争の14の目的を公開し、その中に「イスラエル復興」が含まれていた。第12点として、非明確にこう書かれている。「オスマン帝国支配下にある諸国へ、生命の絶対的安全と自立的な開発の可能性を保証するべきである。」
ブラックスト-ン牧師はこの計画の資金提供のため基金を募る。しかし、彼はこの世の終わりが間近に迫っているのではないかと恐れる。正しい復興主義キリスト教徒として、自分はキリストに携挙され、7年間の患難を免れるため天国に移されねばならない。その場合、集めた基金を守ることができないだろう。そのため、牧師は基金をブランダイスに委ねる。ブランダイスはユダヤ人だから携挙の間も地上に残るだろうと牧師は考えた(The Politics of Christian Zionism 1891-1948,前出)。
それと同時に、イギリスの軍事委員会メンバ-の一人で労働党創始者かつ復興主義活動家ア-サ-・ヘンダ-ソン(数年後にノーベル平和賞を受賞)が、ユダヤ国家建国を「戦争の目的」として同僚達に認可させるのに失敗して辞任する。それでも彼は1917年12月に、労働党と組合にこれを認めさせるのに成功する。労働党と組合は戦争の目的についての覚書を採択する。
「(労働党と組合の)会議は、全ての国のユダヤ人に宗教、教育、住居、商業の基本的自由、各国の住民に認められる権利と同じ市民権を与えることを要求する。さらに、会議はパレスチナがトルコの厳しく抑圧的な政府から解放されるべきだと考える。この国は国際的な保証を与えられた自由国家をなすべきであり、帰還を望むユダヤ人は帰還し他民族、他宗教の干渉を受けずに自由に自己救済に励むことができなければならない。(Biblical Interpretation and Middle East Policy. The Promised Land, America, and Israel, 1917-2002, by Irvine H. Anderson, University Press of Florida éd., 2005にて引用)」
第一次世界大戦が終ると、アメリカは国際連盟の多国間協議の原則を拒否するが、それでもこの機関がイギリスに与えたパレスチナ委任統治・「ユダヤ人国家」植民の権利を認める。さらに、アメリカはシオニスト計画を支持し、イギリス人に対して宗教的な競り上げを行う。情熱的な雰囲気の中、聖書の引用をちりばめた発言がなされた後で、議会は全員一致で宣言する。「アメリカ国家はパレスチナにユダヤ人国家の建設を促進する。その際、パレスチナに存在する非ユダヤ人共同体の市民権・宗教権を侵害する行為がなされてはならない。パレスチナの聖地と宗教施設は適切に保護されるべきである。」(ロッジ・フィッシュ決議。決議73、第63議会、第二セッション、1922年9月21日)
ところが、現地で状況は管理不可能になる。ユダヤ人大量移住が紛争と暴動を引き起こした。イギリスの植民地行政官はアラブ人民族主義者とユダヤ人民族主義者の両方を鎮圧した。行政官は、異なる民族を共存させるのは不可能だという報告を出す。ロンドンでは明白な事実を認める-この計画は諦めるべきだと。パレスチナ分割案が第二次世界大戦勃発時にすでに作られていた。
1941年4月30日、アメリカのキリスト教シオニストはアメリカパレスチナ委員会(American Palestine Committee)を作る。最初は、3人の大臣、68人の上院議員、200人の下院議員を含む。彼らはイギリス人よりもアメリカ人のほうが優れたキリスト教徒であると示す決意を持つ(American and Palestine. The Attitude of Official America and of the American People Toward the Rebuilding of Palestine as a Free and Democratic Jewish Commonwealth, by Reuben Fink, American Zionist Emergency Council, 1944)。彼らの公の介入はイギリス政府の怒りを引き起こした。彼らはシオニズム支持の競り上げにより、世界大戦中にアラブ民族が離反するのを恐れていた。ロンドンでは、非イギリス国教会派の政治家の時代は終っていた。ウインストン・チャ-チルを中心としたイギリス国教徒が再び支配的になっており、彼らはセクト主義者によるパレスチナ計画の話に耳を貸そうとしなかった。
1942年1月20日、ベルリンで、ドイツ警察の長ラインハルト・ハイドリヒとアドルフ・アイヒマンがヴァンゼ-会議を開く。他の9人のナチス指導者と共に、彼らは「ユダヤ人問題の最終的解決」を命じる。3年以内に数百万人が逮捕され、あるいは「夜と霧」の破壊工作者や抵抗者となった。ヨ-ロッパのユダヤ人破壊は極めて秘密裏に始められた。「最終的解決」は20世紀初頭ドイツがナミビアの黒人ヘレロ虐殺のために作った強制収容所の技術を利用し改良したものだ。しかし、今回は欧州人が別の欧州人を虐殺するという点で根本的に新しい。「最終的解決」はまた宗教的な解釈を与える。多くのイスラエル人にとって、「ショア-」(災害)であり、共同体全体がその犠牲者である。復興主義キリスト教徒にとっては「ホロコ-スト」であり、ユダヤ人がその犠牲者である。
1942年5月、シオニスト機関の特別会議がニュ-ヨ-クのビルトモアホテルで開かれる。ダヴィド・ベングリオンが議長を務める。会議では、イギリス国王の時間稼ぎが非難され、シオニストの運動をアメリカの保護下に置くべきだと主張された。参加者達は欧州のユダヤ人の殲滅を知らず、パレスチナの未来に焦点を当てた。8つの決議が採択されそれ以降の計画となった。アラブ人とユダヤ人の間でパレスチナを分割するというイギリスの案を拒否し、ユダヤ人の軍隊を作ることで「ユダヤ人国家」から、「ユダヤコモンウェルス」に変えることである。(コモンウェルスの語は国家の代わりに用いられている。オリヴァ-・クロムウェルの共和国を準拠としている。)第二の重要な結論は、無制限の移民を許可すること、すなわち復興主義のキリスト教徒が望むように、全てのユダヤ人を集めることである。
これらの原則の実施はパレスチナのシオニスト機関によって翌年決定される。Encyclopedia Univers alisはこう要約している。「パレスチナ全土とおそらくトランスヨルダンも含むユダヤ人国家。アラブ人のイラクへの移動。ユダヤ人による中東全体の経済開発・管理部門の制圧。」(« Le Sionisme, une entreprise de colonisation », by Sadek J. El-Azem, in Encyclopedia Universalis, 1989.)
1944年1月27日、ビルトモアの原則はアメリカ議会で認可される。議会はこう決定する。「ユダヤ人が自由で民主主義的なユダヤコモンウェルスとしてパレスチナを再建できるよう、アメリカは調停を利用し、ユダヤ人を自由に入らせるためにパレスチナを開き、植民地化のために全ての可能性が提供されるよう適切な措置を取るべきである。」この表現はテオドル・ヘルツルを驚かせただろうが、17世紀の清教徒達の望みに正確に一致する。
第二次世界大戦後、イギリスはパレスチナで秩序を維持することができない。シオニストには民族国家建設を約束し、アラブ人には軍事参加と引き換えに独立を約束していたからだ。問題解決のため、イギリスは委任期間が終り地域を去ると同時に、国連に危険なカ-ドを捨てた。シオニストはイスラエル国家を一方的に宣言する意図を隠さない。アラブ隣国は武力衝突に備える。ワシントン、国務省、国防省は、石油政策を含め、地域での影響力を危険にさらすユダヤ人国家建設に強く反対する。それでも、復権主義キリスト教徒の圧力を受け、また自身の宗教的確信から、ハリ-・トル-マン大統領は異なる決定をする(Harry Truman and the Founding of Israel,by Michael T. Benson, Praeger Publishers éd., 1997.)。1947年11月29日、国連総会は米国の圧力のもとで決議181を採択する。この決議はイギリスの委任統治終了と同時に、すなわち1948年5月15日に、二つの国家(ヘブライ人国家とアラブ人国家)を建設することを許可する。コミュニケ-ションの技巧により、ワシントンはユダヤ人植民地を国家の地位に上げながら、イギリス領パレスチナを非植民地化すると主張する。
移行時期に、シオニスト義勇軍ハガナがテロ運動を行ってアラブ人に恐怖を与え、退去を強制した。運命の定めた日の前日、80万人以上のパレスチナ人がすでに亡命を始めていた。ダヴィド・ベングリオンはパレスチナのユダヤ人移民と世界シオニズム運動の名のもとに国連と直接交渉する。そうすることで、ベングリオンとトル-マンは国際社会に既成事実を見せ、パレスチナ国家の建設を妨げた。
パレスチナのアラブ人はイスラエル軍の管轄化に置かれる(1966年11月まで)。アラブ人の移動は限られ、パスポ-トは没収された。イギリスの植民地法が今度はアラブ人にだけ適用された。アラブ諸国が準備なしに介入したが、彼らの軍隊は直ちに敗北した。彼らにとってこれは「大災害」(アル・ナクバ)である。
フォルケ・ベルナドッテが国連の調停官に任命される。このスウェ-デンの外交官は死の収容所から多くのユダヤ人を救ったため人気があった。彼は決議181の完全な実施、すなわちパレスチナ難民の帰還、パレスチナ国家建設、エルサレムの国際統治を勧めた。後のイスラエル首相イツハク・シャミルの命令で、ベルナドッテは1948年9月17日にシオニスト武装集団によって視察団指揮官のフランス大佐と共に暗殺された。それ以降、パレスチナは平和を知ることがない。
1年後、アメリカ大統領ハリ-・トル-マンはホワイトハウスにイスラエルの大ラビを招く。大ラビは言う。「あなたが2000年の後イスラエルを再生させる道具となるため、神があなたをあなたの母の胎内に置かれた。」それ以降、トル-マンは自分について「私はキュロスである!」と言うようになる。キュロスは聖書の中の人物であり、バビロン捕囚後ユダヤ人のパレスチナへの帰還を可能にしたペルシャの王だ(The Politics of Christian Zionism 1891-1948前出)。
3世紀の間、アングロサクソン人は純粋にイデオロギ-的な理由でイスラエル国家の建国を望んだ。20世紀初頭になって初めて、彼らは計画実現のためにユダヤ民族主義者を見出した。アメリカは新たな国家を支持することで戦略的な利害を全く満たさなかった。その反対に、彼らは産油国であるアラブ諸国との関係を危険に晒した。
イスラエルと南アフリカの同盟
イスラエル国家の最初の30年間、歴史的な状況によって、ユダヤ人国家とその創造者であるシオニストのキリスト教徒との関係が弱まった。しかし、両者は互いの存在なしには存続できず、南アフリカのアパルトヘイト政権により、さらにロシアを介して、新たな協力関係を結んだ。彼らは神権政治というジンテ-ゼに到った。
冷戦中、ワシントンの広報局は東西の紛争を終末論的戦い、すなわち善と悪との戦い、宗教の自由を持つ国と無神論の共産主義国の間の戦いとして解釈した。大規模な福音再伝道の努力がなされた。国務長官と国防長官を務めたジョージ・マ-シャル将軍は、外交官と軍人の間でこの思想が発展するよう監督した。彼は大西洋陣営を強化するため、福音派がイギリス国教会・カトリック教会と接触するような教会統一作戦を考案した。このことにより、彼が望まないイスラエル擁護主張を行う福音派を少数派にすることができる。
マ-シャルはCIAと共にヨ-ロッパ復興計画を設置する。その計画は彼の名前で呼ばれ、その結果、彼はノ-ベル平和賞を与えられた。マーシャルは移動の際、牧師のアブラハム・ヴェレイドとハラルド・ブリ-ドスンを連れて行った。牧師達は反共産主義のキリスト教指導者のネットワ-クを設置した(Modern Viking, The Story of Abraham Vereide Pioneer in Christian Leadership, by Norman Grubb, Zondervan Publishing House éd., 1961.)。この措置はトル-マン大統領、イギリス国王ジョ-ジ6世、オランダ王妃ウィルヘルミナ、台湾の蔣介石に承認された。1952年、オランダでキリスト教徒議員国際会議が開かれた。NATOを先取りする事業を行っていたアルフレッド・グランサ-将軍が会議の中心人物だった。この機関は現在フェロ-シップ財団と呼ばれており、40年間、ソ連圏に対して大西洋陣営のキリスト教アイデンティティを強化するため祈りの会と会議を企画した(Washington : Christians in the Corridors of Power, by James C. Hefley and Edward E. Plowman, Tyndale House Publishers éd., 1975.)。この機関はペンタゴンの近くに司令部を持つ。軍の情報と教育を担当する部局が国防省に作られ、この財団に委託された。この部局はマニュアルを出版し、アメリカ軍への奉仕を世界の宗教的自由のための十字軍遠征と同一視させる教育を施す(Militant Liberty. A Program of Evaluation and Assessment of Freedom, US Government Printing Office, 1955 ; Ideas in Conflict, Liberty and
Communism, by Armed Forces Information and Education, Department of Defense, US Government Printing Office, 1962. )。
1954年、全ての子供が毎朝学校で暗唱し、全てのアメリカ国民が厳粛な機会に述べる臣従の誓いが以下のように改変され、神への準拠が組み込まれる。「私は合衆国の旗とそれが体現する共和国、全ての民のための自由と正義が存在する神の指揮下に統一された不可分の国家への忠誠を誓います。」1956年、上院・下院の共同決議が「我々は神を信じる」を、「一人はすべてのために」のかわりにアメリカのモット-として選んだ。翌年には早くもその標語が銀行の紙幣に印刷される。キリスト教のアイデンティティは大西洋同盟だけでなく、資本経済システムにも適用される(« La bataille pour l’identité états-unienne » by Cédric Housez, Réseau Voltaire, 2004年8月18日)。
当初の教会統一的な性格にも関わらず、フェローシップ財団は次第にこの機関が統制する福音派教会だけを中心として活動するようになる。財団はアメリカの帝国主義とその軍事行為を熱心に支持するよう教会を扇動する。まもなく、財団はジュネ-ブの主要な古典的プロテスタント信者連盟である教会統一会議と対立するようになる。アングロサクソンの宗教文化内部の緊張が再び目覚める。この会議はイスラエルにおける人種差別とベトナム戦争を非難する。そのため、1974年にペンタゴンはライバル組織、ローザンヌの委員会を作る。国防省から費用を与えられた4000人の福音派信者が新たな指導者ビリ-・グラハム牧師を中心に会議を開いた。グラハム牧師はロック・スタ-のように世界中を巡り、宣教ショ-を企画し、ますます多くの聴衆を集めた。
他方で、世論は少しずつシオニスト政権の時代錯誤に気づき始めた。イスラエル国家はイギリスの非植民地化の結果として国際社会に提示されたにも関わらず、19世紀のテオドル・ヘルツルの計画に一致するユダヤ人の植民地国家であることが明らかになった。その特殊性から、この国は他の植民地国家に似ていた。
南アフリカではオランダの清教徒が19世紀のイギリス信託統治から自分達を解放した。彼らは自分達が聖書の出エジプト記になぞらえた「グレート・トレック」の際、内陸へ突き進んだ。彼らは自分達の神の加護を祈り、ブラッド・リバ-の戦いでズール-人に勝利し、後の南アフリカを建設する。この地を彼らもまた「新イスラエル」と呼んだ。第二次世界大戦中、彼らはイギリスに対してナチスを支持し、その後アパルトヘイト政権を建てた。他方でロ-デシアのイギリス人達は非植民地化の見通しに恐れをなし、イギリス国王に反乱し1965年に独立国家を作った。
イスラエル、南アフリカ、ローデシアの司法体系は異なるが、3つとも同じ差別的な目的を追求している。土地と権力を民族的少数派に独占させるという目的だ。そのため、これらの国家がナチズムや反ユダヤ主義といった不興を買うような主題を除外して互いに頻繁に接触するのは論理にかなっている。
1953年、国連総会は「南アフリカの人種差別とシオニズムの間の同盟」を告発する(国連総会決議3151、1953年12月14日に採決)。
国際社会からのけ者にされた南アフリカ、ローデシア、イスラエルの三国は関係を密にする(シオニズム運動と南アフリカの古い関係については« l’Alliance
Israël-Afrique du Sud et le Tiers-Monde » by Marwan R. Buheiry, Revue d’études palestiniennes no13 automne 1984)。1976年、南アフリカ首相ジョン・フォルスタ-は労働党の首相イツハク・ラビンに招かれイスラエルを公式訪問する。「最終的解決」の生存者と共に昼食をとるため、アフリカ-ナ-達はハ-ケンクロイツの腕章を外した。両国は西側諸国における共同のロビ-ネットワ-クを設置する(La Propagande de l’apartheid. Quand l’Afrique du Sud se crée une image de marque, by Jacques Marchand, Editions Kharthala, 1985.)。彼らは共に原子爆弾軍備計画を進める(Israel and South Africa. The Unnatural
Alliance, by James Adams, Quartet Books éd., 1984. )。
アフリカ-ナ-達はバントゥ-スタンを作って白人の支配を維持しようとする。黒人を保護区域(貧しい地帯が望ましい)の中に詰め込み、その区域を独立国家とみなすふりをするというアイデアである。これにより、南アフリカは黒人の労働力を搾取し続けながら100%白人の国となる。この「アパルトヘイト」というモデルは実施が困難であることが分かった。最終的に黒人は行政的には保護区域の中に住居を与えられ、物理的には白人の領域である仕事場所に身を置くことになった。これは新アパルトヘイトである。南アフリカの実験所はイスラエルに着想を与えた。ジョン・フォルスタ-と同盟を結んだイツハク・ラビンはレバノン南部のバントゥ-スタン計画の指揮者となった。彼は国防大臣として軍事占領時代にこの計画を監督した(1984-90, 1992-95)。
1982年、レバノンが内戦状態にあった時、イスラエルはファシスト義勇軍と同盟してパレスチナ難民の抵抗運動を掃討しようとした。これは「ガリラヤの平和」作戦と呼ばれる。アリエル・シャロンの戦車が国連レバノン駐留軍の戦列を越えてベイル-トを占拠する。国際協定の後、パレスチナ解放機構は退去した。脅迫を受けファシストのバシル・ジュマイエルが共和国大統領に選ばれたが、3週間後、司令部を爆破され補佐官と共に死亡した。報復としてアリエル・シャロンの戦車がサブラとシャチラの難民収容所を包囲し、イスラエル兵に統括されたファシスト義勇兵が男性、女性、子供を虐殺する。1985年イスラエル軍はレバノンの北部から撤退するが、2000年まで南部占領を続けた。この地域は独立の虚構を持つバントゥ-スタンに変えられた。レバノンの地域として「レバノンの南部」と呼ばれることがなくなり、自治地区、ほぼ国家のようなものとして「南レバノン」と呼ばれる。この地域は協力者のグル-プ、南レバノン軍(ALS)に統治されており、福音派に改宗しフェロ-シップ財団に加入したシ-ア派のサード・ハダド少佐がこの軍を統括している。ハダドはパット・ロバ-トソン牧師と共に希望の声(Voice of Hope)というラジオ局を作った(Spiritual Warfare. The Politics of the Christian Right, by Sara Diamond, South End Press éd., 1989.)。ロバ-トソンは現在のテレビ局LBC設立にも資金提供した。
他方で、1980年9月、イスラエル国会は国際法に違反して西エルサレムと東エルサレムは一つの同じ都市でありイスラエルとユダヤ民族の永遠の首都であると宣言する。この宣言は国連によって直ちに非難され(1980年8月20日に採決された安保理決議478、アメリカは棄権)、大した影響は及ぼさなかった。1967年以来占領下にある町の東部は自治を維持し、イスラエル政府機関はテルアビブに存在する。
イスラエル国会のこの宣言はシオニストのキリスト教徒達の計画の第二部を起動する。清教徒の計画は「イスラエル復興」にとどまらない。彼らの計画はエルサレムのアル=アクサー・モスクがある場所に「ソロモン王の神殿を再建すること」も含む。そのためにフェロ-シップ財団と南アフリカとイスラエルは協力してエルサレム国際キリスト教大使館(International Christian Embassy Jerusalem)を作った。この機関は「聖地」において南アフリカの諜報員ヨハン・ラックホフ(Johann Luckhoff)によって統括され、シオニストのキリスト教徒による「聖地」巡礼を容易にする努力を行う。それと同時に、パット・ロバ-トソン牧師の助けを借り、ユダヤ人移民のための基金を収穫する。この目的のため、機関は合衆国の各州に「領事館」を開く。フェロ-シップ財団に加入している高級将校オリヴァ-・ノ-ス大佐は中央アメリカにキリスト教大使館を開く(More Than Conquerors. A History of the Officers’ Christian Fellowship of the USA, 1943-1983, by
Robert W. Spoede. Officers’Christian Fellowship Books éd., 1993. )。ロビイスト達はそこで、大使館をテルアビブからエルサレムに移すよう各国を説得する任務を持つ。キリスト教大使館はグアテマラなど、のけ者扱いされる他の国家とイスラエルの関係を強化した。イスラエル軍はグアテマラに軍事補佐官を送りインディアンに対してバントゥ-スタンモデルを適用させる(The Guatemala Military Project : A Violence Called Democracy, by Jennifer Schirmer, University
of Pennsylvania Press éd., 1998.)。この措置はフェロ-シップ財団のメンバ-の軍事独裁者エフライン・リオス・モント(牧師・将軍・大統領を兼任)の指揮下で行われた。さらに、ラテンアメリカ諸国におけるキリスト教大使館は反革命運動支持作戦においても一つの役割を演じることになる。
1985年8月、エルサレム国際キリスト教大使館はシオニストのキリスト教徒の最初の国際会議を開く(Prophecy and Politics. Militant Evangelists on the Road to Nuclear War, by Grace Halsell, Lawrence Hill & Company éd., 1986.)。会議はバ-ゼルで、テオドル・ヘルツルが98年前に最初のユダヤ人シオニストの会議を開いた広間で行われた。
1991年、南アフリカがアパルトヘイトを廃止した数ヵ月後、イスラエルとアラブ列強はアメリカとソ連が推進するマドリ-ドの平和会議で対面した。イスラエル政権も同様に変化を遂げたと信じた国連総会はシオニズムを人種差別の形態として非難した。それは間違いだった。首相になったイツハク・ラビンは二つの選択肢を持っていた-二つの大国の圧力に屈し「二つの国家」という解決法(決議181で予定されたパレスチナ国家建設)を選ぶか、それとも、バントゥ-スタンモデルを拡張しパレスチナ人を保護地区に押し込めて彼らが独立したという印象を与えるか。二枚舌は効果的だった。「分離発展」という南アフリカのレトリックから借りた鎮痛作用を持つ発言が役に立った。パレスチナ・バントゥ-スタンはまだ真の国家ではないが、まもなくそうなる-パレスチナ人が強制された規範に従った時に真の国家になると彼は述べた。これが1993年のオスロ・プロセスである。合意の文章は極めてあいまいな用語を用いている。強制的な条項は全く含まれず、適用の方針は後援国アメリカとロシアに従属するようになっている。失うものは何もなく、勝ち取るものだけをそこに見出すヤセル・アラファトは提案を承諾する。しかし、ラビンは自己の成功の犠牲となる。過激派はこの合意が「約束の地」の一部におけるユダヤ人の主権を失わせると錯覚した。彼らは狂信者にラビンを暗殺させる。
新アパルトヘイトのモデルは2003年、首相となったアリエル・シャロンの「分離計画」の名前で再び用いられる。彼はイスラエルの新たな国境を一方的に引き直し、この地域の民族浄化を行うために住民を移動させる。イスラエルをユダヤ化し、場所によっては壁で分離されたパレスチナ領土をアラブ化するためだ。
イツハク・ラビンは「平和と協力」と称した理論に戻づいて南レバノン植民地化とオスロ・プロセスを創始した。この理論は南アフリカの言説の完全な複製と言える。レバノン人とパレスチナ人を開かれた境界線で囲まれた場所に強制移住させ、イスラエル軍はこの境界を自由に通って弾圧行為を行う。力の弱い自治政府はイスラエルとの協力を余儀なくされる。人類学者でレバノンの政教分離党の元党首ユーセフ・アシュカルが述べたように、バントゥ-スタンの原則とは、弱い政権を設置して住民に対する戦争を続けることである。
新保守主義者の影響下で、シオニストの宗教信仰とアパルトヘイトの実践は新たな政治教義を生んだ。
神権政治
上院議員ヘンリ-・“スク-プ”・ジャクソンは、1983年に死去するまで、軍産複合体の利益の擁護者でソ連との対決を支持した人物として提示されてきた。民主党の好戦的極左を体現し、1976年の大統領選に出馬して敗退した。しかし、本書では彼の政治活動の別の側面をとりあげる。
1974年、彼はアメリカと移民を制限する共産主義国との間の商業関係を部分的に禁止する修正案を推進する(Titre IV, section 402, US Trade Act 1974 )。これにより、彼はソ連が高等教育を受けた国民に大学の学費返還に匹敵する移住税を要求しないようにする。目的はソ連のユダヤ人の移住を促進するためだった。最終的に百万人のユダヤ人が彼らの“アリーヤー”(聖地に行き信仰を高めること)を行った。そのうち10万人については、エルサレム国際キリスト大使館が費用を負担した。57万3千人のユダヤ人(および福音派キリスト教徒)がアメリカ合衆国への移住を選んだ(Jackson-Vanik and Russia Fact Sheet, ホワイトハウス2001年11月13日)。
ヘンリ-・ジャクソンは優秀な若者に囲まれた。若者は全てユダヤ人、極左に限られ、トロツキ-主義者が多かった。エリオット・アブラムズ、フランク・ガフニ-、エドワ-ド・ルトワク、リチャ-ド・パ-ル、ポ-ル・ウォルフォウイッツがその中にいた。彼らは後に新保守主義潮流・共和党に合流する。彼らは現在アメリカの国家安全保障会議、国防省、世界銀行で重要な役割を演じている。若い頃の決意は捨てたが、彼らは経験上全体的革命の野心、組織を操作する方法、いくつかのレトリックを保持する。ユダヤ人移民計画を成功させるため、彼らはソ連で若いウクライナ人、アナトリ-・シャランスキ-を利用する。シャランスキ-は1977年にスパイ容疑で逮捕され、スパイ交換の際に釈放された。彼はその後、ナタン・シャランスキ-と名乗る。
この非常に均質なグル-プの一人一人のメンバ-は、他のメンバ-の助けを借りて政治的な経歴を積んだ。彼らは冷戦中の「Bチ-ム」における活動で知られている。ソ連の脅威を強調し軍備競争を推進した。彼らは「現在の危険に関する委員会」を統括し、全米民主主義基金(NED)、合衆国平和研究所(USIP : US Institute for Peace)を創立した。1989年ソ連の体制が揺らぐと、彼らは80人の新指導者を選びボリス・エリツィンの周囲に集め、モスクワに組織を作った。翌年、6人の最も優秀な人材がホワイトハウスから特別ビザを与えられアメリカでリチャ-ド・パ-ルの指揮下で追加の訓練を受ける(« The Free Congress Foundation Goes East » by Russ Bellant and Louis Wolf ;« Walkie –Talkie Mischief » by Louis Wolf ; « Western Intervention in the USSR » by Sean Gervasi, Covert Action Information Bulletin, no35 Automne 1990, no37 Eté 1991, et no39 Hiver 1991-92.)。彼らはミハイル・ゴルバチョフを排除したがソ連保安部復権は成功しなかった1991年のク-デタ-失敗の後、空になっていた政権の座を奪取する。
ジャクソン派に操作されたボリス・エリツインはソ連を解体する。彼は多くの共和国の独立を助け国家の資源を数人の友人の利益のために民営化する。彼らが略奪し破壊したこの国における自分達のビジネスを擁護するため、彼らは互いに衝突しあい、大犯罪組織を利用することもあった。彼らの大部分は戦利品を持って国外退去し、歓迎する金融市場にこれをもたらした。1994年、アルミニウム王のミハイル・チェルノイがイスラエルに亡命し、百万人の旧ソ連出身ユダヤ人を見出した。彼はイスラエルのロシア語圏の政党すなわちナタン・シャランスキ-率いるイスラエル・バ・アリヤとアビグドル・リ-ベルマン率いるイスラエル・ベイテヌに資金提供する。両政党ともに政教分離主義でパレスチナ人の「輸送」すなわち強制移住を含めた厳格なアパルトヘイト政策を支持する。
2003年10月11日、キング・ダヴィド・ホテルでエルサレムサミットが開かれた(会議の記録はThe Jerusalem Alternative, Moral Clarity for Ending the Arab-Israeli Conflict, Balfour Books éd., 2005)。庇護者ミハイル・チェルノイの招待状にはこう書かれている。「イスラエルは東洋の全体主義と西洋の道徳的相対主義に代わる道徳的な選択です。イスラエルは私達の文明の存続のための戦いのグラウンド・ゼロです。イスラエルを救い、西側諸国をイスラエルと共に救うことができます。今こそエルサレムに集まる時です。」80人のフェロ-シップ財団代表、アメリカとロシアのジャクソン主義者、イスラエル右派の人々が神権政治という新たな概念の周りに集合した。
3日間の討議の末、ヘンリ-・スク-プ・ジャクソン賞がリチャ-ド・パ-ルに授与された。彼は演説の中で、イスラエルがテロ支援国に対する予備攻撃と戦争に関するブッシュの教義を採用したことを長々と称賛した。
参加者は会議の最後の宣言で、ファシズムと共産主義の後、自由な世界はイスラム過激派という新たな敵に立ち向かわねばならないと述べた。彼らは国連の新保守主義者の批判を利用した。彼らは一国一票制を終らせるよう、すなわち反逆国から投票権を奪うよう要求した。また、パレスチナ国家の設立に決定的に反対を表明した。彼らはジハ-ド主義(イスラム教の名のもとに抵抗を行うこと)は人種差別・民族虐殺の一形態とみなすべきだと主張した。「テロリズム」を防止するためにあらゆる例外的な司法手段・軍事手段が用いられるべきであると述べ、アラブ諸国の石油収入の没収とその国際機関による管理への賛成を表明した。彼らは、メディアがイスラエル擁護活動と、イスラエルが犠牲になっているテロリズムの間に道徳的な序列をつけるべきだと強調した。また、大学における反シオニズム主義を防止するべきだと呼びかけた。
署名を行った高位高官達は、イスラエルが復興され領土を拡大することと世界平和との間に聖書的な関連づけを行っている。これは「神権政治」、神が世界のために望み、預言者達に啓示した政策なのだ。「私達は全ての国家が永遠で不可分なイスラエルの首都エルサレムを、創るべき新たな統合の中心地として選ぶよう呼びかける。神の着想によるイスラエル復活の目的の一つはここを、預言者が予言した平和と繁栄の時代へ人々を導く新たな諸国統合の中心地にすることであると我々は考えている。
不幸なことに、大部分のイスラム国家はイスラエル破壊を誓っている。世界の自由な国々へ次のことを理解するよう呼びかける。イスラエルの国民が約束の地で平和に暮らすことができれば、世界全体を平和が支配するだろう。イスラム過激派がイスラエルを破壊して勝利すれば、平和は決して訪れず、西洋文明もジハ-ドの前に屈服するだろう。世界全体の救いのため、イスラエルの地はイスラエルの民に属さねばならない。」(Jerusalem Declaration, 2003年10月14日)
一ヵ月後、エフ-ド・オルメルトはハレツ紙の質問に答え、自国は黒人の要求に対する白人の南アフリカと比較できる状況にあり、困難な決定を行わねばならないだろうと述べた。「私達には時間が永久にあるわけではありません。ますます多くのパレスチナ人が二つの国家案を交渉することへの関心を失っています。彼らは紛争の本質をアルジェリアのモデルから南アフリカのモデルに変えようとしています。占領に対する戦いから一人一票への戦いへと。当然ながらこの戦いは一層清廉で人気があり、強力な戦いになります。私達にとってこれはユダヤ人国家の終わりを意味するでしょう。」(« Maximum Jews, minimum Palestinians » by David Landau, Haaretz, 2003年11月13日)彼はイエディオト・アハロノト紙で、取るべき決定がディアスポラに理解されないのではないかと懸念を表明する。「私は南アフリカのアパルトヘイトに対する戦いの重荷を背負った自由主義ユダヤ組織が先頭に立って私達に戦いを挑むのではないかと恐れます。」(« An Ally of Sharon Foresees a Olestinian State », by James Bennt in The New York Times 2003年12月6日で引用)
「エルサレム宣言」がいかに呆然とさせる内容のものであるとしても、これは直ちに政治的な効果を持った。2004年4月14日、アリエル・シャロン首相とジョージ・W・ブッシュ大統領は手紙のやりとりを行った(« Letter from Prime Minister Ariel Sharon to US President George W. Bush » ;« Letter from US President George W. Bush to Prime Minister Ariel Sharon » イスラエル外務省2004年4月14日)。この書簡はイスラエル人にとってバルフォア宣言よりも重要とみなされる。アメリカ合衆国は「分離計画」(新アパルトヘイトの原則)を認可した。
ハレツ紙の論説委員、アキヴァ・エルダルはこう注釈する。「ガザ地区とヨルダン川西岸地区に関する計画の政治・軍事・経済的な側面はバントゥ-スタンに信じられないほど似ている。南アフリカで多数派の黒人への支配を続けるため少数派の白人が発明したものの一つだ。黒人および混血の人々は限られた自治権を持つ10の互いに切り離された飛び地に押し込まれ、彼らの経済的な快適さは白人の意志に基づいていた。軍の撤退は、ガザが占領地区であることに基づく要求が法的基礎を失うことを意味する。独立した実体に変えられたガザでイスラエルは政治的に合法な責任、道徳的・経済的な責任を免れる。しかし計画が排除するのは責任と何人かの市民、多くの兵士だけである。それ以外は、ガザ地区の制圧は彼らが行う。イスラエルは全ての国際交通を監視する。
独立した実体はイスラエルの合意なしには自己の領土の監視のため外国の軍隊に頼ることを許されない。しかし、イスラエルはガザの百三十万人の住民の責任を負わない。イスラエルはパレスチナ人に有無を言わせずこの計画を承諾させた一方、武器の存在はすでに存在する合意に反すると言ってガザの非武装化を求めている。
(……)この計画の最も興味深い点は、パレスチナ人の交通が続けられるようヨルダン川西岸地区の住民を退去させるという部分だ。この表現は南アフリカでも使われた。南アフリカの白人はそれにより原住民のための橋やトンネルを建設し土地を支配し続けられると考えた。」(« Creating a Bantustan in Gaza » by Akiva Eldar, Haaretz, 2004年4月16日)
それだけではない。シャロンとブッシュの取り交わした書簡で、アメリカは国際法の義務を認めるが、その実践を非現実的とみなす。そのため、ジュネ-ブ第四条約49条に違反する形で、アメリカは370万人のパレスチナ難民の「帰還の権利」(あるいは財産没収の賠償)を否認することになった。同様に、アメリカは安全保障理事会の決議242と338に違反する形で、占領地区(ガザ、ヨルダン川西岸地区、東エルサレム、エジプトのシナイ半島、シリアのゴラン高原、レバノンのシェバ農場)が征服された土地と認める(« Bush bouleverse le principe de“ territoire contre la paix ”», AFP, 2004年4月16日)。
アングロサクソン人とイスラエルを結びつける絆は父子関係にとどまらない。彼らは共に一つの言語と一つの計画を考案した。
支配する
思想上の指導者
帝国の支配は軍事力だけによって行使されるわけではなく、思想体系をも利用する。多国籍指導階級は権力拡大のためあらゆる手段を用いることを彼らに許すレトリックを自己に与える。レオ・ストロ-スの行政権一元化のイデオロギ-である。他方で、誤った概念が公衆の頭に叩き込まれ、人々が世界の見方を変え現状を受け入れるようにする。国際テロリズム、文明の衝突などの概念がそれにあたる。この点を細かく見てみよう。
ワシントンとテルアビブの政権にある軍人と政治家はしばしばレオ・ストロ-スを引き合いに出す。レオ・ストロ-スはシカゴ大学の哲学史教師で1973年に死去した(Leo Strauss : The Straussians and the Study of the American Regime, Kenneth L. Deutsch and John Murley, Rowman& Littlefield Publishers,
1999.)。実際は、このドイツからのユダヤ人移民の授業に出た者は少ない。“師”は彼らを自分の弟子と認めないかもしれない。彼らの多くはレオ・ストロ-スの助手の一人で哲学者のアラン・ブル-ムの教えを受けている。アラン・ブル-ムがニーチェとハイデッガ-のヨ-ロッパ・ニヒリズムに関する師の業績に具体的な政治的規模を与えた(« Leo Strauss et George Bush », Corine Pelluchon, Le Banquet no19-20, 2004)。
いずれにせよ、ソクラテスは言うべきではなかった真実を述べたために死刑になったという観念はレオ・ストロ-スをセクト主義的行動へ駆り立てた-あらゆる濫用を可能にするセクト主義へ。真の哲学者は公然と思想を述べると危険なので、大衆へ与える教えと最良の弟子だけに与える秘教的な教えを区別しなくてはならない。そこから出発してシカゴの師はプラトン、ゾ-ハル、カバラ、マイモ-ン、アヴェロエスの謎を解明し、その秘教を再構成しようとする。そして、それを口頭で贔屓の学生に伝えた。ソクラテスがアテネの民主主義に迫害されたように、アメリカの民主主義に迫害されないためである。プラトンもアヴェロエスも他の哲学者もレオ・ストロ-スが彼らのものと決めた秘教を否定しないのは言うまでもない。
ストロ-ス主義者は彼らの師から、隠蔽への好みだけでなく暴力と嘘への崇拝も受け継いだ。レオ・ストロ-スはドイツでユダヤ人として生まれたためワイマ-ル共和国におけるナチズムの上昇を見た。この経験から彼は、強い体制が弱い体制に勝利し、民主社会はつねに独裁者の手中に落ちると結論した。そのため、問題は自由と平等を擁護することではなく-それらは神話にすぎないので-、独裁者がいかにして全員の幸福のために行動するようにするかであった。彼の弟子達は次のように言う。国民が民主主義を信じたいなら信じるふりをしよう。しかし権力が我々よりも悪い者の手に落ちないよう武力で統治することを躊躇してはならない。そもそも、次の“最終的解決”の犠牲にならないための唯一の方法は独裁者の側につくことだ(Leo Strauss and the American Right, by Shadia B. Drury, St Martin Press éd., 1997)。
さらに、レオ・ストロ-スは近代の人間がいかにして道徳価値を相対化する危険を冒しながら少しずつ信仰よりも理性に重要性を与えていったかを研究した。ストロ-ス主義者はこれに政治的結論を与えた。道徳的退廃を避けるためには理性と信仰、科学と聖書を切り離すのではなく結合させるべきだ。これらを体現する国―アメリカとイスラエル-も同様に連盟させるべきだと。
ストロ-ス主義者が師の教えを魅惑的な教義に変えたのは偶然ではない。レオ・ストロ-ス自身がそれを推進している。この学者は、死ぬまで戦った勇気ある兵士、古代スパルタの重装歩兵ホプライトを崇拝している。彼の授業に出ることは、新たなスパルタの兵士ホプライトになることを意味する。実践学習もこれに伴う。ホプライト連隊が他の教師の授業に侵入し体制を揺るがして釈明を求めるというような。シカゴ大学からマルクス主義者を除去するべきだ。ナチスがユダヤ人をドイツの大学から除去したように(Leo Strauss and the Politics of American Empire, by Anne Norton, Yale University Press éd., 2004)。
レオ・ストロ-スは若い頃、法学部教師カ-ル・シュミットと親しくなり、その友情は歴史の盛衰を超えて続いた。シュミットはワイマ-ル共和国が弱く、緊急事態に重要な決定を下す能力を欠いているという観念にとりつかれていた。そのために、ナチスの偽科学的人種差別に反対だったが、進んで補佐官になり、第三帝国の憲法の執筆を担当したのだ。体制において卓越した地位にあったにも関わらず、彼はナチスの犯罪には関わらなかった。シュミットはニュルンベルク裁判で裁かれ、無罪放免になった。
シュミットは権力分立の原則と両立しうる強い国家の理論を作った。彼によれば、政治が効果的であるためには執行部が絶対的に独立している必要がある。この原則は「行政権一元化理論」(Unitary Executive Theory)としてストロ-ス主義者に採用された。(《The Return of Carl Schmitt » by Scott Horton, Balkinization, 2005年11月7日 ; « Cheney Schmittlerian Drive for Dictatorship », Lyndon Larouche PAC, 2006年1月6日)
第一に、合衆国政府は政府の各局の間のライバル関係によって蝕まれている、この内部闘争を超越する唯一の方法は法廷ではなく彼らの属する部署の唯一の長によって裁定させることである。その結果、行政権は廃止され、執行機能は行政部全体ではなく一人の長によって体現される。
第二に、立法・行政・司法の三権分立の目的は、互いに監視しあい独裁を防ぐことではもはやなく、合衆国大統領が司法官と議会にわずらわされないことである。
この「行政権一元化理論」はバークレ-大学の教師ジョン・ヨ-によって流行することになった。フェデラリスト協会の仲間と共にジョン・ヨ-は対テロ法を執筆した。この法律は裁判を受ける者の権利に関する主要な合衆国憲法の措置を停止する。彼はこの法案をアメリカ合衆国愛国者法として、2001年9月11日のテロの一週間後、集団的なパニックを利用して、大した議論もなく議会で可決させた。さらに、ジョン・ヨ-は法務省補佐官になり、追訴事項なしにグアンタナモの囚人を永久拘留するための論拠を執筆した。その後、明解な題の本を出版した。『戦争と平和の力 9.11後の憲法と外国問題』(The Powers of War and Peace : The Constitution and Foreign Affairs after 9/11, by John Yoo, University of Chicago Press 2d., 2005.)
アメリカとイスラエルの指導者階級はこのように、政策隠蔽、武力と嘘の使用、両国を救う同盟関係、見識ある独裁を称揚するイデオロギ-を手にした。この同じ人々が平行して世論に独裁を受け入れさせるための恐ろしい世界観を発明し、大衆に課したのである。
“イスラムテロリズム”の発明
1979年、まだ大衆に名を知られていなかった若者ベンヤミン・ネタニヤフはパレスチナ抵抗運動に対抗するためのシンクタンク、ヨナタン研究所を作った。ハイジャック機の人質を解放するためのエンテベ作戦に参加して死亡した兄ヨナタン(ヨニ)の名前をつけた。ベンヤミンとヨナタンは修正主義シオニズム運動の歴史的指導者でユダヤ人部隊の創設者、ゼエヴ・ジャボチンスキの秘書を務めたベンジオン・ネタニヤフの息子である。
アマン(イスラエル軍情報局)の支持を受け、この機関はエルサレムで、当時の全てのテロ行為の裏にソ連が存在することを示すための会議を開いた(この会議についてはInternational Terrorism : The Propaganda War, by Philip Paul, Thèse de relations internationales San Francisco State University, 1982.会議の記録はInternational Terrorism : Challenge and Response, Jonathan Institute éd., 1981.)。アマンの4人の責任者と元責任者、NATO前事務総長が出席した(イスラエルの将軍Chaim Herzog, Méir Amit, Aharon Yariv, Schlomo Gazit 、NATOのManio Brosio)。アメリカとイギリスの代表団、外国の情報局関係者も参加した。共和党のジョージ・H・ブッシュはCIA元長官という立場で出席した。ブッシュは民主党上院議員のヘンリ-・スク-プ・ジャクソンとアメリカユダヤ委員会の雑誌「コメンタリ-」の記者に同伴されていた。
この時点までは、アイルランドテロリズムやパレスチナテロリズムと述べながらそれらの間の関係を想定することはなかった。それ以降は、全ての集団が関係を持ち、各集団は民族解放闘争の表れではなく、ソ連と同じように西側諸国を不安定化するための秘密の計画に関与していると断言されるようになる。彼らと交渉するのは無駄である。なぜなら彼らが主張する大義は隠れ蓑にすぎない。テロリズムは民間人に対する軍事的技術ではなく、道徳的な選択の結果なのだ。この選択により、テロリストは彼らと彼らの主張の悪魔的な性格を表す、と。
イスラエル側では、二つの党の高位の代表がこの会議に出席した。労働党指導者のシモン・ペレス、リク-ドのメナヘム・ベギンである。ベギンは首相の立場から、悲嘆にくれる人々が固執的に“パレスチナ抵抗運動”を呼ぶもの、今後は“国際テロリズム”と名づけられるものにおけるソ連の責任を非難するため、できるだけ多くの情報を交換しメディアキャンペ-ンを行うよう参加者を促した。彼らはそれを首尾よく実行した。
このキャンペ-ンはフランスで2人の演説家に引き継がれた。ドゴ-ル暗殺未遂事件を繰り返した元秘密軍組織指導者のジャック・スステルとフィガロ紙のアニ-・クリ-ゲルである。KGBの秘密の役割やカダフィ大佐のリビアでの役割についての想像上の詳細を語るセンセ-ショナルな本が大量に出版された。テーマが開始され、これはベルリンの壁崩壊まで10年間ほど続いた。
ストロ-ス主義者達にとって、この会議は決定的な段階だった。それまでは、ソ連を告発するのにデ-タを大幅に改竄し、公衆にソ連が過剰軍備され好戦的であると示さねばならなかった。不安がエネルギ-を集結させ、アメリカとその連合国の警戒を取り去り、世界征服のための軍備生産を活性化することを可能にした。しかし、ソ連は存在し、赤の広場に軍隊が行進するのが見られた。ロシアの熊が真の脅威となるにはあまりにも弱体化していることを発見される恐れがあった。ストロ-ス主義者達は赤の脅威の虚構を提供するためにソビエトの経済システムの失敗やモスクワへの大規模な食料援助を隠さねばならなかった。
“国際テロリズム”はそれが純粋に潜在的なものであるだけに制御可能だった。存在しないものは否定する力がない。さらに、テロリズムが戦略でなく悪の表現であるならば、歴史的な状況と関わりを持たず、政治的な解決を見出すことはないだろう。テロはいつでもどこでも起こる可能性があり、テロリストの性質だけがテロの理由となる。全ての人間が危険にさらされている。全ての人間が恐怖を持つ理由がある。自分の自由と家族の自由を犠牲にしなければ生き延びることはできない。
ヨナタン研究所は1984年にワシントンで二回目の会議を開いた。ベンヤミン・ネタニヤフはその間に代理の米国駐在イスラエル大使になり、3ヵ月後には国連大使になる。多くの「ジャーナリスト」が演説家としてこの会議に参加した。アメリカからはボブ・ウッドワ-ド、ジョ-ジ・ウィル(ワシントン・ポスト)、フランスからはアラン・ブザンソン、ジャン=フランソワ・レヴェル(フィガロ)が出席した。副大統領ジョ-ジ・H・ブッシュの代理として国務長官ジョ-ジ・シュルツが出席し、イツハク・ラビンは自らワシントンへ赴いた。メディアで取り上げられた演説の中でシュルツは世界中のテロ組織の連携を“恐怖の同盟”と呼んで非難した(« Soviet Using Terrorism, Shultz Asserts » by Joanne Omang The Washington Post, 1984年6月25日 )。この同盟はシリア、イラン、リビア、北朝鮮から構成され、ソ連から資金を受けている。これに対して戦うため、ラビンは国連から独立し、アメリカの主導権のもとに国際テロリズムを防止するための「自発的な国々からなる国際機関」を作る提案を行う。シュルツもまたテロリズムに対する「予防的活動」の許可を提案する(« Preventive action discussed Combat terrorism, Shultz
urges » Reuter, 1984年6月24日 )。
これらの主題が公的な言説に現れるのはこれが初めてである。ジョ-ジ・シュルツの「恐怖の同盟」はジョージ・W・ブッシュの「悪の枢軸」に先行する。その構成国はほぼ同じだ-リビアがイラクに代えられることを除けば。なぜ北朝鮮が近東の国々と共にあげられているのかは分からない。「自発的な国々からなる機関」はアフガニスタンとイラクを攻撃する「テロに対する自発的な国々の連合」の前身である。また、予防的活動の理論はジョージ・W・ブッシュの政策を予告する。
しかしながら、このレトリックは相変わらず完全に共産主義に対して用いられている。そのため、まだ著名ではないバ-ナ-ド・ルイス教授はこう説明している。「イスラム教は世界の大宗教の一つであり、他の姉妹宗教とその道徳価値・道徳規範・道徳法規を共有し無実の者の虐待を非難する。(……)一般的に、イスラム教徒はキリスト教徒やユダヤ教徒と同様テロリズムには反対で、テロリズムへの嫌悪を共有している。通行人や非戦闘員・無実な者に対する近代テロリズムはイスラム教徒のものではない。テロリストが用いる爆弾や火器はイスラム世界へ外からもたらされるものである。」(« Terrorisme islamique ? »by Bernard Lewis in Terrorism : How the West Can Win sous la direction de Benyamin Netanyahou, Farra Straus Giroux éd., 1986.)
数年後、ベルリンの壁が倒される。ソ連が崩壊している一方で、バ-ナ-ド・ルイスは意見を変える。イスラム教徒が悪者になるにはソビエト人が必要ではなくなった。ユダヤ・キリスト教に比べてイスラム教はあまりに劣っているので、二つの文明は衝突する。この差異を意識するイスラム教徒は激怒しテロリズムに身を投じる(この分析は最初、全米人文科学基金が企画した会議で発表され、その後 « Resentment and Anger of the Moslem Masses »という題で1990年にスミソニアン協会、フ-ヴァ-研究所で発表されたのち、本となった。“The Root of Muslim Rage” by Bernard Lewis, Atlantic Monthly, September1990)。
この文明衝突理論は戦略となる。イデオロギ-上の敵ソビエト人の共産主義が死んだ以上。帝国は新たな敵を作りあげねばならない。1993年、アメリカの国家安全保障会議でバーナ-ド・ルイス教授の補佐官を務めたサミュエル・ハンティントン教授が答えを見出す。東西の分裂が消滅した現在、新たな分裂が生まれるだろうと彼は言う。それは、彼が宗教ブロックと同一視する文明同士の分裂である。彼はその理論を『文明の衝突と世界秩序の再形成』という本で展開する。彼は長い推論を用いて世界を9の文明に分け、未来の宗教戦争を説明する。この本を読むと、ハ-バ-ド大学の教授の自民族中心主義と無教養に大変驚かされる。それは、私達が、彼の分析の目的が世界を理解することではなく。一つの政策を正当化するためであることを忘れているからだ。
とはいえ、“国際テロリズム”と“文明の衝突”の理論を結びつけるだけで「イスラムテロリズムに対する戦争」ができるわけではない。“テロリズム”を連携させるために故ソ連にかわるイスラム教指導者を発明しなくてはならない。そしてその指導者にイスラム諸国の民族抵抗運動を結びつけねばならない。
1998年2月23日、ロンドンに拠点を持つアラビア語新聞Al-Qods-Al-Arabiは国際イスラム戦線と名乗る団体から受け取った声明をトップ記事に載せた。声明の5人の共同署名者にはウサマ・ビンラディンが含まれていた。アフガニスタンとユ-ゴスラビアにおけるCIAの協力者ビンラディンは陣営を変え、帝国に反旗を翻したということになる(Wie der Dschihad nach Europa kam by Jürgen Elsässer, NP Verlag éd., 2005)。アメリカがイラクを攻撃すれば--アメリカはすでにイラクを部分的に占領している—報復措置を受けるだろうと声明は述べている。6月半ば、アメリカ当局は、この脅迫を考慮し外交官の安全のための措置を取ると発表した。国務省は敵の正確な名前を初めて公表する。「ユダヤ人と十字軍に対するジハ-ドのためのイスラム国際戦線」である(« US increases security following “serious”threats of terrorist attack» AFP, 1998年6月13日)。
この命名は西側諸国での普及を目的としている。「国際イスラム戦線」という名称は「共産主義インタ-ナショナル」を模倣している。しかし、この名称はイスラム教文化においては意味を持たない。イスラム教徒は信者共同体の概念「ウンマ」を用いる。「ユダヤ人と十字軍に対するジハ-ド」はイスラム世界ではなくサミュエル・ハンティントンの米国人読者を対象にしたスロ-ガンだ。このスロ-ガンがイスラムインタ-ナショナルを宗教の分野に転換させる。このスロ-ガンは1998年の現実とは非常にかけはなれている。十字軍遠征は6世紀前に終っており、キリスト教徒はもはやエルサレムを占領しようとはしない。なによりも、シオニスト政権による占領と米英のイラク威嚇は直接な関係を持たない。Al-Quod-Al-Arabiに送られた声明の署名がたった一つで、不完全なものであることもそれを説明している。
この「ユダヤ人と十字軍に対するジハ-ドのためのイスラアム国際戦線」は1998年8月7日のダルエスサレム(チュニジア)とナイロビ(ケニア)のテロ、2000年10月12日のアデン港の米艦コ-ル攻撃の際にこけおどしの役割を演じることになる。あとはこの戦線にパレスチナとレバノンの抵抗運動を結びつけるだけでよい。イスラエルの労働党党首で国防大臣のビンヤミン・ベン=エリエゼルが2001年6月25日ユダヤ局の責任者を招いた際にその任務を遂行した。彼はこう宣言する。「ウサマ・ビンラディンはイスラエルに潜入しようとしており、そのために現地の住民や密使を利用しています(……)イスラエルとアメリカとヨ-ロッパを標的として活動するための、ウサマ・ビンラディンと関係を持つパレスチナ人テロリストとシ-ア派の連合が最近作られました。」(« Defense minister says Bin Laden trying to set up terror network in Israel », AFP, 2001年6月25日 ; « Defense minister warns of threat from bin Laden » by Jason Keyser,
Associated Press, 2001年6月25日ほか )しかし、イスラエル軍と南レバノン軍の仲介将校だったベン=エリエゼルは、ヤセル・アラファトのファタハがはるか以前にビンラディンをアメリカのスパイとみなし彼との関係を絶っていたこと、またヒズボラが常にビンラディンを敵とみなしてきたことを知っていた(Hizbullah : The
Story from Within, 2005の中でヒズボラ副書記Cheik Naim Qassemはウサマ・ビンラディンをシオニストプロパガンダの手先として描写している)。
その3ヶ月後の2001年9月11日にアメリカは巨大なテロ攻撃を受けた。司法調査が行われないまま、ブッシュ政権によりテロはウサマ・ビンラディンの犯行であるとされた。感情的ショックを利用してストロ-ス主義者達はジョン・ヨ-教授とその仲間がはるか以前に準備してあった法案を議会で可決させ、「イスラムテロリズムに対する戦争」を宣言した。この戦争のおかげで、彼らは大中東再編計画を実施することができる。
分裂させて支配する
シオニストのキリスト教徒にとって、イスラエル復興計画で重要なことは世界のユダヤ人を再集結させソロモン神殿を再建することである。そのため、委任統治領パレスチナよりもさらに広い国を想定しなくてはならない。この計画に順応するユダヤ教徒にとって、目的は聖書に描かれた「約束の地」の再現である。はるか以前に決定されたこの目的は、退去させるべき住民に恐怖を与えないために公的には明示されていない。この領土の征服は、策略と武力によって段階的に行われねばならない。
国際連盟によるパレスチナのイギリス委任統治決定の際、「英国国王はその地においてバルフォア宣言で予告されたユダヤ人国家設立を行うべきである」と記された。そのことは、委任統治領パレスチナ全体がイスラエル再建にあてられることを自動的に意味するわけではないが、そのように解釈した者もあった。この領土はメシア再来を期待しつつ世界中のユダヤ人を集結させるには不十分だからだ。
「最終的解決」が発見され、国際社会がシオニストのキリスト教徒の計画に賛同すると、この問題は一層詳細に扱われた。国際連盟の後を継いだ国際連合はその可能性を測るために調査委員会を急いで設置した。二つの選択肢が議論された。委任統治領パレスチナをアラブ人とユダヤ人の二つの民族からなる唯一の国家にするか、それとも領土を二つに分けて国境で隔てられた二つの国家を作るか。議論の最中、シオニスト組織は途方もない要求を行った。過激主義者の立場として理解するべき要求だ。ラビのフィッシュマンはユダヤ局にこう述べる。「約束の地はエジプトの川からユ-フラテス川までの領土であり、シリアとレバノンの一部も含む。」(1947年7月9日フィッシュマンの発言。The Zionist Plan for Middle East, Israel Shahak , Association of Arab-American University Graduates Inc éd., 1982に引用。)このような発言は地域の住民の恐怖を増加させる。シオニスト組織が一方的にイスラエル国家の建設を宣言し、直ちに国連が認めた国境の外へ領土を広げたため、なおさらであった。その後、イスラエルの国旗に関して論争が起きた。国旗の模様はユダヤ人の祈りのショ-ルから着想を得ている。多くの者がダビデの星を囲む水色の縞がナイル川とユ-フラテス川の象徴であり、これをイスラエルの領土要求の表現と解釈する(ヤセル・アラファトは1988年にプレイボ-イ誌へのインタビュ-で不安を表明し、パレスチナ政府外相のマフムド・アル=ザハルはイスラエルにそのような象徴を持つ国旗を放棄するよう求めている。 « Interview With Mahmoud al-Zahar »CNN late edition by Wollf Blitzer, 2006年1月29日)。
シオニスト組織は当時の議論に基づいて戦略的思想を発展させた。ドイツのカ-ル・ハウスホ-ファ-将軍の業績のいくつかの側面も--彼はナチスの拡張理論家だったにも関わらず--取り入れたが、何よりも、アメリカのユダヤ人大学教師ロバ-ト・ストロ-ス=ヒュペの業績の影響が見られる。(Geopolitics : The Struggle for space and Power by Robert Strausz-Hupé, Putnam éd, 1942 ; “Some Observation on Herzl’s Geopolitics” Robert Strausz-Hupé, Orbis,
hiver 1998, Foreign Policy Research Institute éd. )彼の3つの大きな思想が取り入られた。第一に、国は広ければ広いほど中心を攻撃される可能性は低い。「イスラエルが安全を得る権利」のために領土拡張が必要だ。さらに、イスラエルは植民地の小島である。ヨーロッパから移住したユダヤ人の生活様式は現地のアラブ人のそれとは全く異なるだろう。戦争になったら原住民は占拠ではなく破壊を行うだろう。イスラエルの安全のために彼らを強制退去させねばならない。最後に、広大な全体の統治は民族を分裂させることによってのみ可能だという思想である。
イスラエル首相とユダヤ局の局長を務めたモシェ・シャレットの膨大な回想録およびダヴィド・ベン=グリオンとの間の書簡を読むと、1950年代を通じてイスラエル指導階層でこの議論が続けられたことがわかる。いくつかの思想は少しずつ主要な指導者に強制的に与えられたが公式に記録されたことはない。(Israel
‘s Secret Terrorism. A study based on Moshe Sharett’s personal diary and other documents by Livia Rokach, Association of Arab-American University
Graduates Inc éd., 1982. )
モシェ・シャレットにあてたダヴィド・ベン=グリオンの書簡の一つがレバノンに関する見方を明示している。抜粋をここに記す。
「(レバノンのキリスト教徒は)レバノンにおいて歴史的に多数派です。この多数派の人々は(アラブ)連盟の他の民族とは根本的に異なる伝統文化を持ちます。拡張された国境においても(レバノンの国境を拡大したことがフランスの最大の失敗ですが)、イスラム教徒は多数派であってもキリスト教徒を恐れて自由に行動できません(彼らが多数派であるかは知りませんが)。このような条件下では、キリスト教国家の建設は自然なことです。歴史的なル-ツがあり、カトリックであろうとプロテスタントであろうと、キリスト教世界の大きな権力の支持を得ることができます。通常はキリスト教徒の率先的行為・勇気の欠如によりこのようなことはほぼ実現不可能です。しかし混乱・騒乱・革命あるいは内戦の状態においては、物事は変わり、弱い者が英雄を自称することができます。現在が、私達の味方となるキリスト教国家の建設にふさわしい時期である可能性(政治においては確実なものはなにもないので)があります。私達が率先して行動し支援しなければこれは実現しないでしょう。これは現在、私達の対外政策の重要な任務、あるいは重要な任務の一つだと思います。手段、時間、エネルギ-を投資しレバノンに根本的な変化をもたらすためのあらゆる手段を用いて行動するべきです(……)。レバノンの国境が縮小しなければこれは当然ながら実現不可能です。しかし、レバノンにマロン派国家建国のために集結する人々や要素を見出すことができれば広い国境は必要ないでしょう。大勢のイスラム教徒も彼らの障害にはならないでしょう。」
この戦略的思想は少しずつ近東に広がった。1982年、世界シオニスト機構の雑誌Kivunimに載った外務省の高官のものとされる記事がアラブ世界に大きな反響を引き起こし、ヨルダンで抗議運動が起こった。(Kivunimno14 février 1982(5782). 英訳はThe Zionist Plan for Middle East by Israel Shahak, Association of Arab-American University Graduates Inc éd., 1982.に掲載。)この資料には次のように書かれている。「レバノンを5つの州に解体することから始まり、エジプト、シリア、イラク、アラビア半島などアラブ世界全体がこれに続く。シリアとイラクをレバノンと同様民族的に同一な地域に分割することはイスラエルの東の国境における長期の優先的目的であり、これらの国家を政治的に解体することが短期の優先的目的である。シリアは今日のレバノンと同様、民族と宗教の構造に従って崩壊するであろう。海岸沿いにはアラウィ派国家、アレッポ付近にはスンニ派国家、ダマスカスには北部に敵対する別のスンニ派国家ができるだろう。ドゥル-ズ派は私達のゴラン高原に国家を持つかもしれず、ハウランと北ヨルダンに国家を持つことは確かだ。この状態がこの地域の長期に渡る平和と安全を保証するだろう。これが今日、私達が実現可能な目的である。」
4ヵ月後、イスラエルはロンドンの大使館に対するパレスチナ人のテロを口実にレバノンに侵攻し、難民キャンプのパレスチナ抵抗運動を攻撃した。「ガリラヤの平和」作戦である。イギリスの首相マ-ガレット・サッチャ-はロンドンのテロへのPLOの関与を公的に否定したが手遅れだった。イスラエルはレバノン南部にバントゥ-スタンを作り、政権をファシスト指導者バシル・ジェマイエルに与えベイル-トに独裁を強制しようとする。
1988年、イスラエル銀行は新しい10セント硬貨(10アゴロト)を発行し、古代ロ-マ人のエルサレム攻囲の時代の貨幣のモチ-フを再現した。(この硬貨の絵が描かれたのは1985年だが1988年になって初めて発行された。)この硬貨はエジプトのシナイ半島の一部とヨルダン、レバノン、シリアの一部、サウジアラビアとイラクの砂漠の大きな部分を含めたイスラエルの地図を表している。古代の地図作成は全く正確とはいえないが、それでも、この表象の公式な使用は大イスラエル支持者の明確なメッセ-ジである。この挑発が火薬に火をつけた。ヤセル・アラファトはシオニストの拡張主義を非難した(1988年12月13日の記者会見)。彼の配偶者で記者のイザベル・ピサノはヨーロッパの世論に警告した。(La Sospecha, Isabel Pisano, Belacqva, 2003)
1996年、首相となったベンヤミン・ネタニヤフはリチャ-ド・パ-ルが統括するグル-プが執筆した二つの報告書を受け取った。「清潔な断絶 王国(イスラエル)を安全化する新たな戦略」と「崩壊する諸国家への対処 東方諸国のための西洋とイスラエルの勢力均衡戦略」である。(A Clean Break : A New Strategy for Securing the Realm およびCoping with Crumbling States : A Western and Israeli Balance of Power Strategy for the Levant, Study group on a new Israeli strategy toward 2000, Institute for Advanced Strategic and Political Studies éd., 1996.)この研究はパレスチナ問題解決とイスラエルの領土拡大を、アメリカと共有する利害を利用して武力だけで行うことを奨励する。ユダヤ人国家と「西洋」は友好国ヨルダンとトルコの支持を用いて数世紀来のアラブ民族主義とイランのイスラム革命に対して戦わねばならない。オスロプロセスを止め、パレスチナ人へ「アラファトが及ぼすリ-ダ-シップにかわるものを見出すこと」(すなわちパレスチナ政府大統領を排除すること)が適切である。
補佐官達は一つの取引を計画する。イスラエルはスタ-ウォ-ズ計画に参加することで--ミサイルシステム配備のために領土使用を許可することで--米国防省に貢献する。そのかわりにアメリカはサダム・フセインを倒し、イラクを解体し、レバノンからシリアを撤退させ、アラブ統一国家の神話を終らせるのだ。イラクのシ-ア派地帯には、イランのイスラム革命の影響を阻むためヨルダンの王家の一族が統治する独立国家が作られるだろう。
この思想はウォ-ル・ストリ-ト・ジャ-ナル誌でリチャ-ド・パ-ルによって要約され(« Two Imperatives for the New Israel : Balance of Power », Richard Perle, The Wall Street Journal, 1996年7月10日)、同日、ベンヤミン・ネタニヤフによってアメリカの議会で述べられた(Adress by His Excellency Benyamin Netanyahu, Prime Minister of Israël, Congressional Record, Joint Meeting of the House and the Senate 104e Congrès, (H7159 à H7162)1996年7月10日)。これはクリントン政権を説得することはできなかったが(« Ultimate‘peace process’ prize » by Robert J. Loewenberg, The Washington Times,
1996年10月13日)、リチャ-ド・パ-ルが国防省の補佐官になったこともあり、ブッシュJrには容易に受け入れられた。(«US thinktanks give lessons in foreign policy » ; « Playing skittles with Saddam » by Brian Whitaker, The Guardian, 2002年8月19日と9月3日。 «The Clean Break Plan : Implication for U.S. Middle East Policy » by Delinda C. Hanley, Washington Report on Middle East Affair, Vol23-1, janvier –février 2004.)しかし、イラクにヨルダン王国を再建する計画は忘れられた—イラク国連特使の娘とアリ王子の婚約などの様々な有名人の企てがあったにも関わらず。
レバノンとシリアに関する戦略は2000年5月、ダニエル・パイプスとジアド・アブデルヌ-ルの管轄下で、新保守主義者、シオニストのキリスト教徒、軍産複合体の代表者からなる研究グル-プによって詳細に作られた。
それ以来、パイプスはアメリカで近東紛争の最も影響力のある解説者となったが、彼は何よりも、ロバ-ト・ストロ-ス=ヒュペの精神的な息子であり、この点では息子の名に値しないヘンリ-・キッシンジャ-の後継者である。ダニエル・パイプスはすでにアングロサクソンのプロパガンダの複数の概念を作り上げている。「新反ユダヤ主義」(シオニズムへの批判はすべて反ユダヤ主義とみなされる)(« The New Antisemitism » by Daniel Pipes, Jewish Exponent, 1997年10月16日)と「近東陰謀論」(アメリカとイスラエルの隠された帝国主義的意図を非難するアラブ人は自分達の問題を解決できないために贖罪のヤギを探しているだけだとする)である。(The Hidden Hand by Daniel Pipes, St Martin’s Press éd., 1996 ; Conspiracy, Free Press éd., 1997.)レバノンとシリアに関する共同研究者のジアド・アブデルヌ-ルはアメリカとレバノンの二重国籍を持つニュ-ヨ-クの銀行家である。ファシストのファランヘ党党首の従弟で、家族の複数のメンバ-が冷戦中、世界反共連盟に参加した。自由なレバノンのための米国委員会の議長であり、ラフィク・ハリリ暗殺の首謀者がシリアであるとするメディア報道に中心的な役割を演じた。
「レバノンにおけるシリアの占領を終らせる 合衆国の役割」と題された研究グル-プの報告書はイスラエル首相エフ-ド・バラクがレバノンからのイスラエル軍撤退(シェバを除く)を発表している時に書かれた。(Ending Syria’s Occupation of Lebanon : The U.S. Role, Lebanon Study Group, The Middle East Forum éd., 2000. )この報告書の中ではレバノンの問題がシオニストの利害の観点から扱われている。シリア軍が撤退はイスラエル占領軍撤退と並行して行われるべきであり、それによりレバノン経済がグロ-バル化に入ることができる。イスラエルが占領し続けているシェバ農園はユダヤ人国家が自国のために以前から望んでいるこの地の水源を利用できるように国際化されるべきだ。レバノンはハリリのシステムと手を切り経済グロ-バル化のため開国すべきだ。キリスト教徒の共同体の権力が強化されるべきだ。最後に、アメリカはシリアをレバノンから追放するために軍事的優位を躊躇せず利用すべきである。
レバノンの経済搾取の計画に夢中になっていた研究グル-プは、レバノン抵抗運動がイスラエル軍の不完全な撤退後に発展し、シェバ農場の解放を準備することを予想していない。グル-プのメンバ-の中に民主党員エリオット・エンジェルがいた。彼はイラク侵攻直後、シリアの責任とレバノンの主権回復に関する法律を採択させ、レバノンとシリアを帝国の次の標的として指名する。
しかしながら、シオニズムの拡張主義の論理はこの地域におけるアメリカの野心に従わねばならない。
いかにして石油を支配するか
1973年10月のイスラエル-アラブ戦争の際、アメリカは石油輸出国機構(OPEC)さらにアラブ石油輸出国機構(OAPEC)に対抗する。OPECはアメリカのイスラエル支持への制裁として生産を制限し、6ヶ月で価格を4倍に引き上げた。さらに、OAPECはイスラエルが新たに占領した土地からの撤退を強制した。産油国は突如として炭化水素資源の主権を回復し、アングロサクソンの石油会社は支配権を失った。この打撃は大きかった。石油ショックは産業経済を破壊する。
アメリカはエネルギ-に関する自国の主義を見直し、これに対処した。メディアと議会で議論が行われた。(« U.S. Threats of Intervention Against Arab Oil : 1973-1979 »by Marwan R. Buhery, Institute for Palestine Studies Papers no4, 1980.)これに関しては、ヘンリ-・キッシンジャ-国務長官が秘かに操作していたことが後にわかった。(« The Thirty-Year Itch »by Robert Dreyfus, Mother Jones, mars-avril 2003.)ロバ-ト・W・タッカ-教授はアメリカユダヤ委員会の雑誌コメンタリ-に一つの見解を発表した。禁輸措置が再び行われた場合、国連が解決法を課す以前にアメリカ経済は深刻な損害を被るだろう。そのため国防省は緊急に軍事介入をせざるをえないだろう。(« Oil : The Issue of American I Intervention » by Robert W. Tucker, Commentary, 1975年1月)この点について質問されたヘンリー・キッシンジャ-は、価格を低下させるため石油カルテルに対して軍事力を行使することは問題外であるが、産業世界の首を絞めるようなことになれば(新たな禁輸措置が行われた場合は)話は別だと答えた。(1974年12月23日Business Weekのインタビュ-)しかも、謎のMiles Ignotusがさらなる行動に出た。Harper’s誌でその人物は、新たな禁輸措置に備えてアメリカ経済の永続性を保証するため「アラブ人の石油を没収する」よう忠告している。(« Seizing Arab Oil»by Miles Ignotus, Harper’s 1975年3月)Miles Ignotusとはラテン語で無名の兵士という意味だ。この名の後ろに優れた頭脳のエドワ-ド・ルトワックとジャクソン主義者達が存在する。最終的に、代表者リ-・ハミルトン(28年後に9.11テロの調査委員会とイラク研究グル-プの議長を務める人物)が議会のための報告書を命じる。「軍事標的としての油田 実現可能性の研究」である。(Oil Field as Military Objectives, A feasibility Study , prepared for Special Subcomittee on Investigations of the Committee on International Relations, Congressional Research Service, 94éme Congrès, 1ere session, US Government Printing Office, 1975年8月21日)この報告書は、禁輸措置の危険が存在する場合、中東の石油資源を没収するための軍事介入は予防措置として正当化されると結論した。もっとも、この介入はソビエトの非介入が前もって確かである場合に限って開始されることが道理にかなっている、と。
サウジアラビア国王ファイサル二世は石油禁輸措置において指導的役割を演じた。しかし、彼は1975年3月家族のメンバ-によって殺害された。殺人犯の若者はCIAに操作された薬物常習者だった。沈黙の幕が直ちに王国を被い、国王暗殺者は斬首された。サウジアラビアは再び慎重になり反シオニズム政策を中止し、連盟諸国は大損害を被った。すると、ヤセル・アラファトとアブデルアジズ・ブデフリカに支持されたリビア大統領ムアンマル・アル=カダフィは派手な作戦を行った。1975年12月21日、イリッチ・ラミレズ・サンチェス(カルロスの名で知られる)とヨハネス・バインリヒがウイ-ンに集まったOPEC諸国の閣僚を人質にした。組織のメンバ-国に対し、石油の利益を抑圧された民族の解放と第三世界の経済発展のために用いることを約束させるためだった。しかし、メンバ-の一部のワシントン服従で身動きが取れないカルテルは政治的な駆け引きを続けることを諦めた。
しかし、カ-タ-大統領は対外政策に関する顧問スチュア-ト・エイゼンスタットに唆され、OPECを世界経済無秩序の責任者とし、公敵ナンバ-ワンにした。 (« OPEC : The Cartel That Never Was » by Edward Jay Epstein, The Atlantic, 1983年3月)最終的に、1980年1月23日の一般教書演説でジミ-・カータ-は自己の名前を持つ主義を発表する。「私達の立場を完全に明確にするべきです。外国の軍事力によるペルシャ湾地域の制圧の企ては全てアメリカの不可欠な利益への攻撃とみなされ、そのような攻撃は軍事力を含め必要なあらゆる手段で退けられるでしょう。」(State of the Union Address by president Carter, 1980年1月23日)
ヘンリ-・キッシンジャ-は二つの柱を利用したペルシャ湾の安定化を考えた。サウジアラビア(禁輸措置を行ったとはいえ)とイラン(シャ-が打倒されたとはいえ)である。ジミ-・カ-タ-は、自国以上に自国に奉仕できるものは存在しないと考える。それで、彼はアメリカに、ペルシャ湾に即座に介入できる防衛軍を与えた。この論理に基づき、彼の後継者ロナルド・レーガンは米国の国防地帯を見直し湾岸介入のための特別の軍隊を作った。アメリカ中央軍である。
しかしながら、アメリカは介入の舞台を正確に決定することを躊躇する。既知の油田の監視だけにとどめるならば、インド洋岸とアフリカ西岸、アラビア半島とイラン、東はパキスタンまで軍を展開させねばならない。しかし、バーナ-ド・ルイス教授の助言に従えば、西はエジプトとスーダン、東はインドとインドネシアまで、イスラム諸国を大きく包含するべきだ。これが「危機の三日月」の理論である。(« The Crescent of Crisis », Time Magazine 1979年1月15日) 三日月の用語は地図上の弓形を指すが、それと同時にイスラム教の三日月を軽蔑的に喚起する。ルイスはソ連の影響が民族主義運動を通じて行使されると考える。アメリカはその反対に宗教運動に賭けねばならない。彼らはイスラム教を利用して中央アジアのソ連の共和国を不安定化することができる。この理論に基づき。アメリカ政府はシャ-・レザ・パフレヴィを見捨て、イマムのホメイニの帰国を計画した。ホメイニを操作できると考えたからだ。この同じ基盤に立って、CIAはイスラム主義者を傭兵に雇い、アフガニスタンで赤軍に対して戦わせ、イスラム過激派への資金提供システムを作ったのだ。
この議論とは別に、アメリカはトルコを中央軍から除外することにした。トルコはNATOのメンバ-だからだ。またイスラエルを「危機の三日月」から除外した。イスラエルとアメリカによる介入がイスラム諸国の統合を引き起こすのは明確だからだ。(America, the Gulf and Israel : Centcom and Emerging U.S. Regional Security Policies in the Middle East, by Dore Gold, Jaffee Center for Strategic Studies, The Jerusalem Post éd., 1988. )エドワ-ド・ルトワックが述べたように、イスラエルはその存在自体により自ら形成に貢献した諸問題を解決するのに、アメリカの助けにはならない。(1986年7月4-9日エルサレムの戦略会議における発言)
しかしながら、1980年代の終わりになってもこの措置は成果をもたらさなかった。イランは全ての制圧から逃れ、サウジアラビアは別の提携国(英国、フランス、中国)へ接近した。ソ連崩壊が最終的にアメリカのペルシャ湾軍事介入を容易にした。
1990年、ワシントンは経済面でイラクの首を絞めるようクウェ-トに圧力をかけた。小首長国は対イラン戦争の資金の返済をサダム・フセインに求め、同時に両国の間の中立地帯の石油を採掘した。さらに、CIAはサウジアラビアに対し偽の衛星写真による情報操作を行い、イラクの侵攻が近いことを信じさせた。最後に、国務省はサダム・フセインにクウェ-ト併合を勧めた。罠は閉じられた。イラクは主権国家に侵攻することで再び国際法違反の立場になる(革命を起したイランへの侵攻を試みたときは誰も不平を言わなかったのだが)。アングロサクソン諸国はこれを利用し、砂漠の嵐作戦を開始する。(Guerre du Golfe, le
dossier secret, by Pierre Salinger et Eric Laurent , Oliver Orban éd., 1991.)ソ連とフランスはイラクを擁護する力はなかったが、完全占領には反対する。アングロサクソン諸国はサダム・フセインを政権の座に維持することに同意しクルド人地帯の油田(Nothern No Fly Zone)だけを占領し、南部の油田(Southern No Fly Zone )を監視下においた。生産全体が国連の監督下に置かれた(石油食料交換プログラム)。(Iraq and the Intervention Oil System. Why America Went to War in the Gulf, by Stephen Pelletiere, Maisonneuve Press éd., 2004 )
1994年から1995年にかけて、アメリカ、フランス、ドイツはOPECの人質事件の記憶を消すための合同作戦を行った。“カルロス”はウサマ・ビンラディンとハッサン・エル=トゥラビによってス-ダンで見つかった。彼はフィリップ・ロンド将軍の部下に誘拐され、フランスで裁かれ、有罪判決を受けた。(« LE Général Rondot, maître espion, tire sa révérence » Georges Malbrunot, Le Figaro, 2006年1月10日 )ヨハネス・バインリヒはイエメンで見つかった。彼はデトレブ・メヘリス検事によって逮捕されドイツに移送され裁判で有罪判決を受けた。(« Weinrich appears in court charged with terrorist attacks » AFP, 1995年6月5日)
イラクでの勝利は12年後、ジョ-ジ・W・ブッシュによって補完された。彼はイラク領土の残りの部分に侵攻し、1年間、連合軍の暫定政府に採掘を行わせた。この暫定政府は公的権利を持つ組織ではなくかつての東インド会社のモデルにならって行動する民間の会社であり(« Autorité provisoire de la Coalition : l’Irak
privatisé » Thierry Meyssan ; Voltaire actualité international no 1 mars 2005.)、規則が保持されることを条件に、政権をその名にふさわしくない政府に譲った。30年の戦いの結果、ホワイトハウスとアングロサクソン系の石油・化学企業はついに報復に成功した。(« The Thirty-Tear Itch »by Robert Dreyfus, Mother Jones, 2003年3月)
いかにして中東を再建するか
シオニストの戦略思想とアメリカのエネルギ-利害は少しずつ一体化する。シオニストの領土とアメリカの権力を拡大するため、現在の秩序を転覆させねばならない。このシンテ-ゼがロバ-ト・ストロ-ス=ヒュペの理論を中心にして作られた。彼は1957年のマニフェストにこう書いている。「アメリカにとっての争点は、この世代の間に世界を彼らの主導権の下におくことだ。この任務をアメリカが効果的にすばやく行うことで、指導的大国としてのアメリカの存続が決まる。西洋文化の存続、さらには人類の存続もこれにかかっているかもしれない。(……)輪郭が見え始めている世界秩序はアメリカの世界帝国の秩序だろうか?そうでなければならない。アメリカの精神の刻印を持っている限り。(……)来るべき秩序は歴史の移行の最終段階となり、今世紀の革命の時代は終るだろう。アメリカ国民の使命は民族国家を埋葬し、喪に服すこれらの民族をさらに広い統合体へと導き、新世界秩序破壊の意志に対しその権力で威嚇することである。新世界秩序が人類に提供するのは、腐敗したイデオロギ-や暴力的な力だけである。今後50年間、未来はアメリカのものである。アメリカ帝国と人類は対立せず。平和と幸福の印の下の同じ普遍的秩序を求める二つの名前にすぎない。Novus Orbis terranum (新世界秩序)である。」(« The Balance of Tomorrow », by Robert Strausz-Hupé, Orbis, 1957.)
この信仰告白はOrbis誌の第一号で発表された。この雑誌の編集委員会にはヘンリ-・キッシンジャ-、バ-ナ-ド・ルイス、サミュエル・ハンティントンが含まれる。
1985年にバ-ナ-ド・ルイスは当時イスラエルの国連大使だったベンヤミン・ネタニヤフの補佐官になり、「同一民族・宗教の地帯」に分割された近東の未来について想像する。彼の地図はこの地域の再編成の最初の具体的プランを明示する。イスラエルはパレスチナの占領地帯の全体、シリアのゴラン高原、南レバノン、エジプト領シナイ半島を吸収する。ヨルダンは免除される。小さくなったレバノンは三つの国家に分割される。北にマロン派国家、中央にイスラム国家、南にドゥル-ズ派国家が作られる。シリアは切断され、アラウィ派国家、クルド人国家が作られる。クルド人国家はトルコ、イラク、イランの一部を含む。イラクからはその他に二つの国家が作られる。シ-ア派国家とスンニ派国家である。イランは解体され、南にアラビスタン国家、北はアゼルバイジャンとトルクメニスタンに包含される。アフガニスタンとパキスタンからはバルチスタンとパシュトニスタンが生まれる。
アメリカを栄光の地位へもたらすこの秩序の大変化は当然ながら大理想の名のもとに行われる。1995年、晩年のロバ-ト・ストロ-ス=ヒュペ(92歳)は、アメリカ帝国拡張は民主主義の名においてのみ行われることが可能だと述べた。(Democracy and American Policy : Reflections on the Legacy of Alexis de Tocquevilleby Robert Strausz-Hupé, Transaction Publishers éd., 1995.)
2001年9月11日、この思想がアメリカ軍さらにブッシュ政権において不可欠となった。アメリカ陸軍の雑誌Parametersでロバ-ト・ストロ-ス=ヒュペの弟子ラルフ・ピ-タ-ズ大佐は、アメリカが「人類の変化と自由のチャンピオンの地位から、極めて悪い現状を維持するために人類の資源と力と生命を横領する国の地位に落ちた」ことを嘆いている。(« Stability, America’s Enemy » Ralph Peters, Parameters, no31-4 hiver 2001.)彼はウォ-ルストリ-トとワシントンの間の、すなわち、短期の利益を求める民間の利害と長期の連邦国家計画の間の厳密な分離を支持している。
彼は次のように続ける。「アメリカ人にとって激しい無秩序は自然に反した状態であり、解決されるべきであるが、社会や地域への高レベルの暴力は私達が慣れていない異なる種類の均衡の維持に役立つ。暴力の時期は避けて通れないゆっくりとした移行の時期である。私達は暴力が人間の性質に人工的に課されたものであると認めるために暴力を認可する必要はなく、暴力が自然に反していると主張する必要もない。暴力の複雑な起源についての私達の知識はあまりに少なく、この点に関する私達の信仰は迷信にすぎない。個人的な暴力であろうと集団的な暴力であろうと、私は自分の理論でこれを理解するよりもむしろ説明しようとする。中東は非人間的かもしれないが、地上で最も人間的な場所の一つである。結局のところ、中東紛争の平和的解決がアメリカにとって有益だろうか?イスラエルはもはや彼らを最後まで擁護するアメリカに依存せず、不安を与えるほどに独立性を示している。アラブ世界は一層アメリカに頼る可能性があり、これは歴史の大きな慰めの一つである。」
退役後フォックスニュ-スの軍事解説者となったラルフ・ピ-タ-ズ大佐にとって中東の無秩序と暴力は必要な害悪であった。レオ・ストロ-スの言葉を借りれば、混沌は建設的である。そして最終的にその犠牲者をアメリカの保護下に強制的に置くことになる。
この観点から見れば、「テロリズムは最終的に暴力的な問題だが9月11日の事件にも関わらずアメリカ存続の脅威にはならない。(……)歴史上最も恐ろしいテロの2日後2001年9月13日にこれらの方針が書かれた。アメリカは正当な怒りにとらわれた。怒りは国内の災害の最悪の結果を誇張する。しかしこのエッセイが印刷される前にアメリカ人は彼らの生活が見事に通常通りであることに気づくだろう--メディアが喜んでヒステリックになるとしても。何千もの人間の悲劇、ハイジャック、貿易センタ-ビルとペンタゴンへのテロによる混乱にも関わらず、驚くべきことに、テロリストがアメリカの日常生活に及ぼす影響はほんの少しの間であることがわかる。傷跡は存在するだろう。しかし、このグロテスクな悲劇の長期の影響は最終的にアメリカを再強化するだろう。(……)悲劇を過小評価するわけでは全くないが、アメリカがこれによりいっそう強く、いっそう団結するというのが事実である」
さらに、アメリカを破壊し新たな権力のシステムを試す時が来ていると彼は述べる。「多国籍企業が独裁者よりも人間的に統治できるならば、彼らにチャンスを与えたらどうだろうか?もし一つの部族が腐敗し抑圧的な政府より良く統治できるならば、その部族に彼らが望む土地を与えたらどうだろうか?」
これらの思想はナタン・シャランスキ-の本『民主主義の論拠 独裁と恐怖の打倒のための自由の力』(The Case for Democracy : The Power of Freedom to Overcome Tyranny and Terror, by Nathan Sharansky and Ron Dermer, Public Affairs éd ., 2004.)や、シャランスキ-がジョ-ジ・W・ブッシュ大統領のために書いた演説の中に見られる。
ラルフ・ピータ-ズ大佐は最終的に統合参謀本部議長の思索の結果を月刊誌Armed Forces Journalに発表する。再編成された近東の地図である。(« Blood borders ; How a better Middle East would look »by Ralph Peters, Armed Forces Journal, 2006年6月)
再編成前
再編成後
1947年のルイス案
この地図はバ-ナ-ド・ルイスが1985年に作った地図を主に利用している。例外は、パシュトニスタンのアイデアが放棄され、サウジアラビアが解体されていることだ。ショックを与えすぎないように、イスラエルの国境は1967年のそれを維持しており、何も要求していないヨルダンが拡大している。この漏洩はドナルド・ラムズフェルドの抵抗を押し切るための統合参謀本部議長の非礼である。国務省への平手うちでもある。国務省は突然、連盟国トルコ、イラク、パキスタンへペンタゴンの計画を説明しなくてはならなくなる。
この地図の発表は世界中の国の参謀本部の動揺を引き起こした。「5000年来のちょっとした汚い秘密、民族浄化事業だ」というコメントがついていただけになおさらだった。トルコ、シリア、パキスタンではこの地図について公的な議論がなされた、しかし、この話全体があまりに恐ろしいため、NATO諸国のメディアは大衆にこれを知らせないほうを選んだ。
次に、レバノンへ戻って私達が中断した話を続けよう。各国が準備した戦争が始まる。
破壊する
戦争開始
2006年7月12日、アルマナ-ルは発表した。「捕虜と囚人の解放をかちとるという誓いに従い、抵抗運動は9時05分にパレスチナ占領地域の国境で二人のイスラエル兵を捕えた。二人の捕虜は安全な場所に移された。」AFPに従えば、この事件に関する二つの説が普及する。「レバノン警察によれば、二人の兵士はレバノン領土内、レバノン-イスラエル国境付近のアイタ・アル=シャアブ地方で捕えられた。イスラエルの連隊が今朝侵入した場所である。しかし、イスラエル公共テレビは兵士達がイスラエル領土内、レバノンとの国境近くのザリトのモシャブ(集合農園)近くで捕えられたと述べた。」(« Le Hezbollah capture deux soldats israeliens, offensive d’Israël au Liban », AFP, 2006年7月12日10時35分GMT, ベイル-ト時間13時35分)言葉を変えれば、イスラエルはヒズボラの戦士がイスラエル領土に侵入して兵士を誘拐したとみなす。他方で、レバノン側は、ヒズボラがイスラエルに複数のロケット弾を発射し、イスラエル軍のパトロ-ル隊がレバノン領土にまで入り込み、待ち伏せの罠にかかり、8人の兵士が殺され2人が捕虜になったとする。いずれにせよ、国際法によれば、領土の一部が占領されている国の国民が占領軍に対して活動を行うのは正当であり、敵の領土でもそれを行うことができる。イスラエルはシェバ農園を占領している。それゆえ、レバノン抵抗運動がイスラエル軍に対して活動を行うことは正当で、根拠がある。そのため、この作戦に関する国連の資料は、待ち伏せの場所を明確にせず、兵士が「誘拐された」とは言わず「捕獲された」と述べることで、この活動が犯罪ではなく軍事活動であることを強調している。
前哨戦の後、ただちに“ブル-ライン”すなわち両国の国境の代わりをなす停戦ラインの両側からロケット弾が発射された。午後の初めにオルメルト首相はこの作戦を「戦争行為」と形容し、こう宣言する。「我々の決意を揺るがせようと試みる人々がいるが、彼らは失敗し、自分達の行為のせいで高い代価を払うことになるだろう。(……)ヒズボラが属するレバノン政府はこの活動の結果起こることを耐えねばならないだろう。」(« Olmert accuse le Liban de l’enlèvement de ses deux soldats », AFP, 2006年7月12日11時18分GMT、ベイル-ト時間14時18分)イスラエルテレビは、夕方に危機対策会議が開かれるが、それを待たずにイスラエル軍は二人の兵士を見つけ出すための大規模な作戦へむけて6000人の予備兵を招集したと述べた。(« Israël-Mobilisation de réservistes après l’attaque du Hezbollah »Reuters, 2006年7月12日、11時31分GMT、ベイル-ト時間14時31分)
国際メディアはまもなく事件に関する彼らの解釈を報じ始めた。「ヒズボラによるイスラエル兵士2人の誘拐はレバノンのシ-ア派運動とパレスチナのハマスの連携の成果である」とAFPは断言する。パリのアラブ諸国コンサルタントオフィス(OPA : Observatoire des pays arabes)の所長を務めるアントワ-ヌ・バスブによれば「(ハマスとヒズボラの間の)連携は存在し、ダマスカスとテヘランにその着想が存在する。」(« Coodination Hezbollah-Hamas avec la bénédiction de Damas et Téhéran », AFP, 2006年7月12日11時31分GMT)
実際はアラブ諸国コンサルタントオフィスとは実体のない機構であり、アントワ-ヌ・バスブ-は中立な分析者ではない。バスブ-はジャ-ナリストであり、かつてレバノンのファシスト党の論説委員を務めた。彼はガリラヤの平和作戦とサブラとシャチラの虐殺作戦でイスラエル占領軍に協力した。
しかしそれでもかまわない。国際メディアは、最近のパレスチナ占領地域でのイスラエル兵捕獲と、今回のレバノン国境での二人の兵士の捕獲を結び付けるこの単純化を好む。ヒスボラはこの作戦を6ヶ月前に予告していたにも関わらず。このアマルガムにより、ガザ地区における弾圧に比較できるイスラエルの報復行為を正当化することができる。二つの状況を比較することはできないとは誰も指摘しない。レバノンは国際社会に認められた主権国家であり、パレスチナの領土は国際法が適用されない地帯である。1986年に航空士ロン・アラドの飛行機がレバノン領空を侵害した際に撃墜され、飛行士がレバノンで拘留された時、ヘブライ人国家は軍事的対応を行わなかったことを誰も指摘しない。シャロンの秘密の経理員エルハナン・タネンバウムの釈放や、3人の兵士の遺体返還要求の際も、イスラエルは武力を用いなかった。イスラエルはドイツのゲアハルト・シュレ-ダ-首相の仲介でレバノン人捕虜17人と交換することに同意した。2006年7月12日には別の争点が存在した。
これに続く数時間、この国の国連代表者ギア・ピ-ターセンとヨ-ロッパの委員会はヒズボラに二人の捕虜を解放するよう呼びかける。フランス外相フィリップ・ドゥスト=ブラジーは宣言する。「イスラエル-レバノン国境の最近の展開を非常に懸念しています。今朝のキリアト・シュモナ市へのロケット弾発射を非難します。また二人のイスラエル兵の誘拐も非難します。彼らを無条件にただちに解放するよう要求します。」ドイツの新首相アンゲラ・メルケルも「二人の兵士を無条件にただちに解放するよう要求する」と述べた。コンドリ-ザ・ライスはこうコメントする。「テロ組織ヒズボラによる二人のイスラエル兵の誘拐を非難します。(……)この活動は地域の平和を危険にさらし、イスラエル国民とレバノン国民の利益に反します。」(« Rice condamne le Hezbollah qui “menace la stabilité ”de la région », AFP, 2006年7月12日、16時16分GMT、ベイル-ト時間19時16分)またホワイトハウスは次のように付け加える。「我々は、ヒズボラを直接支持するシリアとイランもこの活動とそれに続く暴力に責任があるとみなす。」(« Soldats israéliens : Maison Blanche rend la Syrie et le Liban responsables »,AFP, 2006年78月12日、18時57分GMT、ベイル-ト時間21時57分)協調したヒズボラ非難において、ロシアの立場は外れているように見える。「現在最重要な任務は緊張の新たなエスカレ-トを断つことだ。この紛争が全体的な衝突にならないようにすることだ。(……)係争中の問題を、それがいかに困難で配慮を要するものだとしても政治的外交的手段によって解決しなくてはならない--イスラエルの刑務所からのパレスチナ人とレバノン人捕虜の解放を含む問題である。」とセルゲイ・ラブロフ外相は述べる。
ベイル-トで、ハッサン・ナスララは記者会見を開いて説明する。「今日私達が行ったことは、(……)イスラエルの監獄からの捕虜解放のための唯一の方法でした。(……)間接的な交渉と捕虜交換の手段によってのみ彼らは母国に帰ることができるでしょう。」(« Le Hezbollah indique avoir enlevé les soldats pour un
échange », Reuters, 2006年7月12日)彼は首相フアド・シニオラに否認される。シニオラはレバノン人捕虜解放のために活動したことはないと述べる。「政府はこの件を知らず、責任を持たない。国境で起きたことを承認しない。」政府はこの問題を国連安全保障理事会に委託する。
午後の間じゅう、イスラエル航空隊は10回ほど遠征しレバノン南部と首都の交通路と発電所、ベイル-ト郊外のパレスチナ難民キャンプを爆撃した。(« Raid
de l’aviation israélienne contre une base palestinienne à 16km au sud de Beyrouth »Associated Press, 2006年7月12日、19時43分GMT、ベイル-ト時間22時43分)空軍は沿岸の道路を爆撃した。アルマナ-ルとNews TVの記者が犠牲者に含まれる。(« Trois journalistes libanais blessés dans un raid israélien « AFP, 2006年7月12日)装甲車と歩兵が前哨の地域を掃討し、強い抵抗に出会った。
イスラエルのテレビは「軍の参謀総長ダン・ハルツ中将は、二人の兵士が解放されなければイスラエル軍はレバノンの公共施設を狙い、20年前の状況に戻すとレバノンに警告した」と報じる。夕方、安全保障委員会は参謀総長の提案を聞いた後、レバノンに対する戦争開始命令を出した。以下が公式声明である。「イスラエルは主権国家レバノンにイスラエルで誘拐された二人の兵士の返還の責任があると見なす。イスラエルはレバノンが安保理決議1559を適用することを要求する(ヒズボラの非武装化)。レバノンで活動するテロ組織のヒズボラが今日の行為を犯したことは疑いがない。イスラエルはヒズボラのやり方に対応しなくてはならない。この侵略行為に対してイスラエルは厳しく対応しなくてはならず、それに成功するだろう。イスラエルは攻撃的に容赦なく、今日の活動を行った者達に応え、イスラエルに対する活動を失敗させるようにするだろう。国際社会はイスラエルも含めすべての国がヒズボラのような敵に対しては攻撃的に対応しなくてはならないということを理解する。」(« Communiqué du Cabinet de sécurité concernant l’offensive du Hezbollah sur Israël », 2006年7月12日)
その晩遅く、レバノン共和国大統領エミ-ル・ラフ-ドはレバノン首相とイスラエル政府に答え、抵抗運動を支持することを表明する宣言を行った。「レバノン南部の町や村、橋をも狙ったイスラエルの攻撃が行われ(……)イスラエルによる一連のレバノン主権・レバノン安全侵害に新たな侵害行為が加わった。(……)これはレバノン人の恐怖を与えることはなく、彼らの統合と連帯を強めるだけだ。今日、レバノン人は断固として国民的立場を保持し、攻撃に対する解放への戦いを続けるだろう。(……)イスラエルは自国の政策が成果をもたらさず、その逆に状況を複雑にし、地域の安定と平和を危険にさらすことを知らねばならない。」(« Lahoud : Le Liban ferme dans sa lutte, Israël complique la situation » AFP, 2006年7月12日21時48分GMT、ベイル-ト時間0時48分)
テルアビブとワシントンから見れば、レバノンへの攻撃は可能である。1559年の決議によりシリア軍が撤退して以来、この国は無防備の状態である。レバノン治安部が逮捕したモサドのスパイとその政治暗殺活動関与--ラフィク・ハリリ暗殺を含め--に関する調査続行を妨害するためにこの攻撃は必要である。
ベイル-トから見れば、ヒスボラと軍はイスラエルの新たな侵攻に6年前から備えていたとはいえ、攻撃は秋だろうと予想していた。しかしもう手遅れだ。60年前からこの地域を支配する、アメリカに過武装された無敵の敵に服従することになる。
世界中の国々の政府が、イスラエルの勝利は疑いがないと考えた。イスラエル軍が民間人を容赦するために仲裁者を演じる配慮をしただけである。
こうして、34日戦争が始まった。
最初の戦闘
TsahalとはTsva Haganah Le-Israel(イスラエル防衛軍)の略称である。ハガナのユダヤ人部隊の後を継ぐ軍隊だ。世界の他の軍隊と違い、Tsahalは国家よりも前に作られ、国家の基礎となった。そのため、イスラエル社会では、民間分野と軍事分野の間の区別が存在しない。日常生活においては、民間人の地位は、男性であろうと女性であろうと、その者の軍事参加に従属する。大学での学問のための奨学金やローンの契約を獲得するためにもそれが必要だ。国民兵役を免除されるユダヤ教信者も軍人とみなされる。Tsahalはアパルトヘイトの主要な手段である。人口調査員は軍事適性証明書を、親子関係の基準に従ってユダヤ人とドゥル-ズ派の人々に与え、アラブ人にはそれを拒否する。その結果、アラブ人は基本的権利を奪われる。
Tsahalは他の国の軍隊と同様、20年前から大幅な再編成を行った。技術化し、隔壁を除去して、人数よりも職員の高資格を重視した。この機会に、イスラエルは同盟国アメリカの支援を受け、軍隊をアメリカ化した。数年間でイスラエル軍はその規模に比較して世界で最も装備の整った軍隊となった。両国の高級将校の共生関係はワシントンのJINSA(Jewish Institute for National Security Affairs国家安全保障ユダヤ研究所)が企画する多くの旅行や交換事業によって維持された。JINSAはディック・チェイニ-とリチャ-ド・パ-ルによって管理された。戦略会議の合間に、アメリカとイスラエルの将軍達はレオ・ストロ-スの思想を学ぶためのセミナ-に出た。空軍の将軍ダン・ハルツが統合参謀本部議長に任命されて、このプロセスは最高度に達した。これは空軍が伝統的軍隊に対して再び優位となった瞬間でもある。
この急速な変化は、イスラエル社会におけるTsahalの不変の機能とは矛盾し、アメリカの官僚的管理システムはTsahalの力を成してきた伝統的な個人的主導体制と衝突した。
この文化的革命において一人の人間が中心的な役割を演じた。エドワ-ド・ルトワックである。ルトワックはロ-マ帝国の研究でよく引用され、イスラエルと米国の二重国籍を持つ。彼は1973年10月の戦争後イスラエルに長期滞在しTsahalの歴史『イスラエル軍』(The Israeli Army)を出版した。(The Israeli Army, by Edward Luttwak and Dan Horowitz, Allen Lane éd., 1975.)両国から認められた専門家として彼はペンタゴンの戦略と技術をTsahalに移すよう助言した。De
Defensa誌が「1973年以来のイスラエル軍のアメリカ化」と呼ぶものの主要な責任者は彼である。(De Defensa no1, 2 volume 22、 2006年9月10日、25日)
ルトワックは戦争を量的な活動とみなし、最も量の多い者が敵を打ち砕くと想像する。この点で彼はドイツの将軍エーリッヒ・フォン・ファルケンハインの後継者である。ファルケンハインはヴェルダンの戦いを第一次世界大戦に勝利するためではなく、「フランス人の血をとことんまで流させ、目を覚まさせ」ドイツ軍に抵抗するのは不可能だと知らしめるために行った。彼は「アメリカの戦争法」の思想家である。すなわち、De Defensaの定義によれば、「予備的に大量攻撃を行い、民間人も含め作戦の舞台の状況を変え、抵抗が役に立たないと納得させ、降伏させるか、方針を変えさせ敵を優れた勝者として受け入れさせる」方法である。(Ibid)
この概念が浸み込んだダン・ハルツ将軍は最も暴力的な衝突を想定した。彼は一方で、操作制御による司令・伝達センタ-・交通路を標的にした空爆を命じた。他方で、レバノン南部を完全に破壊するために大量の徹底的な空爆を命じた。レバノンのわずかな対空防衛から身を守るため、イスラエル爆撃機は高度を飛行する。彼らの往来はあまりに激しく、飛行士は衝突を避けることが困難だった。爆撃力は広島の原爆の5倍だった。1ヶ月でレバノン南部全体が破壊された。何もない700キロ平米の月面風景が残された。1972年のハノイ空爆以来、世界でこれほど強度の爆撃が行われたことはなかった。
百万人の人々が爆弾の洪水から逃げた。多くの人は国の北部に移動するかシリアの家族のもとに避難した。外国に亡命した者もある。ヒズボラ、自由愛国潮流そしてあらゆる組織が避難民を援助した。政府は反応することなく状況を見守っていた。
ヒズボラはイスラエルへカチュ-シャロケット弾を発射することで僅かな反撃を行った。できるだけ軍事標的を狙ったが、彼らの器材は不正確だった。ロケット弾は住宅街に落ち、数人の犠牲者を出し、「何をしても罰せられない」というイスラエル側の感情を終らせ、住民の移動を引き起こした。
2006年7月14日、国民の祝日に際し、フランス共和国大統領は立場を明確にした。ヒズボラを非難するようせかす記者に対し、彼は率直に述べる。
パトリック・ポワ-ブル・ダルヴォ-ル(TF1) 「誰に責任がありますか?イスラエル、ヒズボラ、シリア、あるいはイランでしょうか?」
ジャック・シラク 「この種の事件においては、皆に責任があります」
ダヴィド・ピュダジャス(フランス2) 「攻撃者と被攻撃者がいますか?」
ジャック・シラク 「はい。確かに攻撃者と被攻撃者がいますが、すべてはこの用語の定義によります。私が最初に言いたいのは、最近のニュ-スーー今朝のニュ-ス--を信じる限り、今日、レバノンを--その装備、その道路、通信、エネルギ-、飛行場を--破壊する意図が存在しないかどうか私達は疑うことができるということです。
なぜかというと、レバノンはフランスが長年に渡り友愛と連帯の関係を持っている国です。ですから、フランスはこの主題に特に敏感です。正直に言って、私はヨーロッパの全ての人々と同様、この反応はまったく不均衡だと思います。」
しかし、すべての外交的努力は無駄に終った。7月15日から17日のサンクトペテルブルクのG8サミットでウラジミ-ル・プ-チンは賓客に直ちに停戦するよう求めた。しかし、ブッシュ大統領はフランス大統領に介入しないよう警告した。これは米国が支持するイスラエルの戦争ではなく、イスラエルが請負うアメリカの戦争なのだと。(シラクが協力者に述べた言葉、筆者との対談より)ワシントンはイスラエル軍が「汚い仕事を終える」までは外交的解決に反対する。ジャック・シラクは頭を垂れ、公式写真ではひきつった笑顔を見せる。大西洋同盟主義メディアは歴史の書き換えに従事し、仏米の再統合を称賛した。しかしながら、切られていないマイクからジョ-ジ・W・ブッシュとトニ-・ブレアの会話の断片が聞こえていた。アメリカ大統領はいつもの下品さでジャック・シラクとその友人とその矛盾を馬鹿にしていた----「あいつらは長い間話しすぎる。(……)皮肉なことに、奴らがするべきことは、ヒズボラが糞を撒き散らすのをやめるようシリアが行動を起すようにさせることだ。そうすれば、これは終わりになる。」(« President’s mike is on at G8, revealing candid remarks », CBS, 2006年7月17日)特に、イギリス首相トニ-・ブレアは時間稼ぎをし攻撃継続を可能にするために現地に行くことを提案した。「彼女(コンドリ-ザ・ライス)があの場所(近東)へ行けば、成功しなくてはならないが、私はただそこへ行って話をすることができる」とブレアは説明した。G8の参加者にとって、アメリカがイスラエルにゴーザインを出したことは疑いがなかった。
イスラエル国会では、エフ-ド・オルメルトが戦争はヒズボラを地域から追放して初めて終わりにになると述べた。彼は作戦を健康のための散歩であるかのように提示し、演説を預言者エレミヤの引用で締めくくった。「永遠はこう述べる。声が聞こえた。嘆きと苦い涙。ラケルが子供達をなくして泣いている。彼女は子供達について彼女をなぐさめることを拒む。子供達はもういないからだ。永遠はこう述べる。嘆きをやめて涙をふきなさい。汝の涙には報酬があるからだ。永遠がそう約束する。敵の国から彼らが戻ってくる。汝の未来には希望がある。永遠がそう約束する。汝の子供達は彼らの国に戻ってくる。」(首相演説2006年7月17日)
7月18日、アメリカの上院はヒズボラ、ハマス、そしてその支援国家を非難しイスラエルの正当防衛を支持する決議を採択した。この資料は全員一致で採決されたが、シェバ農園がレバノンの占領地区であること、イスラエル空軍が毎日のようにレバノン領空を侵害し、イスラエル海軍が毎日のようにレバノン領海を侵害していることを否定する。さらに、この決議はイスラエルで拘留されているレバノン人の捕虜やレバノン南部のイスラエルの地雷の問題を無視している。そして、レバノン抵抗運動を不当であるとし、ブッシュ大統領に攻撃を支持するよう促す。
7月21日に記者会見で質問を受けた米国務長官コンドリ-ザ・ライスはこう明言する。「私は外交手段によりイスラエルとレバノンの間の前の状況に戻るならば、外交は利益がないと思います。ここに見られるのは、新たな中東の産みの始まり、苦しみです。私達が何をなそうと、新たな中東へ押し進め、過去の中東には戻らないという確信を持たねばなりません。」(Special Briefing on travel to the Middle East and Europe, アメリカ国務省2006年7月21日)
ライスはこう述べることで、ワシントンにとってイスラエルの攻撃の真の目的はこの地域の再編成であることを認め、建設的な混沌の理論を用いている。また、「産みの苦しみ」という表現はシオニストのキリスト教徒への合図である。シオニストのキリスト教徒はマタイによる福音書の彼らの解釈に照らし、中東戦争がキリスト再来を予告する印であると考える。(マタイによる福音書、第24章)
状況の急転
イスラエル社会の外見上ほぼ全員一致の支持を受け、ダン・ハルツ将軍は装甲車隊にレバノンの廃墟の中に入るよう命令を出す。ヒズボラは国境に連続的な防御を作る。トンネルで結ばれた小掩蔽壕である。その場所に数日間、数人の若者が隠れていた。小グル-プを構成し、大きな可動性を持っていた。彼らの将校はイスラエルの前進と現地に存在する軍隊の詳細に関してたえず情報を得ていた。メルカバ(戦車)はロシア製のロケット弾RPG-29Vampireの攻撃で直ちに動きを止められた。(« Israël accuse les lances-roquettes russes de ses revers au Liban », Viktor Litovkine, Ria Novosti-Réseau Voltaire, 2006年8月12日)高性能の検知手段にも関わらず、ゲリラは殺されることなく姿を消した。地上の攻撃は数キロメ-トルで停止した。Tsahalはレバノンに真に侵入することはなかった。イスラエルの手中に落ちなかった国境の村アイタ・アシャブはこの愛国的な抵抗のシンボルとなった。海上でも状況はそれよりましではなかった。沿岸を攻撃していたイスラエルの軍艦2隻が中国製のミサイルYingiiYJ-2(C802)によって深刻な損害を受けた。(« Le Hezbollah a détruit un bâtiment de guerre
israélien(Nasrallah) »,« Israël confirme de légers dégâts sur un de ses navires au large du Liban », « Le bâtiment de guerre israélien touché remorqué vers Israël », AFP, 2006年7月14日。)イスラエルと西側のテレビはイスラエル軍の損失の映像を中継しなかったが、戦闘の厳しさについての知らせはイスラエルに広まり、精神的な危機を開いた—この戦争は必要な戦争だっただろうか?
ジャック・シラクがいつ戦略を変えたかは知られていない。フランス大統領は国際関係を極度に体現する。彼は元首相ラフィク・ハリリと友好的・財政的な関係を持っており、エリゼ宮に私的に招待していた。ハリリ暗殺後ただちにシラクは妻のベルナデットと共にパリの住居に住む未亡人ナジクに悲劇を伝え、弔意を表明した。(Chirac d’Arabie. Les mirages d’une politique française, by Eric Aeschimann and Christophe Boltanski, Grasset éd., 2006.)彼は国連に調査委員会設立を要求した。バシャ-ル・アル=アサドに嫌疑をかけ、言葉をかけることを拒否し、フランスの外交官にシリア外交官を招待することを禁じた。デトレブ・メヘリスの調査が逸脱した時にシラクは疑いを持ち始め、ハリリ一家が分裂した時に目が開かれた。故ハリリの姉バヒアが抵抗運動を支持する一方、息子のサアドはワシントンの命令に従った。
ジャック・シラクがハリリ家を支持しようと固執したことは、非難される汚職とは何の関係もない。これは悲劇に陥った一人の人間の名誉心から来ている。シラクは決議1559がラフィク・ハリリを殺人者へ指名したことを意識し、自分の友人の死に個人的に責任があると感じた。その立場から、彼は未亡人と孤児達の運命に過度の配慮を行ったのだ。
ジャック・シラクは再びジョ-ジ・W・ブッシュと対決することを避けた。彼の右手は彼の左手がしていることを知らない。一方で彼は外相のフィリップ・ドゥスト=ブラジ-に各国の首都へ派遣する。無能力が知られているが話上手のドゥスト=ブラジ-はテレビのスタジオに陣取る。植民地へのノスタルジ-を持ち、アメリカユダヤ委員会と関係のある組織CRIFと親しい彼は、この機会を利用してヒズボラの無責任な行動を嘆き、イスラエルへの友情を誓う。国会の多数派において、この人物はニコラ・サルコジの支持者であり、シラク大統領反対派に属する。他方で、シラクは国防大臣でドゴ-ル主義者のミシェル・アリヨ=マリーに人道支援に見せかけてレバノンを軍事的に援護する任務を委託する。高慢かつ効果的で秘密作戦に長けた彼女は大掛かりなフランス人避難措置を取り、ベイル-トとラルナカ(キプロス)の間の海上往復便を設置してイスラエルのレバノン封鎖を破る。彼女はロシアの国防大臣と連携して行動した。首相のドミニック・ドビルパンはこの二重作戦に外見上の一貫性を与える任務を持った。大統領に信頼される彼は、政府の半分がテルアビブとワシントンを徹底的に支持するニコラ・サルコジに賛同するだけに一層器用に行動する必要があった。
ところが、シラク大統領の術策の範囲はシリアとの対話拒否によって狭められた。彼は自ら入り込んだ袋小路から、友人のスペイン人ホセ=ルイス・サバテロとイタリア人ロマノ・プロディのおかげで出ることができた。スペイン大統領はこの戦争に対して憤慨し、「イスラエルは間違って」おり国際法に違反していると断言した。(« O. Proximo.-Zapatero considera que Israel “se equivoca”al lanzar una “contraofensiva” generalizada en Libano y Gaza »Europa Press, 2006年7月14日)彼はレバノンへの攻撃が大中東再編成計画の一部であると確信しており、平和は全体的交渉によって実現するべきだと考える。彼の政府の外相ミゲル=アンヘル・モラティノスはシリア政府と接触を再開する。イタリア首相は怒りを買う言葉を避け、「武力使用のエスカレ-トを嘆く」。(« Prodi, deploriamo escalation uso forza da Israele » ANSA, 2006年7月14日 )プロディはアメリカの信用を多少は持っており、国際会議を開き見解を接近させることを提案した。
この会議は7月26日にローマで開かれることになった。交渉の場に招かれていないイスラエルはその前日、国連の機関をミサイル攻撃し、オ-ストリア、カナダ、中国、フィンランドの国籍を持つ国連軍兵士4人を殺害し、国際法を全く重視しないことを示した。いずれにせよ、イスラエル軍が現地で足踏み状態であり、ヒズボラの破壊に成功できないことは明白だった。アメリカ、イギリス、カナダにとって、これはNATOがイスラエルのテロリズム打倒に手を貸す必要があることを意味する。これはペンタゴンの当初の計画に一致する。イタリア、フランス、ロシア、スペインはその反対に、この紛争は軍事的解決が不可能であり、政治的解決を見出すべきだと考える。レバノン首相フアド・シニオラは7つの点に関する計画を提示した。彼は自国を防衛しているヒズボラを非武装化することは拒否する。フランス代表団は「シラク案」を提示した。NATO介入はせず、国連軍(FINUL)を強化するというものだ。(Liban : le plan Chirac pour sortir de la crise », Le Monde, 2006年7月27日)会議は一見何も決定しなかったように見えたが、南ヨ-ロッパとロシアは議論を移し、強化されたFINULの未来の任務についてのみ話し合われた。
レバノンでは風向きが変わる。イスラエル軍はヒズボラの拠点のある人口3万人のビント・ジュベイル市を占拠したと報じた。ゴラニ旅団の勝利は大西洋同盟主義メディアに賞賛された(ルモンド2006年7月26日など)。しかし、この情報は純粋なプロパガンダだった。Tsahalは兵力の不均衡にもかかわらずヒズボラの数十人の戦士により大きな損失を受け、7月29日の朝に町から撤退した。
7月30日、空爆で住居ビルが崩壊し28人の民間人が死亡した。悲劇はカナで起きた。10年前、イスラエル軍はここで国連の難民キャンプを爆撃し102人の民間人を殺した。(1996年4月18日カナの国連難民キャンプ爆撃に関する報告書Référence ONU : S/1996/337)ヒズボラはこの虐殺を象徴に掲げた。この虐殺は、イスラエルが抵抗運動に対して戦うのではなく民間人を逃避させているという事実の証明だった。ヒズボラのポスタ-のスロ-ガンがこれを要約する。「カナでイエスは水をワインに変えた。シオニストは水を血に変えた。」世界の動揺はあまりにも大きかったので、安全保障理事会は特別会議を開く。イスラエルは南部の民間人の避難を可能にするため1日間、爆撃を部分的に中断することに同意する。
ヒズボラは侵略者を押し返し犠牲者を救うだけでは満足しない。1日に150から200発のロケット弾をイスラエルへ発射する。イスラエルの爆撃力とは比較できないとはいえ、抵抗運動は重要な標的を複数破壊することに成功した。Tsahalの北軍の司令部、主要な伝達センタ-、弾薬補給に使われた飛行場もその中に含まれる。
一方でTsahalは抵抗運動の幹部に達することができない。戦争の初日から、ベイル-トの南地区にあるアルマナ-ルのスタジオと党の本部を爆撃したが、テレビは数分放送を中断したのち再開し、そこで製作されるのか、どうやって放送しているのか誰にもわからない。ハッサン・ナスララは定期的にテレビに出演しイスラエルを馬鹿にした。ヒズボラの指導者が破壊された建物の下の防空壕に隠れていると確信したイスラエル軍は、標的の上へ爆撃機を往来させ23トンの爆弾を投下させたが、無駄だった。そのような防空壕は「テロ対策専門家」の想像の中にのみ存在した。
最終的に、「仕事を終える」前は停戦を望まなかったイスラエルとアメリカの政府は勝つことができない戦争から名誉の撤退を行おうとした。8月10日、Tsahalの装甲車はキリスト教徒の都市マルジャユ-ンを攻撃しリタニ川に到達しようとした。ヒズボラの部隊はそこにはなかったが、そこに部下を送った。彼らは政教分離党(PSNS)と共産党の戦士に合流した。イスラエル軍は戦闘で13のメルカバを失い撤退した。100人ほどのイスラエル兵が閉じ込められ、捕虜になる危険があった。電話での接触の後、彼らはレバノンの憲兵の兵舎に避難し、アドナン・ダウド将軍に迎えられた。ダウド将軍は350人の部下とともに自らイスラエルの捕虜になり、国連軍に救助された。(« Les militaires israéliens détiennent 350 soldats et policiers libanais à Marjayoun »,Associated Press, 2006年8月10日、« Evacuation de soldats et civils libanais de Marjayoun », AFP, 2006年8月11日)
マルジャユ-ンの戦いは人々に衝撃を与えた。共同の訓練を受けなかった人々を統合させることは困難だが、それにも関わらず武装抵抗運動はヒズボラを超えてレバノン社会全体に広かる。それと同時に、レバノン兵は侵略者と友好関係を結んだ--ダウド将軍がイスラエル人とお茶を飲んでいる場面を写した映像がテレビで放映され、そのことを証明する。裏切りの問題を提起する映像である。ダウド将軍は直後に収監されるが、上官の命令に従っただけだと主張する、多くのオブザ-バ-がそれを認めるが、その上官とは誰かをあえて問うことはしない。世論は代理の内務大臣アフマド・ファトファトを疑う。ファトファトはそれを完全に否定するが、信用に値する説明を提供することはない。しかし、ファトファトがサアド・ハリリの恩恵を受けた者であり、ハリリの命令なしに率先してこのような措置を取ることはないことを皆が知っている。
8月5日、アメリカ政府は安全保障理事会で敵対関係の停止の見通しを述べるが、Tsahalが占領した地域を返還することには反対する。アラブ連盟とくにカタ-ル--国の大きさからは予想できないほどの強い外交を展開するに到ったカタ-ル—はアメリカに分別を説こうとする。8月11日、ホワイトハウスは譲歩する。安全保障理事会は敵対関係を停止させる決議1701を採決する。この決議は攻撃だけでなく防衛にも適用される停戦とは区別されねばならない。
イスラエルの砲兵隊はレバノンの廃墟の上を最後までしつこく攻撃する。2006年8月14日の現地時間午前2時に、武器の音は消える。朝の8時、敵対関係の停止が公式に有効となる。ヒズボラの幹部は避難民をすぐに南部に帰還させるべきか、公共施設の修復を先にするべきか話し合う。しかしこの議論は必要がなかった。
すでに数十万人の人々が、抉られた道路に出ていた。国中が渋滞になった。レバノン人は自分達が解放した自分達の土地を取り戻した。
人的・物質的損害
現在のところ(2007年)、軍事被害の数字を出すことは不可能である。しかし、その規模は分かっている。34日間にイスラエル軍は3万人を投入し、8000回の爆撃機遠征、1600回のヘリコプタ-遠征を行った。イスラエル軍は16万発の弾丸を発射し(うち32000発はクラスタ-爆弾すなわち子弾搭載)、8万トンの爆弾を投下し、不特定数のミサイルを発射した、一方で、ヒズボラが徴集できたのは1万人だけで、彼らには空軍もなく、海軍もない。ヒズボラはロケット弾を4000発だけ発射した(うち射程距離が50キロメ-トルを超えるものは50発、都市部に到ったものは900発)。
国連によれば、レバノンは1187人の民間人と105人の戦士を失った(正規軍兵士35人、ヒズボラのゲリラ62人、アマルの民兵8人)。百万人のレバノン人が移動し、1万5千戸が破壊された。重要な民間施設(飛行場、橋、道路、鉄道、発電所、浄水センタ-、工場)が全て損害を受けた。地域によっては住民の75パ-セントが失業した。イスラエルは民間人43人と戦士117人を失った。30万人のイスラエル人が移動し、数百の住居が被害を受けた。主要な民間施設は損害を受けなかった。
南部のジイエの発電所の石油タンクへの爆撃で、12から3万ドンの重油が海中に流れた(1999年のフランスでのErikaの事故と同じか2倍の量である)。「これまでは、大事故は大洋で起きたが、重油流出が閉じた海で起きたのはこれが最初である。幻想を抱いてはいけない。レバノンだけでなく、東地中海の全ての国々へ深刻な影響が及ぶだろう」とレバノンのヤクブ・サラフ環境大臣はコメントした。(« La marée noire au Liban : plus grande catastrophe écologique en Méditerranée », AFP, 2006年7月29日)イスラエルの課した海上封鎖が海への介入を妨害したのでなおさらである。幸いなことに、クウェ-トがすぐに凝結剤を送り、災害を制限した。それでも、レバノンとシリアの海岸150キロメ-トルが汚染された、
「平等と客観性」への配慮から、“西側 ”テレビはイスラエルの環境被害も報じた。田園地帯にロケット弾が落ちて火事になり、1200ヘクタ-ルの森(パリのブーロ-ニュの森の1.5倍)と7000ヘクタ-ルの牧草地が被害を受けた、と。(« Fires caused by Katyushas set nothern forests back 50 years » The Jerusalem Post 2006年8月8日)
Tsahalはあらゆる種類の弾薬を用い、それが停戦後も人々を殺し続けた。 (« Israël utilise des bombes prohibées internationalement(armée) », AFP, 2006年7月16日)「イスラエルによる白リン焼夷弾によるレバノンの村の爆撃は国際法への明らかな違反である。国際法はそのような爆弾を用いることを禁止する」とエミ-ル・ラフ-ド大統領は非難した。事実、この武器は民間人への使用が禁じられている。傷は広がり、死体は燃え続ける。この事実を否定するためのメディアキャンペ-ンを企画した後で、イスラエルはこれを使用したことを認めた。国連の分析者が証拠を提示する直前だった。 (« Israel says it used phosphorus shells in Lebanon » Reuters2006年10月22日)
安保理決議1701採択と停戦有効までの72時間の間にイスラエル砲兵隊は32000発の弾丸と1800発のクラスタ-ミサイルMLRSを発射した。レバノン南部の745の地点を「汚染する」ためだった。個々の弾には88の子弾が、個々のミサイル弾頭には644の子弾が含まれていた。40パーセントは爆発しなかった。つまり、停戦後も百万5千発の子弾が現場に存在することになる。(« L’attaque israélienne a transformé le Liban en un champ de mines » by S. Exc. Gébran Michel Soufran, Horizons et Débats, 2006年11月)
レバノン科学研究委員会の核物理学者モハマド・アリ=コベイシはヒアムで、未知の兵器による爆撃で作られた深さ3メ-トル、直径10メ- トルのクレ-タ-を調査した。彼は異常な放射線量を検知した。この場所はデイ・ウイリアムスによって調査され、クリス・バスビ-がサンプルを分析した。このクレ-タ-は濃縮ウランで汚染されていた。 (« Evidence of Enriched Uranium in guided weapons employed by the Israeli Military in Lebanon in July 2006, Preliminary Note» by Chris Busby et Dai Williams, Green Audit Research Note 6/2006, 2006年10月20日)それにも関わらず、国連の専門家はレバノンに異常な放射線量を見出さず、この場所を視察したかどうかを明らかにしていない。(« No Evidence of Radioactive Residue in Lebanon Post Conflict Assessment», Programme des Nations Unies pour
l’Environnement, 2006年11月7日)
軍事力の驚くべき不均衡にも関わらず、イスラエル軍は公式の戦争目的(捕虜になった二人の兵士の回収、テロリズム撲滅)を達成できなかっただけでなく、非公式の目的(レバノン南部から住民を追放すること、この地域を占領すること)も果たせなかった。このことは、公式目的が戦争によって達成されることは不可能であるという事実から説明される。二人の捕虜を回収するためには、エルハナン・タネンバウムの場合と同様、交換で十分だったのだ。“テロリズム撲滅”のためには、国際法を遵守するだけで十分だ。すなわち、シェバ農園から撤退し、以前の戦争の捕虜を解放し、地雷の地帯を地図を提出することだ。その逆に、国を破壊することで二人の兵士を回収できると考えるのは馬鹿げている。ヒズボラを住民の自衛のために不可欠な存在にすることによってヒズボラを追放できるはずはない。これらのことが明白になったところで、軍事作戦とその結果の詳細な分析に入ろう。
イスラエルによる爆撃の地点を示した地図。南レバノンは700kmにわたって完全に破壊された。他の地域の標的は経済的な標的あるいは住民が議会選挙でヒズボラに投票した地域である。
この地図の発表は世界中の国の参謀本部の動揺を引き起こした。「5000年来のちょっとした汚い秘密、民族浄化事業だ」というコメントがついていただけになおさらだった。トルコ、シリア、パキスタンではこの地図について公的な議論がなされた、しかし、この話全体があまりに恐ろしいため、NATO諸国のメディアは大衆にこれを知らせないほうを選んだ。
次に、レバノンへ戻って私達が中断した話を続けよう。各国が準備した戦争が始まる。
破壊する
戦争開始
2006年7月12日、アルマナ-ルは発表した。「捕虜と囚人の解放をかちとるという誓いに従い、抵抗運動は9時05分にパレスチナ占領地域の国境で二人のイスラエル兵を捕えた。二人の捕虜は安全な場所に移された。」AFPに従えば、この事件に関する二つの説が普及する。「レバノン警察によれば、二人の兵士はレバノン領土内、レバノン-イスラエル国境付近のアイタ・アル=シャアブ地方で捕えられた。イスラエルの連隊が今朝侵入した場所である。しかし、イスラエル公共テレビは兵士達がイスラエル領土内、レバノンとの国境近くのザリトのモシャブ(集合農園)近くで捕えられたと述べた。」(« Le Hezbollah capture deux soldats israeliens, offensive d’Israël au Liban », AFP, 2006年7月12日10時35分GMT, ベイル-ト時間13時35分)言葉を変えれば、イスラエルはヒズボラの戦士がイスラエル領土に侵入して兵士を誘拐したとみなす。他方で、レバノン側は、ヒズボラがイスラエルに複数のロケット弾を発射し、イスラエル軍のパトロ-ル隊がレバノン領土にまで入り込み、待ち伏せの罠にかかり、8人の兵士が殺され2人が捕虜になったとする。いずれにせよ、国際法によれば、領土の一部が占領されている国の国民が占領軍に対して活動を行うのは正当であり、敵の領土でもそれを行うことができる。イスラエルはシェバ農園を占領している。それゆえ、レバノン抵抗運動がイスラエル軍に対して活動を行うことは正当で、根拠がある。そのため、この作戦に関する国連の資料は、待ち伏せの場所を明確にせず、兵士が「誘拐された」とは言わず「捕獲された」と述べることで、この活動が犯罪ではなく軍事活動であることを強調している。
前哨戦の後、ただちに“ブル-ライン”すなわち両国の国境の代わりをなす停戦ラインの両側からロケット弾が発射された。午後の初めにオルメルト首相はこの作戦を「戦争行為」と形容し、こう宣言する。「我々の決意を揺るがせようと試みる人々がいるが、彼らは失敗し、自分達の行為のせいで高い代価を払うことになるだろう。(……)ヒズボラが属するレバノン政府はこの活動の結果起こることを耐えねばならないだろう。」(« Olmert accuse le Liban de l’enlèvement de ses deux soldats », AFP, 2006年7月12日11時18分GMT、ベイル-ト時間14時18分)イスラエルテレビは、夕方に危機対策会議が開かれるが、それを待たずにイスラエル軍は二人の兵士を見つけ出すための大規模な作戦へむけて6000人の予備兵を招集したと述べた。(« Israël-Mobilisation de réservistes après l’attaque du Hezbollah »Reuters, 2006年7月12日、11時31分GMT、ベイル-ト時間14時31分)
国際メディアはまもなく事件に関する彼らの解釈を報じ始めた。「ヒズボラによるイスラエル兵士2人の誘拐はレバノンのシ-ア派運動とパレスチナのハマスの連携の成果である」とAFPは断言する。パリのアラブ諸国コンサルタントオフィス(OPA : Observatoire des pays arabes)の所長を務めるアントワ-ヌ・バスブによれば「(ハマスとヒズボラの間の)連携は存在し、ダマスカスとテヘランにその着想が存在する。」(« Coodination Hezbollah-Hamas avec la bénédiction de Damas et Téhéran », AFP, 2006年7月12日11時31分GMT)
実際はアラブ諸国コンサルタントオフィスとは実体のない機構であり、アントワ-ヌ・バスブ-は中立な分析者ではない。バスブ-はジャ-ナリストであり、かつてレバノンのファシスト党の論説委員を務めた。彼はガリラヤの平和作戦とサブラとシャチラの虐殺作戦でイスラエル占領軍に協力した。
しかしそれでもかまわない。国際メディアは、最近のパレスチナ占領地域でのイスラエル兵捕獲と、今回のレバノン国境での二人の兵士の捕獲を結び付けるこの単純化を好む。ヒスボラはこの作戦を6ヶ月前に予告していたにも関わらず。このアマルガムにより、ガザ地区における弾圧に比較できるイスラエルの報復行為を正当化することができる。二つの状況を比較することはできないとは誰も指摘しない。レバノンは国際社会に認められた主権国家であり、パレスチナの領土は国際法が適用されない地帯である。1986年に航空士ロン・アラドの飛行機がレバノン領空を侵害した際に撃墜され、飛行士がレバノンで拘留された時、ヘブライ人国家は軍事的対応を行わなかったことを誰も指摘しない。シャロンの秘密の経理員エルハナン・タネンバウムの釈放や、3人の兵士の遺体返還要求の際も、イスラエルは武力を用いなかった。イスラエルはドイツのゲアハルト・シュレ-ダ-首相の仲介でレバノン人捕虜17人と交換することに同意した。2006年7月12日には別の争点が存在した。
これに続く数時間、この国の国連代表者ギア・ピ-ターセンとヨ-ロッパの委員会はヒズボラに二人の捕虜を解放するよう呼びかける。フランス外相フィリップ・ドゥスト=ブラジーは宣言する。「イスラエル-レバノン国境の最近の展開を非常に懸念しています。今朝のキリアト・シュモナ市へのロケット弾発射を非難します。また二人のイスラエル兵の誘拐も非難します。彼らを無条件にただちに解放するよう要求します。」ドイツの新首相アンゲラ・メルケルも「二人の兵士を無条件にただちに解放するよう要求する」と述べた。コンドリ-ザ・ライスはこうコメントする。「テロ組織ヒズボラによる二人のイスラエル兵の誘拐を非難します。(……)この活動は地域の平和を危険にさらし、イスラエル国民とレバノン国民の利益に反します。」(« Rice condamne le Hezbollah qui “menace la stabilité ”de la région », AFP, 2006年7月12日、16時16分GMT、ベイル-ト時間19時16分)またホワイトハウスは次のように付け加える。「我々は、ヒズボラを直接支持するシリアとイランもこの活動とそれに続く暴力に責任があるとみなす。」(« Soldats israéliens : Maison Blanche rend la Syrie et le Liban responsables »,AFP, 2006年78月12日、18時57分GMT、ベイル-ト時間21時57分)協調したヒズボラ非難において、ロシアの立場は外れているように見える。「現在最重要な任務は緊張の新たなエスカレ-トを断つことだ。この紛争が全体的な衝突にならないようにすることだ。(……)係争中の問題を、それがいかに困難で配慮を要するものだとしても政治的外交的手段によって解決しなくてはならない--イスラエルの刑務所からのパレスチナ人とレバノン人捕虜の解放を含む問題である。」とセルゲイ・ラブロフ外相は述べる。
ベイル-トで、ハッサン・ナスララは記者会見を開いて説明する。「今日私達が行ったことは、(……)イスラエルの監獄からの捕虜解放のための唯一の方法でした。(……)間接的な交渉と捕虜交換の手段によってのみ彼らは母国に帰ることができるでしょう。」(« Le Hezbollah indique avoir enlevé les soldats pour un
échange », Reuters, 2006年7月12日)彼は首相フアド・シニオラに否認される。シニオラはレバノン人捕虜解放のために活動したことはないと述べる。「政府はこの件を知らず、責任を持たない。国境で起きたことを承認しない。」政府はこの問題を国連安全保障理事会に委託する。
午後の間じゅう、イスラエル航空隊は10回ほど遠征しレバノン南部と首都の交通路と発電所、ベイル-ト郊外のパレスチナ難民キャンプを爆撃した。(« Raid
de l’aviation israélienne contre une base palestinienne à 16km au sud de Beyrouth »Associated Press, 2006年7月12日、19時43分GMT、ベイル-ト時間22時43分)空軍は沿岸の道路を爆撃した。アルマナ-ルとNews TVの記者が犠牲者に含まれる。(« Trois journalistes libanais blessés dans un raid israélien « AFP, 2006年7月12日)装甲車と歩兵が前哨の地域を掃討し、強い抵抗に出会った。
イスラエルのテレビは「軍の参謀総長ダン・ハルツ中将は、二人の兵士が解放されなければイスラエル軍はレバノンの公共施設を狙い、20年前の状況に戻すとレバノンに警告した」と報じる。夕方、安全保障委員会は参謀総長の提案を聞いた後、レバノンに対する戦争開始命令を出した。以下が公式声明である。「イスラエルは主権国家レバノンにイスラエルで誘拐された二人の兵士の返還の責任があると見なす。イスラエルはレバノンが安保理決議1559を適用することを要求する(ヒズボラの非武装化)。レバノンで活動するテロ組織のヒズボラが今日の行為を犯したことは疑いがない。イスラエルはヒズボラのやり方に対応しなくてはならない。この侵略行為に対してイスラエルは厳しく対応しなくてはならず、それに成功するだろう。イスラエルは攻撃的に容赦なく、今日の活動を行った者達に応え、イスラエルに対する活動を失敗させるようにするだろう。国際社会はイスラエルも含めすべての国がヒズボラのような敵に対しては攻撃的に対応しなくてはならないということを理解する。」(« Communiqué du Cabinet de sécurité concernant l’offensive du Hezbollah sur Israël », 2006年7月12日)
その晩遅く、レバノン共和国大統領エミ-ル・ラフ-ドはレバノン首相とイスラエル政府に答え、抵抗運動を支持することを表明する宣言を行った。「レバノン南部の町や村、橋をも狙ったイスラエルの攻撃が行われ(……)イスラエルによる一連のレバノン主権・レバノン安全侵害に新たな侵害行為が加わった。(……)これはレバノン人の恐怖を与えることはなく、彼らの統合と連帯を強めるだけだ。今日、レバノン人は断固として国民的立場を保持し、攻撃に対する解放への戦いを続けるだろう。(……)イスラエルは自国の政策が成果をもたらさず、その逆に状況を複雑にし、地域の安定と平和を危険にさらすことを知らねばならない。」(« Lahoud : Le Liban ferme dans sa lutte, Israël complique la situation » AFP, 2006年7月12日21時48分GMT、ベイル-ト時間0時48分)
テルアビブとワシントンから見れば、レバノンへの攻撃は可能である。1559年の決議によりシリア軍が撤退して以来、この国は無防備の状態である。レバノン治安部が逮捕したモサドのスパイとその政治暗殺活動関与--ラフィク・ハリリ暗殺を含め--に関する調査続行を妨害するためにこの攻撃は必要である。
ベイル-トから見れば、ヒスボラと軍はイスラエルの新たな侵攻に6年前から備えていたとはいえ、攻撃は秋だろうと予想していた。しかしもう手遅れだ。60年前からこの地域を支配する、アメリカに過武装された無敵の敵に服従することになる。
世界中の国々の政府が、イスラエルの勝利は疑いがないと考えた。イスラエル軍が民間人を容赦するために仲裁者を演じる配慮をしただけである。
こうして、34日戦争が始まった。
最初の戦闘
TsahalとはTsva Haganah Le-Israel(イスラエル防衛軍)の略称である。ハガナのユダヤ人部隊の後を継ぐ軍隊だ。世界の他の軍隊と違い、Tsahalは国家よりも前に作られ、国家の基礎となった。そのため、イスラエル社会では、民間分野と軍事分野の間の区別が存在しない。日常生活においては、民間人の地位は、男性であろうと女性であろうと、その者の軍事参加に従属する。大学での学問のための奨学金やローンの契約を獲得するためにもそれが必要だ。国民兵役を免除されるユダヤ教信者も軍人とみなされる。Tsahalはアパルトヘイトの主要な手段である。人口調査員は軍事適性証明書を、親子関係の基準に従ってユダヤ人とドゥル-ズ派の人々に与え、アラブ人にはそれを拒否する。その結果、アラブ人は基本的権利を奪われる。
Tsahalは他の国の軍隊と同様、20年前から大幅な再編成を行った。技術化し、隔壁を除去して、人数よりも職員の高資格を重視した。この機会に、イスラエルは同盟国アメリカの支援を受け、軍隊をアメリカ化した。数年間でイスラエル軍はその規模に比較して世界で最も装備の整った軍隊となった。両国の高級将校の共生関係はワシントンのJINSA(Jewish Institute for National Security Affairs国家安全保障ユダヤ研究所)が企画する多くの旅行や交換事業によって維持された。JINSAはディック・チェイニ-とリチャ-ド・パ-ルによって管理された。戦略会議の合間に、アメリカとイスラエルの将軍達はレオ・ストロ-スの思想を学ぶためのセミナ-に出た。空軍の将軍ダン・ハルツが統合参謀本部議長に任命されて、このプロセスは最高度に達した。これは空軍が伝統的軍隊に対して再び優位となった瞬間でもある。
この急速な変化は、イスラエル社会におけるTsahalの不変の機能とは矛盾し、アメリカの官僚的管理システムはTsahalの力を成してきた伝統的な個人的主導体制と衝突した。
この文化的革命において一人の人間が中心的な役割を演じた。エドワ-ド・ルトワックである。ルトワックはロ-マ帝国の研究でよく引用され、イスラエルと米国の二重国籍を持つ。彼は1973年10月の戦争後イスラエルに長期滞在しTsahalの歴史『イスラエル軍』(The Israeli Army)を出版した。(The Israeli Army, by Edward Luttwak and Dan Horowitz, Allen Lane éd., 1975.)両国から認められた専門家として彼はペンタゴンの戦略と技術をTsahalに移すよう助言した。De
Defensa誌が「1973年以来のイスラエル軍のアメリカ化」と呼ぶものの主要な責任者は彼である。(De Defensa no1, 2 volume 22、 2006年9月10日、25日)
ルトワックは戦争を量的な活動とみなし、最も量の多い者が敵を打ち砕くと想像する。この点で彼はドイツの将軍エーリッヒ・フォン・ファルケンハインの後継者である。ファルケンハインはヴェルダンの戦いを第一次世界大戦に勝利するためではなく、「フランス人の血をとことんまで流させ、目を覚まさせ」ドイツ軍に抵抗するのは不可能だと知らしめるために行った。彼は「アメリカの戦争法」の思想家である。すなわち、De Defensaの定義によれば、「予備的に大量攻撃を行い、民間人も含め作戦の舞台の状況を変え、抵抗が役に立たないと納得させ、降伏させるか、方針を変えさせ敵を優れた勝者として受け入れさせる」方法である。(Ibid)
この概念が浸み込んだダン・ハルツ将軍は最も暴力的な衝突を想定した。彼は一方で、操作制御による司令・伝達センタ-・交通路を標的にした空爆を命じた。他方で、レバノン南部を完全に破壊するために大量の徹底的な空爆を命じた。レバノンのわずかな対空防衛から身を守るため、イスラエル爆撃機は高度を飛行する。彼らの往来はあまりに激しく、飛行士は衝突を避けることが困難だった。爆撃力は広島の原爆の5倍だった。1ヶ月でレバノン南部全体が破壊された。何もない700キロ平米の月面風景が残された。1972年のハノイ空爆以来、世界でこれほど強度の爆撃が行われたことはなかった。
百万人の人々が爆弾の洪水から逃げた。多くの人は国の北部に移動するかシリアの家族のもとに避難した。外国に亡命した者もある。ヒズボラ、自由愛国潮流そしてあらゆる組織が避難民を援助した。政府は反応することなく状況を見守っていた。
ヒズボラはイスラエルへカチュ-シャロケット弾を発射することで僅かな反撃を行った。できるだけ軍事標的を狙ったが、彼らの器材は不正確だった。ロケット弾は住宅街に落ち、数人の犠牲者を出し、「何をしても罰せられない」というイスラエル側の感情を終らせ、住民の移動を引き起こした。
2006年7月14日、国民の祝日に際し、フランス共和国大統領は立場を明確にした。ヒズボラを非難するようせかす記者に対し、彼は率直に述べる。
パトリック・ポワ-ブル・ダルヴォ-ル(TF1) 「誰に責任がありますか?イスラエル、ヒズボラ、シリア、あるいはイランでしょうか?」
ジャック・シラク 「この種の事件においては、皆に責任があります」
ダヴィド・ピュダジャス(フランス2) 「攻撃者と被攻撃者がいますか?」
ジャック・シラク 「はい。確かに攻撃者と被攻撃者がいますが、すべてはこの用語の定義によります。私が最初に言いたいのは、最近のニュ-スーー今朝のニュ-ス--を信じる限り、今日、レバノンを--その装備、その道路、通信、エネルギ-、飛行場を--破壊する意図が存在しないかどうか私達は疑うことができるということです。
なぜかというと、レバノンはフランスが長年に渡り友愛と連帯の関係を持っている国です。ですから、フランスはこの主題に特に敏感です。正直に言って、私はヨーロッパの全ての人々と同様、この反応はまったく不均衡だと思います。」
しかし、すべての外交的努力は無駄に終った。7月15日から17日のサンクトペテルブルクのG8サミットでウラジミ-ル・プ-チンは賓客に直ちに停戦するよう求めた。しかし、ブッシュ大統領はフランス大統領に介入しないよう警告した。これは米国が支持するイスラエルの戦争ではなく、イスラエルが請負うアメリカの戦争なのだと。(シラクが協力者に述べた言葉、筆者との対談より)ワシントンはイスラエル軍が「汚い仕事を終える」までは外交的解決に反対する。ジャック・シラクは頭を垂れ、公式写真ではひきつった笑顔を見せる。大西洋同盟主義メディアは歴史の書き換えに従事し、仏米の再統合を称賛した。しかしながら、切られていないマイクからジョ-ジ・W・ブッシュとトニ-・ブレアの会話の断片が聞こえていた。アメリカ大統領はいつもの下品さでジャック・シラクとその友人とその矛盾を馬鹿にしていた----「あいつらは長い間話しすぎる。(……)皮肉なことに、奴らがするべきことは、ヒズボラが糞を撒き散らすのをやめるようシリアが行動を起すようにさせることだ。そうすれば、これは終わりになる。」(« President’s mike is on at G8, revealing candid remarks », CBS, 2006年7月17日)特に、イギリス首相トニ-・ブレアは時間稼ぎをし攻撃継続を可能にするために現地に行くことを提案した。「彼女(コンドリ-ザ・ライス)があの場所(近東)へ行けば、成功しなくてはならないが、私はただそこへ行って話をすることができる」とブレアは説明した。G8の参加者にとって、アメリカがイスラエルにゴーザインを出したことは疑いがなかった。
イスラエル国会では、エフ-ド・オルメルトが戦争はヒズボラを地域から追放して初めて終わりにになると述べた。彼は作戦を健康のための散歩であるかのように提示し、演説を預言者エレミヤの引用で締めくくった。「永遠はこう述べる。声が聞こえた。嘆きと苦い涙。ラケルが子供達をなくして泣いている。彼女は子供達について彼女をなぐさめることを拒む。子供達はもういないからだ。永遠はこう述べる。嘆きをやめて涙をふきなさい。汝の涙には報酬があるからだ。永遠がそう約束する。敵の国から彼らが戻ってくる。汝の未来には希望がある。永遠がそう約束する。汝の子供達は彼らの国に戻ってくる。」(首相演説2006年7月17日)
7月18日、アメリカの上院はヒズボラ、ハマス、そしてその支援国家を非難しイスラエルの正当防衛を支持する決議を採択した。この資料は全員一致で採決されたが、シェバ農園がレバノンの占領地区であること、イスラエル空軍が毎日のようにレバノン領空を侵害し、イスラエル海軍が毎日のようにレバノン領海を侵害していることを否定する。さらに、この決議はイスラエルで拘留されているレバノン人の捕虜やレバノン南部のイスラエルの地雷の問題を無視している。そして、レバノン抵抗運動を不当であるとし、ブッシュ大統領に攻撃を支持するよう促す。
7月21日に記者会見で質問を受けた米国務長官コンドリ-ザ・ライスはこう明言する。「私は外交手段によりイスラエルとレバノンの間の前の状況に戻るならば、外交は利益がないと思います。ここに見られるのは、新たな中東の産みの始まり、苦しみです。私達が何をなそうと、新たな中東へ押し進め、過去の中東には戻らないという確信を持たねばなりません。」(Special Briefing on travel to the Middle East and Europe, アメリカ国務省2006年7月21日)
ライスはこう述べることで、ワシントンにとってイスラエルの攻撃の真の目的はこの地域の再編成であることを認め、建設的な混沌の理論を用いている。また、「産みの苦しみ」という表現はシオニストのキリスト教徒への合図である。シオニストのキリスト教徒はマタイによる福音書の彼らの解釈に照らし、中東戦争がキリスト再来を予告する印であると考える。(マタイによる福音書、第24章)
状況の急転
イスラエル社会の外見上ほぼ全員一致の支持を受け、ダン・ハルツ将軍は装甲車隊にレバノンの廃墟の中に入るよう命令を出す。ヒズボラは国境に連続的な防御を作る。トンネルで結ばれた小掩蔽壕である。その場所に数日間、数人の若者が隠れていた。小グル-プを構成し、大きな可動性を持っていた。彼らの将校はイスラエルの前進と現地に存在する軍隊の詳細に関してたえず情報を得ていた。メルカバ(戦車)はロシア製のロケット弾RPG-29Vampireの攻撃で直ちに動きを止められた。(« Israël accuse les lances-roquettes russes de ses revers au Liban », Viktor Litovkine, Ria Novosti-Réseau Voltaire, 2006年8月12日)高性能の検知手段にも関わらず、ゲリラは殺されることなく姿を消した。地上の攻撃は数キロメ-トルで停止した。Tsahalはレバノンに真に侵入することはなかった。イスラエルの手中に落ちなかった国境の村アイタ・アシャブはこの愛国的な抵抗のシンボルとなった。海上でも状況はそれよりましではなかった。沿岸を攻撃していたイスラエルの軍艦2隻が中国製のミサイルYingiiYJ-2(C802)によって深刻な損害を受けた。(« Le Hezbollah a détruit un bâtiment de guerre
israélien(Nasrallah) »,« Israël confirme de légers dégâts sur un de ses navires au large du Liban », « Le bâtiment de guerre israélien touché remorqué vers Israël », AFP, 2006年7月14日。)イスラエルと西側のテレビはイスラエル軍の損失の映像を中継しなかったが、戦闘の厳しさについての知らせはイスラエルに広まり、精神的な危機を開いた—この戦争は必要な戦争だっただろうか?
ジャック・シラクがいつ戦略を変えたかは知られていない。フランス大統領は国際関係を極度に体現する。彼は元首相ラフィク・ハリリと友好的・財政的な関係を持っており、エリゼ宮に私的に招待していた。ハリリ暗殺後ただちにシラクは妻のベルナデットと共にパリの住居に住む未亡人ナジクに悲劇を伝え、弔意を表明した。(Chirac d’Arabie. Les mirages d’une politique française, by Eric Aeschimann and Christophe Boltanski, Grasset éd., 2006.)彼は国連に調査委員会設立を要求した。バシャ-ル・アル=アサドに嫌疑をかけ、言葉をかけることを拒否し、フランスの外交官にシリア外交官を招待することを禁じた。デトレブ・メヘリスの調査が逸脱した時にシラクは疑いを持ち始め、ハリリ一家が分裂した時に目が開かれた。故ハリリの姉バヒアが抵抗運動を支持する一方、息子のサアドはワシントンの命令に従った。
ジャック・シラクがハリリ家を支持しようと固執したことは、非難される汚職とは何の関係もない。これは悲劇に陥った一人の人間の名誉心から来ている。シラクは決議1559がラフィク・ハリリを殺人者へ指名したことを意識し、自分の友人の死に個人的に責任があると感じた。その立場から、彼は未亡人と孤児達の運命に過度の配慮を行ったのだ。
ジャック・シラクは再びジョ-ジ・W・ブッシュと対決することを避けた。彼の右手は彼の左手がしていることを知らない。一方で彼は外相のフィリップ・ドゥスト=ブラジ-に各国の首都へ派遣する。無能力が知られているが話上手のドゥスト=ブラジ-はテレビのスタジオに陣取る。植民地へのノスタルジ-を持ち、アメリカユダヤ委員会と関係のある組織CRIFと親しい彼は、この機会を利用してヒズボラの無責任な行動を嘆き、イスラエルへの友情を誓う。国会の多数派において、この人物はニコラ・サルコジの支持者であり、シラク大統領反対派に属する。他方で、シラクは国防大臣でドゴ-ル主義者のミシェル・アリヨ=マリーに人道支援に見せかけてレバノンを軍事的に援護する任務を委託する。高慢かつ効果的で秘密作戦に長けた彼女は大掛かりなフランス人避難措置を取り、ベイル-トとラルナカ(キプロス)の間の海上往復便を設置してイスラエルのレバノン封鎖を破る。彼女はロシアの国防大臣と連携して行動した。首相のドミニック・ドビルパンはこの二重作戦に外見上の一貫性を与える任務を持った。大統領に信頼される彼は、政府の半分がテルアビブとワシントンを徹底的に支持するニコラ・サルコジに賛同するだけに一層器用に行動する必要があった。
ところが、シラク大統領の術策の範囲はシリアとの対話拒否によって狭められた。彼は自ら入り込んだ袋小路から、友人のスペイン人ホセ=ルイス・サバテロとイタリア人ロマノ・プロディのおかげで出ることができた。スペイン大統領はこの戦争に対して憤慨し、「イスラエルは間違って」おり国際法に違反していると断言した。(« O. Proximo.-Zapatero considera que Israel “se equivoca”al lanzar una “contraofensiva” generalizada en Libano y Gaza »Europa Press, 2006年7月14日)彼はレバノンへの攻撃が大中東再編成計画の一部であると確信しており、平和は全体的交渉によって実現するべきだと考える。彼の政府の外相ミゲル=アンヘル・モラティノスはシリア政府と接触を再開する。イタリア首相は怒りを買う言葉を避け、「武力使用のエスカレ-トを嘆く」。(« Prodi, deploriamo escalation uso forza da Israele » ANSA, 2006年7月14日 )プロディはアメリカの信用を多少は持っており、国際会議を開き見解を接近させることを提案した。
この会議は7月26日にローマで開かれることになった。交渉の場に招かれていないイスラエルはその前日、国連の機関をミサイル攻撃し、オ-ストリア、カナダ、中国、フィンランドの国籍を持つ国連軍兵士4人を殺害し、国際法を全く重視しないことを示した。いずれにせよ、イスラエル軍が現地で足踏み状態であり、ヒズボラの破壊に成功できないことは明白だった。アメリカ、イギリス、カナダにとって、これはNATOがイスラエルのテロリズム打倒に手を貸す必要があることを意味する。これはペンタゴンの当初の計画に一致する。イタリア、フランス、ロシア、スペインはその反対に、この紛争は軍事的解決が不可能であり、政治的解決を見出すべきだと考える。レバノン首相フアド・シニオラは7つの点に関する計画を提示した。彼は自国を防衛しているヒズボラを非武装化することは拒否する。フランス代表団は「シラク案」を提示した。NATO介入はせず、国連軍(FINUL)を強化するというものだ。(Liban : le plan Chirac pour sortir de la crise », Le Monde, 2006年7月27日)会議は一見何も決定しなかったように見えたが、南ヨ-ロッパとロシアは議論を移し、強化されたFINULの未来の任務についてのみ話し合われた。
レバノンでは風向きが変わる。イスラエル軍はヒズボラの拠点のある人口3万人のビント・ジュベイル市を占拠したと報じた。ゴラニ旅団の勝利は大西洋同盟主義メディアに賞賛された(ルモンド2006年7月26日など)。しかし、この情報は純粋なプロパガンダだった。Tsahalは兵力の不均衡にもかかわらずヒズボラの数十人の戦士により大きな損失を受け、7月29日の朝に町から撤退した。
7月30日、空爆で住居ビルが崩壊し28人の民間人が死亡した。悲劇はカナで起きた。10年前、イスラエル軍はここで国連の難民キャンプを爆撃し102人の民間人を殺した。(1996年4月18日カナの国連難民キャンプ爆撃に関する報告書Référence ONU : S/1996/337)ヒズボラはこの虐殺を象徴に掲げた。この虐殺は、イスラエルが抵抗運動に対して戦うのではなく民間人を逃避させているという事実の証明だった。ヒズボラのポスタ-のスロ-ガンがこれを要約する。「カナでイエスは水をワインに変えた。シオニストは水を血に変えた。」世界の動揺はあまりにも大きかったので、安全保障理事会は特別会議を開く。イスラエルは南部の民間人の避難を可能にするため1日間、爆撃を部分的に中断することに同意する。
ヒズボラは侵略者を押し返し犠牲者を救うだけでは満足しない。1日に150から200発のロケット弾をイスラエルへ発射する。イスラエルの爆撃力とは比較できないとはいえ、抵抗運動は重要な標的を複数破壊することに成功した。Tsahalの北軍の司令部、主要な伝達センタ-、弾薬補給に使われた飛行場もその中に含まれる。
一方でTsahalは抵抗運動の幹部に達することができない。戦争の初日から、ベイル-トの南地区にあるアルマナ-ルのスタジオと党の本部を爆撃したが、テレビは数分放送を中断したのち再開し、そこで製作されるのか、どうやって放送しているのか誰にもわからない。ハッサン・ナスララは定期的にテレビに出演しイスラエルを馬鹿にした。ヒズボラの指導者が破壊された建物の下の防空壕に隠れていると確信したイスラエル軍は、標的の上へ爆撃機を往来させ23トンの爆弾を投下させたが、無駄だった。そのような防空壕は「テロ対策専門家」の想像の中にのみ存在した。
最終的に、「仕事を終える」前は停戦を望まなかったイスラエルとアメリカの政府は勝つことができない戦争から名誉の撤退を行おうとした。8月10日、Tsahalの装甲車はキリスト教徒の都市マルジャユ-ンを攻撃しリタニ川に到達しようとした。ヒズボラの部隊はそこにはなかったが、そこに部下を送った。彼らは政教分離党(PSNS)と共産党の戦士に合流した。イスラエル軍は戦闘で13のメルカバを失い撤退した。100人ほどのイスラエル兵が閉じ込められ、捕虜になる危険があった。電話での接触の後、彼らはレバノンの憲兵の兵舎に避難し、アドナン・ダウド将軍に迎えられた。ダウド将軍は350人の部下とともに自らイスラエルの捕虜になり、国連軍に救助された。(« Les militaires israéliens détiennent 350 soldats et policiers libanais à Marjayoun »,Associated Press, 2006年8月10日、« Evacuation de soldats et civils libanais de Marjayoun », AFP, 2006年8月11日)
マルジャユ-ンの戦いは人々に衝撃を与えた。共同の訓練を受けなかった人々を統合させることは困難だが、それにも関わらず武装抵抗運動はヒズボラを超えてレバノン社会全体に広かる。それと同時に、レバノン兵は侵略者と友好関係を結んだ--ダウド将軍がイスラエル人とお茶を飲んでいる場面を写した映像がテレビで放映され、そのことを証明する。裏切りの問題を提起する映像である。ダウド将軍は直後に収監されるが、上官の命令に従っただけだと主張する、多くのオブザ-バ-がそれを認めるが、その上官とは誰かをあえて問うことはしない。世論は代理の内務大臣アフマド・ファトファトを疑う。ファトファトはそれを完全に否定するが、信用に値する説明を提供することはない。しかし、ファトファトがサアド・ハリリの恩恵を受けた者であり、ハリリの命令なしに率先してこのような措置を取ることはないことを皆が知っている。
8月5日、アメリカ政府は安全保障理事会で敵対関係の停止の見通しを述べるが、Tsahalが占領した地域を返還することには反対する。アラブ連盟とくにカタ-ル--国の大きさからは予想できないほどの強い外交を展開するに到ったカタ-ル—はアメリカに分別を説こうとする。8月11日、ホワイトハウスは譲歩する。安全保障理事会は敵対関係を停止させる決議1701を採決する。この決議は攻撃だけでなく防衛にも適用される停戦とは区別されねばならない。
イスラエルの砲兵隊はレバノンの廃墟の上を最後までしつこく攻撃する。2006年8月14日の現地時間午前2時に、武器の音は消える。朝の8時、敵対関係の停止が公式に有効となる。ヒズボラの幹部は避難民をすぐに南部に帰還させるべきか、公共施設の修復を先にするべきか話し合う。しかしこの議論は必要がなかった。
すでに数十万人の人々が、抉られた道路に出ていた。国中が渋滞になった。レバノン人は自分達が解放した自分達の土地を取り戻した。
人的・物質的損害
現在のところ(2007年)、軍事被害の数字を出すことは不可能である。しかし、その規模は分かっている。34日間にイスラエル軍は3万人を投入し、8000回の爆撃機遠征、1600回のヘリコプタ-遠征を行った。イスラエル軍は16万発の弾丸を発射し(うち32000発はクラスタ-爆弾すなわち子弾搭載)、8万トンの爆弾を投下し、不特定数のミサイルを発射した、一方で、ヒズボラが徴集できたのは1万人だけで、彼らには空軍もなく、海軍もない。ヒズボラはロケット弾を4000発だけ発射した(うち射程距離が50キロメ-トルを超えるものは50発、都市部に到ったものは900発)。
国連によれば、レバノンは1187人の民間人と105人の戦士を失った(正規軍兵士35人、ヒズボラのゲリラ62人、アマルの民兵8人)。百万人のレバノン人が移動し、1万5千戸が破壊された。重要な民間施設(飛行場、橋、道路、鉄道、発電所、浄水センタ-、工場)が全て損害を受けた。地域によっては住民の75パ-セントが失業した。イスラエルは民間人43人と戦士117人を失った。30万人のイスラエル人が移動し、数百の住居が被害を受けた。主要な民間施設は損害を受けなかった。
南部のジイエの発電所の石油タンクへの爆撃で、12から3万ドンの重油が海中に流れた(1999年のフランスでのErikaの事故と同じか2倍の量である)。「これまでは、大事故は大洋で起きたが、重油流出が閉じた海で起きたのはこれが最初である。幻想を抱いてはいけない。レバノンだけでなく、東地中海の全ての国々へ深刻な影響が及ぶだろう」とレバノンのヤクブ・サラフ環境大臣はコメントした。(« La marée noire au Liban : plus grande catastrophe écologique en Méditerranée », AFP, 2006年7月29日)イスラエルの課した海上封鎖が海への介入を妨害したのでなおさらである。幸いなことに、クウェ-トがすぐに凝結剤を送り、災害を制限した。それでも、レバノンとシリアの海岸150キロメ-トルが汚染された、
「平等と客観性」への配慮から、“西側 ”テレビはイスラエルの環境被害も報じた。田園地帯にロケット弾が落ちて火事になり、1200ヘクタ-ルの森(パリのブーロ-ニュの森の1.5倍)と7000ヘクタ-ルの牧草地が被害を受けた、と。(« Fires caused by Katyushas set nothern forests back 50 years » The Jerusalem Post 2006年8月8日)
Tsahalはあらゆる種類の弾薬を用い、それが停戦後も人々を殺し続けた。 (« Israël utilise des bombes prohibées internationalement(armée) », AFP, 2006年7月16日)「イスラエルによる白リン焼夷弾によるレバノンの村の爆撃は国際法への明らかな違反である。国際法はそのような爆弾を用いることを禁止する」とエミ-ル・ラフ-ド大統領は非難した。事実、この武器は民間人への使用が禁じられている。傷は広がり、死体は燃え続ける。この事実を否定するためのメディアキャンペ-ンを企画した後で、イスラエルはこれを使用したことを認めた。国連の分析者が証拠を提示する直前だった。 (« Israel says it used phosphorus shells in Lebanon » Reuters2006年10月22日)
安保理決議1701採択と停戦有効までの72時間の間にイスラエル砲兵隊は32000発の弾丸と1800発のクラスタ-ミサイルMLRSを発射した。レバノン南部の745の地点を「汚染する」ためだった。個々の弾には88の子弾が、個々のミサイル弾頭には644の子弾が含まれていた。40パーセントは爆発しなかった。つまり、停戦後も百万5千発の子弾が現場に存在することになる。(« L’attaque israélienne a transformé le Liban en un champ de mines » by S. Exc. Gébran Michel Soufran, Horizons et Débats, 2006年11月)
レバノン科学研究委員会の核物理学者モハマド・アリ=コベイシはヒアムで、未知の兵器による爆撃で作られた深さ3メ-トル、直径10メ- トルのクレ-タ-を調査した。彼は異常な放射線量を検知した。この場所はデイ・ウイリアムスによって調査され、クリス・バスビ-がサンプルを分析した。このクレ-タ-は濃縮ウランで汚染されていた。 (« Evidence of Enriched Uranium in guided weapons employed by the Israeli Military in Lebanon in July 2006, Preliminary Note» by Chris Busby et Dai Williams, Green Audit Research Note 6/2006, 2006年10月20日)それにも関わらず、国連の専門家はレバノンに異常な放射線量を見出さず、この場所を視察したかどうかを明らかにしていない。(« No Evidence of Radioactive Residue in Lebanon Post Conflict Assessment», Programme des Nations Unies pour
l’Environnement, 2006年11月7日)
軍事力の驚くべき不均衡にも関わらず、イスラエル軍は公式の戦争目的(捕虜になった二人の兵士の回収、テロリズム撲滅)を達成できなかっただけでなく、非公式の目的(レバノン南部から住民を追放すること、この地域を占領すること)も果たせなかった。このことは、公式目的が戦争によって達成されることは不可能であるという事実から説明される。二人の捕虜を回収するためには、エルハナン・タネンバウムの場合と同様、交換で十分だったのだ。“テロリズム撲滅”のためには、国際法を遵守するだけで十分だ。すなわち、シェバ農園から撤退し、以前の戦争の捕虜を解放し、地雷の地帯を地図を提出することだ。その逆に、国を破壊することで二人の兵士を回収できると考えるのは馬鹿げている。ヒズボラを住民の自衛のために不可欠な存在にすることによってヒズボラを追放できるはずはない。これらのことが明白になったところで、軍事作戦とその結果の詳細な分析に入ろう。
イスラエルによる爆撃の地点を示した地図。南レバノンは700kmにわたって完全に破壊された。他の地域の標的は経済的な標的あるいは住民が議会選挙でヒズボラに投票した地域である。
イスラエルによる輸送手段の破壊を示す地図
重油による汚染状況 衛星写真
軍事的・政治的総括
ダン・ハルツ将軍にとって、「針路変更」作戦はレバノンへ出来るだけ多くの破壊を被らせ、士気を失った住民がヒズボラに反旗を翻し、戦争の責任をヒズボラに課すようにすることが目的だった。これは1911年にイタリアの将軍ジュリオ・ドゥ-エが作った「高い高度からの戦略的爆撃」理論の実践である。ドゥ-エはアメリカの空軍にも影響を与えた。この理論は全く機能しなかった。第二次世界大戦の連合軍によるドレスデンと東京の空襲は、標的の国々を降伏させるどころか、犠牲となった住民の民族主義を強める結果になった。広島と長崎の原爆投下もこの効果を生まなかった。日本の天皇はすでに降伏を決定しており、アメリカは新兵器を実験するためそれを延長していたことが現在では分かっているからだ。それと同様に、レバノンへの大量爆撃は住民の士気を下げるどころか、内戦以来失われていた民族的感情を再生させた。レバノン人が落ち着きと決意をもって瓦礫を除去し国を再建する様子は非常に印象的である。
レバノン南部への連続空爆(カナの虐殺の後の休戦を除けば)は軍事力の不均衡により10万人の現地住民を呆然自失させ、陸軍が侵入する時に抵抗する意志を奪う目的があった。これはハ-ラン・K・ウルマンのShock and Awe(ショックと畏怖)理論の実践である。(Shock and Awe : Achieving Rapid Dominance, by Harlan K. Ulman and James P. Wide, National Defense University éd., 1996.)アメリカ空軍はこの理論を2003年にイラクで用いた。イラクでは、砲火の嵐はバグダ-ドの専制君主の周囲の特別部隊の士気を挫いたが、住民の愛国心は傷つかなかった。地上部隊は首都に入ることは容易にできたが、完全な制圧は決してできなかった。ウルマンは自分の戦略モデルがイラクでは正しく実践されておらず、正しく実践されればレバノン、シリア、イランで素晴らしい効果を発揮するだろうと主張した。しかし、レバノンでもこれは機能しなかった。地下室に隠れていたヒズボラのゲリラが、Tsahalの地上部隊が到着するやいなや姿を現した。
近代の軍隊の能力は異なる連隊の間の連携能力にかかっている。Tsahalは歴史的に陸軍であり、通信と司令の精密な手段を手に入れた。司令部はつねに現場の軍隊の明確な映像を持ち、それらを連携させることができる。ところが、公的には説明されていないいくつかの理由により、このシステムが誤りを犯した。司令部の持つ現場の実態の映像が誤っており、階級間、連隊間の通信が機能しなかった。全体的に混乱状態となった。指示もず輸送手段も与えられないまま連隊が派遣された。世界で最も装備を持つ軍隊として知られるTsahalがハイテクの最新技術を使いこなせなかったのは明白だ。この失敗の結果、調査委員会が作られた。
この事態の原因は、深い人的問題にある。Tsahalの力は職業軍人と予備兵の結合に存在する。職業軍人の部隊が現場で数日持ちこたえた後、大量の予備兵が記録的な速さで召集され、任務を引き継ぐ。過去20年間に渡る再編成において、新たな兵器に適応するための予備兵の養成が不十分だった。今日のイスラエルの若者は、もはやユダヤ部隊やハガナの戦士ではない。彼らの軍事的経験は占領地帯でのいくつかの迫害行為に限られる。教育水準は高く優秀な幹部に管轄されていても、彼らの養成は軍隊のアメリカ化についてゆけなかった。この欠如は短期間では解決できず、イスラエルを脆弱な状態に置く。
一方、レバノン側では、軍は内戦と国家消失後エミ-ル・ラフ-ド将軍によって再編成された。しかし、この長いプロセスは完成にはほど遠い。軍は相変わらずその名にふさわしい対空防衛を保有しない。必要不可欠な物資獲得のための投資を怠ったからだ。しかも、軍に関する合意が可能になるためには、各共同体に対し、この軍が国家のために用いられ、共同体間を分裂させるためには用いられないことを保証しなければならない。軍の構成はレバノン社会の17の共同体の割り当てを尊重しなくてはならず、そのことが構成を麻痺させる。イスラエル軍攻撃の間、軍は主に犠牲者の救助を行い、戦うことはほとんどなかった。領土の防衛は何よりも抵抗運動、この場合はヒズボラだけが行った。
ラフ-ド将軍の業績は、前もってこの状況を予見し、軍人と民兵の活動を連携させたことだろう。このために彼はレバノンにとって英雄になり、ワシントンとテルアビブにとって殺害すべき男になる。そのために、「民兵の非武装化」に関する議論はグロテスクになる。ヒズボラの戦士は国防手段の一部であり、これを国の軍隊に編入することは、軍隊が非共同体化されない限り不可能である。
ヒズボラの戦士は当初、イラン革命衛兵によって編成・武装され、2006年3月までレバノンに存在したシリア軍の援助を受けた。しかし、彼らはイランとシリアの部下では全くない。ゲリラの戦略はテヘランやダマスカスで準備されたものではなく、レバノン正規軍の将軍が考案したものだ。
ヒズボラの武器庫は6年かけて辛抱強く作られた。航空機がイランからシリアへ材料を運び、トラックがレバノンへそれを輸送した。また、イランの経済的支援により、ヒズボラは国際市場であらゆる補完物資を買うことができた。
敵対行為の間、ヒズボラは大量のカチュ-シャロケット弾を用いたが、蓄えの3分の1しか消費しなかった。さらに、中距離ミサイルを保有しており、これは今回使わなかった。イスラエル司令部はイスラエル軍の最初の72時間の空爆でこれらのミサイルの発射台がすべて破壊されたと主張するが、ヒズボラはイスラエル軍が破壊したのは“おとり”であったと述べている。単純に考えてもそれが正しそうだ。イスラエルがベイル-ト爆撃を再開しようとした時、ハッサン・ナスララは無傷のミサイルでテルアビブを撃つと予告し、オルメルト政府はそれを確かめる危険を冒すよりも計画を変えるほうを選んだ。
ヒズボラの軍事首脳部は、8月14日の時点で彼らがさらに11ヶ月戦いを続けるに十分の武器を持っていたと主張する。そうなると、決議1701が予定する武器禁輸措置は非現実的となる。実践的には、この措置の目的はヒズボラの武装を妨害するのではなく--武装はすでになされている—その武器を近代化することである。
シ-ア派の戦士の大多数は貧しい階級の出身で教育をあまり受けていない。抵抗運動は精巧な武器を操ることができるエンジニアを欠いている。しかし、イデオロギ-における強い団結のおかげで、この弱みが、古い物資とハイテクの独創的な結合において、長所となった。ヒズボラの防衛戦線はコ-ドつき電話で結ばれ、その会話は電子工学的に傍受が不可能だった。一方、彼らは最新のロケット発射機を持ち、高学歴の技師が中国製の複雑なミサイルを操り、イスラエル軍艦に命中させることに成功した。
ヒズボラの戦士に質問すると、彼らは自分達の力が信仰に基づくと熱心に言う。死ぬ覚悟ができていた彼らは、勝利の驚きを前にして、そのように物事を感じるのだ。イマムのム-サ・サドルと同様ヒズボラが社会問題を提起することで貧民に尊厳を返したと言うことは正しいだろう。さらに、占領に抵抗することで、ヒズボラは民族感情を再生させた。最後に、2000年のイスラエルの部分的撤退後、いかなる浄化をも禁じることで協力者への報復を諦め、市民平和への意志を示した。イスラム教の進歩・革命的概念に基づくこの長く辛抱強い政治事業が戦士達だけでなく国民のほぼ全てにこれほどの勇気を与えたのは確かだ。
この文脈において、攻撃における最大の驚きは、情報に関するものだ。ヒズボラの防衛建築物とミサイル倉庫の地図を持っていると信じていたイスラエル軍は彼らが誤った情報を与えられていたこと、彼らはいかなる情報も持っていなかったことを知った。攻撃の期間中、彼らの不運は続いた。二つの例が人々を驚かせた。
紛争の当初から、Tsahalは誘導弾でヒズボラの本部とアルマナ-ルのスタジオを爆撃した。この二つの建物は首都の庶民地区に存在し、二ブロックの建物に隔てられていた。奇襲を受けたにも関わらず、党とテレビの幹部は一人も死亡しなかった。番組は数分中断されただけだ。党の幹部が防空壕に避難したと確信したイスラエル軍は標的の上で爆撃機を何度も往来させ、燃料気化爆弾を使って地下に侵入し、建物をコンクリ-トの粉に変えた。しかし、無駄だった。
他方で、バールベックの近くのダル・アル=ヒクマのヒズボラの病院がヒズボラを支援するイラン革命衛兵を匿っておりハッサン・ナスララもその近くの家に隠れているという情報を軍事情報部アマンから受けたイスラエル軍は、8月1日に突撃攻撃を行う。200人からなる2連隊が地中海からヘリコプタ-でレバノン北部へ侵入した。低空飛行のジェット機の援護を受け、彼らは22時30分に病院を攻撃したが、戦士を見出さず、さらにハッサン・ナスララの家と思われる住居を攻撃して5人の人間を捕虜にした。彼らは撤退中に攻撃され、大きな損失を被った。彼らが捕獲したのは農民の一家で、ハッサン・ディブ・ナスララ(54歳)とハッサン・モハメド・ナスララ(14歳)が含まれた。情報は正確ではなかったのだ。レバノンの電話帳には32人のハッサン・ナスララが存在する。
その反対に、ヒズボラはリアルタイムでイスラエル軍司令部の指示を知り、翻訳してゲリラの部隊に伝えることに成功した。特に、戦場の軍隊の正確な描写を所有していた。この状況を説明するため、イスラエル軍の将校はレバノンはシリアとイランの支援を受け、暗号を解読して司令部の通信を傍受したという噂を流している。これはあまりにも信じ難い。現地で行われたインタビュ-では全く異なる現実が明らかになった。抵抗運動はイスラエル将校から情報を受け取っていたのだ。(ヒズボラの幹部と著者の対談、2006年8月)
これが最も重要な政治的ポイントである。これまで、自国に広がるアパルトヘイト政権に反対のイスラエル人は不服従を選んできた。さらに、民間標的を狙うことを拒否する飛行士の運動が存在した。今後は、イスラエルのアパルトヘイト反対者は自分達を、このシステムに反対するレバノン人の軍事的同胞と見なす。彼らは、ハッサン・ナスララが演説で、この攻撃がイスラエル対レバノンの戦争ではなく、シオニズム対反シオニズムの紛争だったと述べた時、これに同感した。
今日、この分析に同意し、政権を裏切ることで自国に奉仕すると考える反シオニストのイスラエル将校は数人しかいないだろう。この運動を、アパルトヘイト政権を裏切ることで南アフリカ共和国に奉仕すると考えナミビアで運動に参加したアフリカナ-将校のそれと比較するべきだ。
これらの将校の果敢さは根本的な変化に相当する。紛争の間を通じて、アルマナ-ルはイスラエル人のためにヘブライ語で番組を流した。イスラエル人の士気を下げるためではなく、動員するためである。これらの番組はイスラエル国営テレビよりも信頼に値すると判断され、イスラエル人は自国の記者よりも反シオニズム主義の番組を見て情報を得るほうを選んだ。(The Management of Israeli P R during the Second Lebanon War, by Udi Lebel, Ben Gurion University, 2006.)
このプロセスは後戻りが不可能であるということは、歴史が示した。あとはイスラエルがフレデリック・デクラ-クと同じくらい見識のある指導者を見出さなくてはならない。政権を倒すことで国を救い、地域に平和を回復させる能力のある指導者を。
イスラエル敗戦の影響
イスラエル首相エフ-ド・オルメルトは明白な事実を否定しようと努める。彼は攻撃決定の責任を取る。「もう一度やる必要があればやるでしょう。(……)あれは正しい決定でした。(……)7月12日のわが国の国境への攻撃とわが国の二人の兵士の誘拐が耐え難い状況を作りました。(……)空と地上の作戦によってロケット弾発射を止められると思ったことは一度もありません。私達の目的はヒズボラを攻撃し、国境から遠ざけ、レバノン軍が国境に配備されるようにすることで、レバノンの状況を変えることでした。」この文脈では我々は「多くの目的を達成した」と彼は続ける。耳を貸す者には誰でも、彼は繰り返して言う。「私達が戦争に勝ったという事実に疑いを持ちません。」しかし、国民はこの自己満足に同意しない。国民の49%が敗戦の責任は彼にあると考える。(« Popularity of Olmert, Peretz takes direct hits after war », by Gil Hoffman, The Jerusalem Post, 2006年8月17日)失敗の責任を取ることを拒否し、彼の党の大物もデモ隊に加わり、調査委員会設置を求める。追い詰められたオルメルトは自ら調査委員会を指名する。もう少しで最高裁判所に先を越されるところだった。(« A committee isn’t as powerful as a commission » by Dan Izenberg, The Jerusalem Post, 2006年9月18日)
戦略的爆撃の選択が後になって激しい批判を受けた。ダン・ハルツ将軍は前任者の一人から攻撃を受け-この前任者は、自分が空軍出身のイスラエル軍の最初で最後の参謀本部議長であると考える-、さらに25人の将軍が彼の辞任を求めた。面子を保つため、ハルツは贖罪のヤギを探した。彼はテレビで怒りを表明した特別装甲部隊の大佐に懲戒を与えた(第七連隊のアモン・エシェル大佐は10チャンネルで上官への批判を行った)。辞任が相次いだ。ウディ・アダム将軍(北部地帯の軍の責任者)、ガル・ヒルシュ将軍(8人の兵士を失い2人を捕虜にされたガリラヤ部隊の司令官)など。
イスラエル軍は動揺した。失敗の責任追及に加え、スキャンダルが勃発した。イスラエル大統領モシェ・カツァブは強姦と性的ハラスメント、非合法的傍聴、司法妨害と背任行為の容疑で追及される。(« Justice Ministry, police wind up Katsav probe. ; State Attorney sends investigators back for last minute ; questioning” by Rebecca Anna Stoil and Dan Izenberg, The Jerusalem Post, 2006年10月10日)汚職防止ナンバ-2であるはずの人物は、アリエル・シャロン家に関する調査を永久に行わないと誓うことで自己の地位を手に入れていた。国会の国防委員会議長は背任、汚職、詐欺、背信容疑で追及される。エフ-ド・オルメルト自身も内部者取引の予備調査の対象になった。ある銀行の民営化の際、1億から2億5千万ドルを受け取ったと言われる。ダン・ハルツ将軍も、7月12日の朝、攻撃命令を出しながら投機を行ったという。
足元の地盤が崩れるのを感じながらエフ-ド・オルメルトは政教分離派と宗教家の極右を含めて多数派を増加させた。ナタン・シャランスキ-はカツァブ大統領が収監された場合に代りを務めないかという提案を断った。ノーベル文学賞受賞作家エリ・ヴィ-ゼルは大統領の座がまだ空いていないうちからその地位を狙っている。
オルメルトは最終的に政教分離極右の11人の議員を味方につけ、リーダ-のアヴィグドル・リ-ベルマンを政府に入れた。その際、労働党との国民統合を巻き添えにし、労働党の党首アミル・ペレスを辞任に追い込んだ。ペレスは国防大臣だったため、敗戦のイメ-ジを共に運び去るという利点があった。
政治的術策を超えて、この動きは一つの段階となった。イスラエルは過去を忘れ、イランに対する外交的戦いを開始する。エルサレム公共問題センタ-(JCPA : Jerusalem Center for Public Affairs)はイランを国連から追放するためのキャンペ-ンを準備する。彼らは二つの偽情報を利用する。ブエノスアイレスのテロにテヘランが関与していたという主張と、アフマディネジャド大統領が述べたとされる反ユダヤ主義的発言である。これを実現するため、JCPAはエリ・ヴィーゼル、カナダのユダヤ人で元議会議長のアーウィン・コトラ-、アメリカの弁護士アラン・ダ-ショウィッツを採用する。(« Wiesel, Cotler and Dershowitz to join anti-Iran campaign. Aim to oust Iran from UN » by Hilary Leila Kreiger, The Jerusalem Post, 2006年9月13日)シャレム・センタ-(Shalem Center)は対イラン戦争扇動キャンペ-ンを準備し、ナタン・シャランスキ-と元参謀本部議長モシェ・ヤアロンを参加させる。アヴィグドル・リ-ベルマンに特別予算が委託される。「戦略問題」-対イラン戦争へのイスラエル参加の準備を指す政治的に正しい表現-のためである。すべてが11月11日、12日にロサンゼルスで、エフ-ド・オルメルトとベンヤミン・ネタニヤフから統一ユダヤ共同体の総会(United Jewish Communities’ General Assembly)へ伝えられた。敗戦を忘れさせるには新たな戦争より良いものはない。
不思議なことに、軍事攻撃の費用にも関わらず、また34日間国が麻痺したにも関わらずイスラエルの経済は弱まることがなかった。国際投資家にとってアメリカが紛争の司令者であり、今後もユダヤ人国家を保護し続けることは明白だ。そうなれば、武器がどのように使われようが構わない。2006年の最初の10ヶ月で外国からの投資は171億ドルに上り、2005年全体に比べて72%上昇した。「ニュ-ヨ-クで買われたイスラエル企業の株の総額は—ナスダックで上場された約100企業について-2005年に比べ6.4倍増加し82億4千万ドルに到った」とAFPは報じている。2006年初頭以来、シェケルはドルに対し6.7%上昇した。「イスラエル政府はニュ-ヨ-クで十億ドルの借金を集めた。10年国債(……)は5.582%の利益をもたらすだろう。アメリカからの10年間の借金より0.98%の増加である」とIsrael Business Arenaは報じている。国際通貨基金は次のように結論する。「イスラエル経済は、最近の政治・治安の展開に関連する不安を考慮すると、非常に良い成績を上げた。」
それに対し、レバノン経済は悲惨なものだ。期待された5%の成長率は一掃され、わずかな後退となった。破壊された物資は36億ドルと推定される。2,3の主要な分野が打撃を受けた。一方で港がイスラエル軍に綿密に破壊された。これを命じたのは国防大臣だが、この人物は元イスラエル港湾組合長であり、競争相手の経済施設を除去した。他方で、重油流出が観光客の再訪を妨げる。しかし、レバノンの貧困化は全てのレバノン人の貧困化を意味するわけではない。ハリリ派は建設会社や銀行を所有するため、再建で大儲けするだろう。前の内戦でも同様だった。
最初の再建でレバノンは世界最大の債務国になった。イスラエル攻撃の前に、386億ドルすなわち国内総生産の180%の負債があった。ストックホルムで開かれる資金提供国の会議で約束された援助金は12億ドルに上る。クウェ-トは5億ドル、サウジアラビアは10億ドルをレバノン中央銀行に預けた。しかし、各国の思惑は異なる。レバノン人を援助するために行った国もあれば、ハリリ派を政権に維持することをレバノンに強制するために援助した国もある。
しかしながら、経済学者カマル・ハムダンが強調するように、「経済立て直しは国の再建だけにとどまらない。生産流通が妨げられている。戦争前の状態に戻るのではなく、成長を保証し正しく援助金を使うため、戦争前から予定されていた制度と経済の改革を始めるべきだ。」
再建は橋を修理し家を建てることに限られてはならない。経済の規則を再定義し、ハリリ家の顧客主義のシステムを終らせねばならない。
敵対行為が終わるとすぐに、ヒズボラは家を失った家族に援助を提供した。誰でも、隣人による証明書を添付した申請書を提出すれば家の修理のための現金を受け取ることができ、13000ドルに上る援助が受けられた。イランイスラム共和国がその資金を寄付した。資金はSaderat銀行を経由した。アメリカはこの銀行をただちに国際銀行システムから除名し、「国際テロ支援」を行っていると非難した。(Emerging Markets 2006年9月16日におけるイラン中央銀行頭取のインタビュ-)
フアド・シニオラ政府は対応することなくこれを見守っていたが、国家の不備がヒズボラの利になると理解し、援助を提供することにした。計算ずくからではなく習慣から、政府はハリリ派の受益者に奉仕することから始めた。
政治面から見ると、紛争中に、制度の正当性が、制度の活動によって問題視され、あるいは強化された。政府は民間人を守ることができなかった。ハリリ派の財産の管理者である首相フアド・シニオラは政治家としての役割を全うすることはなかった。事件の大きさに狼狽しているように見えた。冷静さを失い、彼はアラブ連盟加盟国の大使達の前で泣き崩れた。この日まで、彼は演説で「抵抗」という言葉を使ったことがなかった。閣僚の中には疑わし行動を取る者もあった。誰がマルジャユーンの兵舎の司令官の将軍に降伏するよう命じたのか、相変わらず知られていない。その反対に、アメリカとフランスが当選に抗議したエミ-ル・ラフ-ド共和国大統領は国家と抵抗運動と調整者となり、その点で国家の保証人に見えた。
世論は疑いを与えない。シニオラは大勢のボディガ-ドに警護されてさえ、破壊された地帯を訪れる勇気がない。群衆の罵倒が怖いのだ。ラフ-ドは外出するたびに歓呼で迎えられた。
政党の正当性も同様に変わった。国会の多数派は信頼を失った。サ-ド・ハリリ(未来潮流)は紛争の間外国に逃げた。何度も否定されてはいるが、爆撃の間イスラエルに赴いて抵抗運動の場所をイスラエルに教えようとしていたという噂が根強く残っている。予告なしにサウジ人宗主から自らを解放した彼は公然とアメリカに奉仕し、ヒズボラを絶えず中傷する。最終的に、フランスが提供したヘリコプタ-でベイル-トに戻ってきた。ワリド・ジョンブラット(ドゥル-ズ派社会党)はフランスでイスラエル労働党議員コレット・アヴィタルと対談した。アヴィタルはイスラエル攻撃の支持を求めに欧州に来ていた。ジョンブラットは対談でシリアを激しく罵った-シリアは20万人の避難民を受け入れ抵抗を支持したにも関わらず。
ヒズボラはその反対に国の守り手として、国家の不備を補うのに十分組織された存在に見えた。再建に関してもそれが言える。ミシェル・アウンの自由愛国潮流、アリ・カンソのPSNS、首長タラルのレバノン民主党、共産党、ナビブ・ベリのアマル、その他の派閥がヒズボラと結束した。
ここでも、世論の立場は明白である。議会選挙があれば、3月14日連合(あるいはミシェル・アウンが離党した後のCPL)は10-25%の票しか獲得できないだろう。
不当かつ非合法的な政府
武力紛争が終ると、権力は勝利者の手に移るものだ。しかし、レバノンには移らない。フアド・シニオラは自己の任期の合法性を基盤にして、新たな選挙を計画することも、政府を改編し国を救った人々の代表者を組み込むことも拒否する。彼は、中東で革命党が政権につくのを恐れる国際金融の利益の番犬の役割を演じる。(« Fouad Siniora, soutenu par l’Occident, veut aller vite en renforçant l’Etat »,AFP, 2006年9月8日)「ヒズボラとその長ナスララに対して戦う唯一の方法はフアド・シニオラの政府を支援することだ。(……)レバノン現首相にレバノン再建の手段を与えねばならない。南レバノンの住民に隣国からの資金を用いてナスララがこれを行っていると信じさせておいてはならない」とフランス外相フィリップ・ドゥスト=ブラジーは断言する。(Grand Jury RTL- Le Figaro –LCI での対談、2006年9月24日)
10月30日、国会のヒズボラ代表責任者モハメド・ラアドは、もし首相がさらに2週間、戦争の政治的教訓を引き出さないことに固執するならば、反対派は全ての正当手段を用いて彼を屈服させると述べた。ホワイトハウスが直ちにこれに対応し、宣言する。「シリアとイランの政府、ヒズボラとその同盟者達が民主主義的に選出されたフアド・シニオラのレバノン政府を倒す準備をしているという証拠がますます増えていることに、我々はますます懸念を深める。」(« U.S. Reports Plot to Topple Beirut Leaders » by David E. Danger and Michael Slackman, The New York Times、2006年11月2日)
11月11日、シニオラが閣僚会議にラフィク・ハリリの暗殺者を罰するための国際法廷の計画を可決させる意図を発表した時、危機が起こった。政治的な道具として考案されたこの法廷はレバノンの複数の共同体を代表せず、メヘリスの調査と同じ誤りを犯す可能性があった。シ-ア派の閣僚は全員辞任した。すなわちヒズボラのメンバ-が二人、アマルのメンバ-が二人、独立派の人物が一人である。(Talal Sahili(農業) ;Mohammed Khalifeh(保健),Faouzi Salloukh(外務),Mohammed Fneish(エネルギ-・水)Trad Hamadeh(労働))彼らの辞任で政府は失墜するはずだった。憲法は「政府形成においては各共同体が平等に代表されるべきである」と述べている。しかし、首相はをそれを無視し、彼らの決定を拒否すると発表した。
制度の保証者として共和国大統領は声明を出す。「ラフ-ド大統領はフアド・シニオラ首相に彼の政府が正当性を失い、今後閣僚会議は憲法違反で無価値となると告げた。」
シニオラとその仲間はサ-ド・ハリリの豪邸で協議する。会議の結果、派閥のリ-ダ-はこう宣言する。「これらの辞任は偶然の出来事ではない。(……)国際法廷の形成を拒否するためだ。(……)これはレバノンにおける正当性を倒し、寄付国の会議を破壊し法廷を無効にしてかつての委任統治下におくためのシリアとイランの陰謀だ。(……)シリア政府と大統領(ラフ-ド)がラフィク・ハリリを再び殺すために考え出した計画だ。」(« March 14 points finger at Tehran, Damascus ; Hariri says resignation of 5 shiite ministers ‘was not a coincidence’ » by Leila Hatoum, Daily Star, 2006年11月14日)
ギリシア正教会を代表する閣僚も辞任した。
シニオラとその仲間達は相変わらず聞く耳を持たない。彼らは大急ぎで閣僚会議を開いた。6人の閣僚と共和国大統領が欠席していたにも関わらず、定足数には達していたので、国連が特別法廷を作ることを許可する条約を採択した。これはさらに国会で三分の二の多数決で可決され―これは極めて不可能に思われる―共和国大統領に批准されることが義務付けられている。
元首相で内政の老賢者であるサリム・エル=ホスは後任者に理性を説く。「国民的不均衡を持つ政府において共存の条件が満たされるだろうか?否だ。レバノンの政治会議場で多くの閣僚が欠席しているときに、合意に少しでも意味があるだろうか?否だ。」
ハッサン・ナスララは状況を要約する。「危機脱出のために二つの道がある。全ての政治党派を参加させる国民統合政府を作るか、それとも議会選挙を早めるかだ。」(« Crise : Nasrallah appelle à un cabinet d’union ou à des élections anticipées »,AFP, 11月19日)しかし、アメリカとフランス政府の一部はハリリ派の強硬策を支持する。ハリリ派は憲法に違反し、国民主権を無視し、少数派の圧政に対して民主主義を守ると厚かましくも主張する。(« Intervew : Siniora rejette la “tyrannie de la minorité”libanaise »by Alistair Lyon and Tom Perry, Reuters, 2006年11月14日)
国会多数派のリーダ-、サミル・ギアギアは、会議が定足数に達するのを妨害するため、反対派が3人の暗殺を6人の辞任に付け加える可能性があると述べた。(« Liban : Geagea craint que des ministres soient assassinés », Reuters, 2006年11月17日)
11月21日の午後早く、産業大臣ピエ-ル・ジュマイエルの車が攻撃を受けた。彼は銃撃戦で死亡した。殺人者達はキリスト教地区に姿を消した。サ-ド・ハリリはアメリカのCNNで直ちに宣言する。「杉の革命が攻撃を受けた。(……)今日、民主的で自由なレバノンの最も熱心な支持者の一人が殺された。我々はシリアの手がこれら全ての背後に存在すると考える。」
ピエ-ル・ジュマイエル暗殺はレバノンと世界に衝撃を与えた。イギリス政府は悲嘆にくれると述べ、ワシントンはテロ行為だと述べ、パリは不安定化の意図を非難した。CNNで米国連大使ジョン・ボルトンは事件をコメントする。「2週間前にホワイトハウスはまもなくシリアとイランがヒズボラを通じてレバノンでクーデタ-を起すと予告していた。(……)今日のベイル-トでの悲劇的事件ほど法廷をできるだけ早く設置する必要性を証明するものはない。」ボルトンはそう言うと安全保障理事会に合流し、安保理は討論もなしに国連事務総長に“法廷”設置のプロセスを続ける許可を与えた。
ここで説明が必要になる。1936年に、アドルフ・ヒットラ-の友人で、暗殺されたジュマイエルの祖父であるピエ-ル・ジュマイエルはファランヘ党を作った。これはキリスト教ファシスト政党で、プリモ・ド・リヴェラのスペインのファランヘ党をモデルにしている。ピエ-ルにはアミンとバシルという二人の息子があった。バシルはパレスチナ人大量虐殺の計画者で、1982年にイスラエル占領軍から共和国大統領の座につけられ、直後に政教分離左派に暗殺された。直ちに兄アミンが代わりに大統領となり、イスラエルと平和条約を結ぶ。自分の党に囚われ、彼自身の開放性にも関わらず市民平和を回復できなかった彼は、自分の民兵(レバノンの力)を制圧できなくなり、それが過激派のサミル・ギアギアの利となった。アミン・ジュマイエルは諦めて12年間亡命するほうを選んだ。彼の息子が家の伝統を継いだが、思想からではなく派閥主義からだった。2005年1月、メディアがファランヘ党の晩餐会での彼の発言を報じ、古い悪魔が目を覚ました。シニオラ政府の産業大臣は“マロン民族”がイスラム教徒より優れていると述べ、「我々が多数派であるということは、我々の質が高いということだ」と結論する。他方で、サミル・ギアギアが逮捕され、1994年に内戦中の様々な犯罪について断罪される。正義よりも報復を重視した不平等な裁判で彼は終身刑を言い渡されたが2005年1月“杉の革命”由来の新国会により恩赦を受けた。それ以来、彼はマロン派極右の制圧権をめぐってピエ-ル・ジュマイエルとライバル関係にあった。
分析家アイマン・アブデルヌ-ルが指摘したように、「国際法廷設置が決定されるはずの国連安保理会議の数時間前に暗殺が起きたという事実は二つの事件の間の関係について問題を提起する。この殺害はシリアの利益に反する。レバノンでのシリア支持者特にヒズボラの予告した国民総動員の動きを妨げ、それらは今後不可能になるからだ。」その反対に、ピエ-ル・ジュマイエルの死はアメリカとサミル・ゲアゲアの個人的利益に供する。
いずれにせよ、憲法に関する危機は続いている。服喪の時期が過ぎ、政府は相変わらず批判を受ける。12月1日、80万人の巨大デモがベイル-トの通りを埋め尽くした。一人の演説者が集まった群衆に語る。反対派の代弁者ミシェル・アウン将軍である。レバノン首相府の前でシットインが行われる。5000人の人々が不当な政府が退去するまで交代しながらシットインを続ける。
近東の平和を建て直す
イスラエルの攻撃の間、また攻撃が終った後、多くの国家がレバノンを守ろうとした。敵対行為の初期から各国首脳は“即時停戦”と仲裁のための軍隊派遣を呼びかけた。しかし、この計画はただの身振りにすぎなかった。60年も昔からの紛争の根本的な原因を無視して虐殺を止めることだけを目的としていた。実際は、いかなる国も、それが大国であろうと、選択肢はない。アメリカとの対決を想定できる国はないからだ。
最終的にはレバノン抵抗運動がイスラエルと首謀国のアメリカに攻撃中断を余儀なくさせた。停戦ではなく、「敵対行為の停止」であって、これによりイスラエル軍は何も約束しない。彼らは主観的な理由でいつでも攻撃を再開できる。アメリカのジョン・ボルトン大使はフランスの大使ジャン=マルク・ドラサブリエ-ルに決議内容を指示し、ジャック・シラクは眉をひそめることもせず保証した。この決議がレバノン南部のイスラエル占領維持を予定していたにも関わらずである。修正された決議1701がイスラエル軍に撤退を求め、シェバ農園の問題やレバノン人捕虜、あるいは地雷除去の問題を提起するためには、カタ-ルやアラブ首長国連邦などの微小国家の手練が必要だった。
決議は結果的にイスラエルの攻撃を非難せず、そのかわりに、シニオラ政府を援助し南部の抵抗運動を武装解除し、新たな武器移送を妨害するために国境を監視するための15000人の多国籍軍派遣を予定する。“国際社会”はイスラエル軍を撤退させ国民軍に防衛権を独占させることでレバノン政府の主権を強化すると主張する。実際は、“国際社会”はオルメルト政府の面子を立て、軍事的失敗から救い、イスラエル戦争の目的をシニオラ政府が非暴力的に進めるよう援助することになる。ヒズボラのような革命党が政権についてこの地域での社会的民主的要求を激化させることを多くの国が恐れているからだ。
アメリカの脅しの前に、国際法を適用させることを諦めた大国は二枚舌を使った。戦場に残されたロシア製の弾薬がコピ-製品であるというロシアの主張を疑うことができる。ロシア政府は敵対行為の間ヒズボラに武器を補給した可能性がある。ヒズボラの中にミサイルYingji YJ-2を操る資格を持つ人間がいたということも信じがたい。パレスチナのハマスとすでに関係を持つ中国政府が、イスラエルの軍艦に損害を与えるため、抵抗運動に技術顧問を送った可能性が高い。最後に、フランスが設置した大掛かりなフランス人避難措置についても疑わしい。フランス政府は抵抗運動の指導者を避難させたに違いない。イスラエルはレバノンで彼らを暗殺しようとしても無駄だった。
フランスは国連レバノン暫定軍の指揮権を得たため、ドゴ-ル主義者のミシェル・アリヨ=マリ-は国連軍の任務を明確化した。彼女はイスラエルへの対抗措置を回復させるように人材・機材を選んだ。国連軍はヒズボラによる新たな防衛線の再建を保護した。掩蔽壕は武装してはならない--今のところは--という条件で。フランスの遠征軍はルクレ-ク戦車を備え、メルカヴァに対抗でき、イスラエルの戦闘機を撃墜できる対空砲台を持つ。人材に関しては、アフリカでイスラエル軍に対して戦った人々が選ばれた。数年前からフランスとイスラエルは秘密戦争を繰り広げており、コ-トジボワ-ルで最近の戦いが行われた、イスラエルの無人機とウクライナ-イスラエルの戦闘機操縦者が2004年11月6日、ブアケのフランス軍基地を攻撃し、死者9人、負傷者37人が出た。レバノンのイスラエル占領軍の元協力者がロラン・グバグボ大統領の補佐官としてアビジャンの銃撃戦を計画した。フランス人が存在したイヴォワ-ル・ホテルの屋根からイスラエル人の狙撃者が群集に発砲し、激しい戦闘を引き起こし、多くの死者が出た(2004年11月7日)。
多くの事件でレバノン暫定軍のフランス軍とイスラエル空軍が対抗したが、これらの挑発行為への報復はされていない。
シリア軍撤退を推進したフランスがかつてのシリアの地位を得てレバノンの安全保障に務めることになった。
決議1701はすべての責任をレバノン政府に負わせる。この役割を、イスラエルの利益の番犬となったフアド・シニオラが演じることに同意した。その後には、レバノン国民と政府との間の力くらべが待っている。アメリカは議会選挙を妨害しシニオラの政権維持を保証するため出来る限りのことを—必要とあらば武力に頼ることさえする。
イスラエル司令部は敗戦を拒否し報復を夢見る。将軍達は“第二ラウンド”、あるいはシリア攻撃やイラン攻撃を支持する宣言を繰り返す。この暴力の連鎖を停止させることが緊急に必要である。その解決法は知られている。
第一に、正義なき平和はない。イスラエルとパレスチナにおける差別を終らせるべきだ。これがイスラエルへの敵対行為とイスラエル拡張主義への原因だからだ。国連総会はシオニズム非難を繰り返すべきだ。南アフリカのアパルトヘイトに対して経済制裁が行われたように、シオニスト政権への経済制裁措置が取られるべきだ。さもなければ、国際市民社会がボイコットを企画するべきだ。
第二に、国民主権のないところに平和は実現しない。国連総会は60年前の決定にも関わらずパレスチナ国家が作られなかったことを認めるべきだ。国連はイスラエル-パレスチナという単一国家を推進するべきだ。一人一票の民主的原則に基づき、現在隣国に避難している無国籍のパレスチナ人すべてをそこに含めるべきだ。レバノンでは選挙を実施し、代表的国会・政府を編成するべきだ。宗派システムからの移行期間を終らせ、シ-ア派抵抗運動が国民軍に編入できるようにするべきだ。
第三に、国家主権なしに平和は実現しない。1991年のマドリ―ド会議に似た国際会議の枠組みで、この地域の全ての国家により全体的平和にむけた交渉が行われるべきだ。その際、国際社会がこの地域の様々な問題解決に取り組むべきだ。ゴラン高原とシェバ農園のシリアへの返還、飲料水の共同管理、両国の捕虜解放、地雷除去など。また、ガザとヨルダン川西岸地区およびレバノンの再建の資金を提供するべきだ。
つづく